宋史卷二百六十八 列傳第二十七 張遜
博州高唐の人(?–995年)。太宗が晋邸にあった頃から仕え、交易の利で国庫を助ける策を献じて重用され、樞密副使・知院事にまで昇った。理財に優れたが猜疑嫉妬を免れず、寇準との不和で左降された。李順の乱では江陵で反乱計画を摘発し功を挙げた。
張遜
- 博州高唐の人。数歳で父を失い叔父の職方員外郎張幹に養われ、後に母に従って魏仁浦の家に帰った。駙馬都尉咸信の異父弟である。太宗が晋邸にあった際、帳下に召し隷させた。太平興国初、左班殿直に補し太原征討に従い、帰還後文思副使に遷り、再び香薬庫使に遷る。
- 嶺南平定後、交阯が毎年入貢し関市を通じ、海商が船を浮かべて外国物を販売、闍婆・三仏斉・渤泥・占城の諸国も毎年朝貢に至り、犀象・香薬・珍異が府庫に充溢した。遜は京師に榷易署を置き価格を少し上げて商人が金帛で買い入れ販売することを認めれば、年間銭50万緡を得て経費を助けられると請い、太宗はこれを許した。1年で果たして30万緡を得、以後毎年増加し50万に至った。
- 雍熙2年(985年)、その功により媯州刺史を領し、雍熙3年(986年)、安忠と共に東上閤門使に命じられる。数か月後、許仲宣が判度支を罷されたため、遜が度支使となった。端拱初、塩鉄使に遷る。端拱2年(989年)、宣徽北院使・簽署樞密院事を授かり、まもなく樞密副使・知院事を兼ねた。
- 同僚の寇準と不和で、奏事のたびにしばしば矛盾した。ある日、遜らが夜遅く私邸に帰る途中、準は温仲舒と轡を並べていたが、狂人が馬首を迎えて拝礼し「万歳」を叫ぶ事件があった。街使王賓はもと遜と同じく晋邸に仕えた仲であり、遜がかつて推薦して親しく交わっていた。王賓はこの「民が準を迎えて万歳を呼んだ」件を上奏し、準は自ら「実際には仲舒と同行していただけ」と弁明した。これは遜が王賓に単独で上奏させ臣を斥け言辞をいずれも厳しくしたもので、互いに私事を暴き立てあった。太宗はこれを嫌い詔で厳しく責め、遜は左降されて右領軍衛将軍に、準も罷職された。
- 判右金吾街仗の蔡玉が富人の子を州の大校と偽って上奏し黜官された際、遜がその職を代掌するよう命じられた。西蜀で李順の乱が起こり、水陸から軍を進めて討伐する詔が出され、荊渚がその要害であるとして遜は右驍衛大将軍・知江陵府に任じられ、銭200万・白金3千両を賜った。
- 着任すると、峡路諸漕の卒数千人が江陵に集結しており、蜀の賊に呼応して変を謀っているとの告発があった。府中では皆殺しにしようとする議もあったが、遜は首謀者の楊承進ら21人のみを捕らえ市で斬り、残りの党与には親しく慰撫を加え、これを速やかに上奏した。太宗はこれを嘉した。詔でその卒を州郡に分配し、数か月後、遜は卒去。享年56。至道元年(995年)のことであった。桂州観察使を贈られ京師に帰葬された。
- 遜は小心謹慎で、攀附(有力者への追随)によって貴顕に至ったにすぎず、訏謀献替(大きな謀策や進言)の功績は聞かれない。子の敏中は初め供奉官に補され、遜が宣徽にあった折「かつて文業を修めていたので改秩を願う」と上表し大理寺丞に換わり比部郎中まで累進した。次子の虚中は宗室申国公の娘を娶り供奉官・閤門祗候に至った。敏中の子の先は進士に及第した。