柴禹錫
- 字は元圭。大名の人。若い頃、ある客がこれを見て「そなたの資質は非凡、経術で輔けられれば必ず将相に至るだろう」と評し、禹錫はこれにより学問に留意するようになった。太宗が晋邸にあった頃、応対に巧みで給事となった。太平興国初、供奉官を授かり、太平興国3年(978年)、翰林副使に改まり如京使に遷り翰林司を掌り毎夜宿直した。帝は藩府時代の旧僚として外事をしばしば諮った。
- 宣徽北院使に遷り宝積坊に邸宅を賜る。秦王廷美の陰謀を告発した功により樞密副使に抜擢され、1年後に南院使に転じる。服勞(勤務)が久しくいよいよ勤敏を加えた。
- 雍熙中、宮城の拡張が議された際、禹錫は敷地内に別業(別荘)を持ち官邸との交換を請うたため、帝はこれを薄情とみなした。また宰相宋琪と厚く親しんでいたが、広州の徐休復が転運使王延範の不軌の状を密奏し「大臣に依附しているため誰も動揺させられない」と述べた際、帝が琪と禹錫にこの延範がどんな人物か問うと、延範は琪の妻の遠縁でもあり、二人はその忠勤を弁護した。
- 帝は二人の結託を疑いさらに不快感を強めた。禹錫はまた琪のために盧多遜の旧邸を求めたため、帝はその朋比(結託)をますます嫌ったが、琪が詼諧(冗談)を理由に罷相された際にはあからさまにこれを言わなかった。詔で禹錫を厳しく責め、驍衛大将軍として出して知滄州とした。
- 任地では政治に勤め、部民が濱州に赴いてその状を訴えた。涪州観察使に改まり、澶・鎮二州の駐泊部署に転じ、まもなく知潞州。州民が留任を願い出て詔で奨励された。知永興軍府に転じ、再び召され宣徽北院使・知樞密院事。
- 至道初、制により鎮寧軍節度を授けられ知涇州。入謝の日、帝は「宣徽から罷される者は普通、防禦使にすぎないが、今そなたには旌節を兼ねて重鎮を委ねる、優異と言うべきだ」と述べ、禹錫は流涕哽咽するのみであった。
- 咸平中、知貝州に転じる。この年、契丹軍が突然城下に迫ったが、禹錫は内で厳重に防備し寇はまもなく引き返した。翌年、陝州に転じる。景徳初、子の宗慶が公主を娶ることになり、禹錫は帰朝を召され公主が邸に来る際に舅姑の礼を行うよう命じられたが固辞し許されなかった。まもなく鎮に還り、まもなく卒。享年62。太尉を贈られる。子の宗亮は太子中允、宗慶は永清軍節度。