宋史卷二百六十六 列傳第二十五 郭贄

郭贄(字は仲儀、開封襄邑の人)は太宗の東宮時代からの侍講で、太平興国七年参知政事となり曹彬が誣告された際に力を尽くして弁護したことで知られる。真宗にも旧師として重んじられ工部尚書・翰林侍講学士を拝したが、大中祥符三年、七十六歳で卒し左僕射・文懿の諡を贈られた。温和で人材推挙に長ける一方、生計には吝嗇であったと伝わる。

郭贄

  • 字は仲儀。開封襄邑の人。乾徳中、進士に挙げられ首薦(首席推薦)を得た。太宗が開封尹の折、藩邸の事に関わり、太平興国初、著作佐郎・右賛善大夫に抜擢、まもなく皇子侍講を兼ね緋魚を賜った。太宗が東宮に至った際、『戒子篇』を著し贄に注解させ皇子たちに講説させた。
  • 太平興国3年(978年)、劉兼・張洎・王克正と同知貢挙、右補闕に遷り、宋白と共に中書舎人を拝し金紫を賜る。太平興国5年(980年)、程羽・侯陟・宋白と再び同知貢挙。京朝官差遣院が設けられ、命を受けて出入りし代を受けて帰闕する官の考課を全て掌ることとなり、贄・滕中正・雷徳驤がこれを領した。太平興国7年(982年)、本官のまま参知政事。
  • 曹彬が弭徳超に誣告された際、贄は極力弁護し、宰相趙普に深く重んじられた。あるとき論事に際し「臣は破格の待遇を受け、愚直をもって上に報いる」と奏すると、太宗は「愚直が事に何の益があろうか」と述べたが、贄は「愚直とはいえ奸邪よりはましです」と答えた。
  • ある時、宿酔が解けぬまま入対したため秘書少監・知荊南府に左遷された。府の風俗は淫祀を尊び、久しい旱魃に際し盛大に雨乞いの祭具を設けていたが、贄は着任後これを全て撤去し江に投げ捨てさせ、数日を経ずして大雨が降った。左諫議大夫を加えられ入朝し塩鉄使となる。
  • 諸路の積年の逋欠(未納税)に対し、犯人が死んでもなおその子孫を繋いでいたが、贄はこれを条陳し多くを免除した。籍田の礼で工部侍郎に超拝、淳化中、知澶州で黄河決壊に連座し免職。後に起用され給事中・工部侍郎に復し知審官院・通進銀台封駁司。真宗即位後、刑部を拝し出て知天雄軍。翌日入対し懇辞すると帝は「全魏の地はことに重い、卿は速やかに赴くべし」と述べた。
  • 入朝して太常寺・吏部流内銓を判じ集賢院学士・判院事を加え知河南府、朝廷に帰り詩を献じて陳情し吏部の秩に進み秘書監を兼ねた。
  • 真宗がまだ出閤していない頃、贄は既に経学を授けていた。帝がその家をかつて訪れたことがあり、後任の楊可法が任を継いだ際、帝は「輔導は贄に及ばぬ」と評し、常々贄を純厚な長者として称えた。今、秘府にあって幾度も対を賜り旧事を諮問され、老いを憐れんで工部尚書・翰林侍講学士を特に拝させ詩を賜り「啓発沖言、暁典常語」の句があった。東封の際、礼部尚書に遷る。
  • 太宗が晋邸にあった頃、詩を作るたびに贄に唱和させていた。真宗がその賜った本を尋ねた際、贄は集4巻にまとめて献上し、詔でこれを奨励された。
  • 大中祥符3年(1010年)、卒。享年76。帝は旧学の縁で特に親臨して哭し、左僕射を贈り諡は文懿。子の昭度は大理寺丞、昭升・昭用はともに大理評事、昭允は左賛善大夫に録された。
  • 贄の文章は敏速だが彫琢を凝らさなかった。昭度がこれを30巻にまとめて献上し、帝は「文懿集」の名を賜った。性格は温和で人の名声を高めることに長け、宋白が文学に優れながら下位にあったのを贄が推薦し、後に共に誥命を掌った。趙昌言を幼時に一度見て器量を認め、貢部を掌った際に奏名の首位に推薦、後に貴顕を極めた。
  • 贄自身がかつて賦の試験を受けた際、同郷で同じ籍にあった者が嫉妬し密かに讒言したため、以後は連続して選に落ちた。贄が再び知貢挙となった際、その同郷人の子が明経で薦挙されようとしていたが、詔が下った日に恨みで泣きながら去った。贄はこれを聞き、親しい者を遣わして呼び戻し慰諭して挙に応じさせ、結局薦挙されて及第した。しかし生計には吝嗇で、晩年は事務に励まず、時人はこれを理由に少しく軽んじた。