出自と経歴
- 顔衎、字は祖徳、兗州曲阜の人。自ら兗国公の四十五世孫という。少くして学に苦しみ『左氏春秋』を治め、後梁龍徳年間に及第、北海主簿に授けられ、治績により臨済令に転じた。臨済には淫祠が多く、針姑廟は里人が篤く奉じていたが、衎は着任後これを焼いた。後唐天成年間、鄒平令となる。天平を鎮していた符習は武臣の廉慎な者で、属邑に聚斂して献賀することのないよう命じていたが、衎はその書を知らずに従来通りに行い、吏に訴えられた。習は衎を召して笞刑を科したが、幕客・軍吏はこれを恥辱とし、正しい人物への処遇でないとして、習も後悔し観察推官に表し、前の事を塞いだ。長興初年、太常博士を拝したが、習が力を尽くして留めた。習が致仕した後、衎は東に帰り親を養った。
- 房知温が青州を鎮すると再び幕下に辟された。知温は険愎で厚斂し不法が多かったが、衎はしばしばこれを諌め、その害を避けなかった。後晋高祖が洛陽に入った際、知温が兵力を恃み驕っていたのを衎が入貢するよう勧め、知温が善終を得たのは衎の力によるという。知温の諸子は不才であったが、衎は家財十万余を進上するよう勧め、高祖はこれを嘉し功を衎に帰した。知温の子の彦儒は沂州刺史を授けられ、衎は殿中侍御史を拝し都官員外郎に遷り、東都留守判官・河陽三城節度副使・検校左庶子知州事を充てた。半年ほどして父が青州で風痺の疾にあると聞き、衎は官を奏せず棄てて去り、疾に侍して仕官の意を持たず、歳余で父の疾が癒えぬまま自ら抱きかかえて世話し、少しも倦むことがなかった。
- 高祖はこれを聞き工部郎中・枢密直学士に召したが、辞して「私は何の才もなく、望達を誤り得たに過ぎません。臣を放って私養を遂げさせてください」と請うた。高祖は「朕自ら卿が他人の推薦によるのでないことを知っている」と述べたが、まもなく枢密院を廃し本官のまま奉朝請とし、年を越えて上表し再び侍養を請い、青州行営司馬を授けられた。父の喪に丁って哀毀甚だしく、まもなく駕部郎中・鹽鐵判官に召されたが母の老いを理由に固辞、詔により本官に留められた。まもなく天平軍節度副使に出た。開運末年、左諫議大夫を授けられ河南府を権判、御史中丞を拝した。喪乱の後、朝綱が振るわぬ中、衎は執憲し風采があり、「除御史したばかりの者がすぐ外藩の賓佐に転じ、また私事で外任を求める者が礼を欠き、風憲の体を失っている。これを放置すれば四方が朝廷を軽んじるようになろう。今後、藩鎮の幕僚を台官に任じてはならず、親王・宰相の出鎮であっても賓佐に充ててはならず、制勅による勘事でなければ京を出てはならない」と上言し、辟召入幕は従来通りとする以外は聞き入れられた。
- 侍養を求める表を再び上げ、戸部侍郎に改められたが、衎はさらに罷免を乞い、詔で褒許され母とともに東帰した。後漢乾祐末年、喪に丁り服除後、詔で鄆州の高行周が赴闕を送るよう命じたが、衎は足疾を理由に至らなかった。後周広順初年、尚書右丞に起用され、まもなく端明殿学士を充てる。太祖が兖州を征討し城下に駐屯した際、衎を派して曲阜の文宣王廟に祠らせ、城が平定されると衎に権知州事を命じた。朝廷に帰り開封を権知した際、王□が権を握っており、衎は陳観とともにその引用するところとなったが、□が敗れると観は左遷され、衎も職を罷められ兵部侍郎を守った。顕徳初年、上表して解官を求め工部尚書で致仕して郷里に還り、台閣縉紳が都門外で祖餞し時人はこれを栄とした。建隆三(962)年春、七十四歳で家に卒した。衎は章句を守り文藻には乏しかったが、諒直孝悌で時に推された。