宋史卷二百六十六 列傳第二十五 蘇易簡
蘇易簡(字は太簡、?–996年、享年39)、梓州銅山の人。太平興国五年に若くして進士甲科首位で及第し、太宗の寵遇を受けて翰林学士・参知政事を歴任した。酒を好み、それが死因になったと帝に惜しまれた。
年表(7件)
- 太平興国五年(980年CE)20歳を過ぎて進士に挙げられ甲科首位となる
- 太平興国八年(983年CE)右拾遺・知制誥となる
- 雍煕二年(985年CE)賈黄中と同知貢挙を務める
- 雍煕四年翰林学士に任じられる
- 淳化元年(990年CE)父の喪に服す
- 淳化二年(991年CE)中書舎人・翰林承旨に遷る
- 至道二年(996年CE)卒す、享年三十九
蘇易簡
- 字は太簡。梓州銅山の人。父の恊は蜀の進士に挙げられ後に宋に帰順、州県官を歴任した。易簡が翰林にあった頃、開封県兵曹参軍を務め、まもなく光禄寺丞に遷り卒、特に秘書丞を贈られた。
- 易簡は幼くして聡悟で学を好み、風度は秀逸で才思は敏贍であった。太平興国5年(980年)、20歳を超えて進士に挙げられた。太宗が儒術に留意していた頃で、貢士は皆臨軒覆試を受け、易簡の答案3千余言は立ちどころに完成し、帝はこれを称賞し甲科の首位とした。将作監丞・通判昇州として釈褐、左賛善大夫に遷る。太平興国8年(983年)、右拾遺・知制誥。雍熙初、郊祀の恩で祠部員外郎に進む。
- 雍熙2年(985年)、賈黄中と同知貢挙。親属が挙に就く場合は別途籍を作り別試するとの詔があったが、易簡の妻弟崔範が父の喪を隠して貢挙に応じ奏名で上位に入り、また王千里(水部員外郎孚の子)は父恊の門生であったため薦挙され、帝がこれを聞き崔範・王千里を罪に処す一方、易簡もこれに連座して知制誥を罷され本官で奉朝請となった。まもなく知制誥に復し、雍熙4年、翰林学士を充てる。
- 易簡が貢挙を充てたのは、かつて宋白が貢部を掌ったときからちょうど7年であった。易簡が幼少の頃、父に従い河南で賈黄中の来訪を受け文を教わったことがあり、今は同僚となった。易簡は貢挙を連続して掌り、陳堯叟・孫何は共に廷試甲科に及第した。淳化元年(990年)、父の喪に服し、淳化2年(991年)、京朝官考課を同知し、中書舎人・翰林承旨に遷る。
- もと曲宴(内々の宴)には将相・翰林学士が皆陪席していたが、梁迥が太祖に啓してこれを廃した。また皇帝が丹鳳楼に御した際、翰林承旨・侍従が楼の西南隅に昇る礼も廃れていたが、易簡がこれを請い旧制を復した。
- 唐の李肇『翰林志』を継いで『続翰林志』2巻を著し献上、帝は詩を賜って嘉した。帝がかつて軽綃に飛白書で「玉堂之署」の四字を大書し、易簡に庁の額に掲げるよう命じた。易簡が韓伾・畢士安・李至らとこれを見に行くと、帝はこれを聞き中使を遣わして盛大な宴を賜り、李至らは各々詩を賦してこれを記し、宰相李昉らも詩を作って頌美した。
- ある日、易簡が禁中で欹器(傾きやすい器)を水で試していたところ、帝が密かにこれを聞き、晩朝で「そなたが玩ぶのは欹器ではないか」と問うと、易簡は「その通りです、江南の徐邈の作です」と答え、帝はこれを取り寄せて試させた。易簡は「日は中れば傾き、月は満ちれば欠け、器は満ちれば覆り、物は盛んになれば衰えます。陛下は盈を持し成を守り、終わりを慎み初めのごとくにして丕基を固めていただきたく」と奏上した。
- 郊祀で礼儀使を充てる。もと扈蒙が宣祖を配享に建議していたところ、易簡は唐の故事を引いて宣祖・太祖を同時に配享するよう請い、これに従われた。
- 知審官院に転じた際、「初任の京朝官で州県を歴任していない者は知州・通判に擬してはならない」と上言、詔で可とされ知審刑院に改まる。まもなく吏部選を掌り給事中・参知政事に遷る。
- 当時、趙昌言も参知政事であったが易簡と不仲で、帝前で忿争するに至った。帝はいずれも寛容に扱ったが、まもなく昌言は剣南への出使の途中で知鳳翔府に改まりを命じられ、翌年易簡も礼部侍郎として知鄧州に出され、陳州に移った。
- 至道2年(996年)、卒。享年39。礼部尚書を贈られた。
- 易簡は表面は坦率だが内には城府(深慮)があった。知制誥から学士に入った年は30に満たず、文章は初め体要に達していなかったが、誥命を掌ってからは自ら刻苦励精した。翰林在任8年、寵遇は他に類を見ず、李沆より後に入っても易簡より下位にあり、先に参知政事になったため、賜与は易簡と同等にされた。太宗は旧制に従い、名望を積ませてから台輔(宰相)に正式に据えようとしていたが、易簡は親の老いを理由に急ぎ進用を求め、しばしば時政の欠失を言上したため大政に参与することとなった。
- 蜀人の何光逢は易簡の親友であった。かつて県令を務めたが賄賂の罪で除籍され京師に流寓し、易簡が貢部を典っていた折、光逢は他人に代わって試験を受け金を得ようとし、易簡は衆人の中からこれを排除した。光逢はこれを恨み謗書を作り朝廷の事を斥言し易簡を譏った。易簡はその書を得て上聞し、光逢は逮捕され獄に下り棄市(死刑)となった。易簡は光逢を殺すことを本意とせず、常に鬱々としていた。母の薛氏が「父の親友を殺した」と厳しく叱責すると、易簡は泣いて「ここまでになるとは思わなかった、私の罪です」と述べた。
- 易簡が参知政事になった際、薛氏を禁中に召し冠帔を賜り座らせ「どのようにして子をこのような立派な器に育てたか」と問うと、「幼くしては礼譲で束ね、長じては詩書で教えました」と答え、帝は左右に「真の孟母だ」と語った。
- 易簡は酒を嗜む性質で、初めて翰林に入り謝恩の日には既に微酔、その後も多く沈溺した。帝はこれを深く戒め、また勧酒の詩2章を草書して賜り、母に読ませるよう命じた。以後は入直の際に飲まなくなったが、卒去に際し帝は「易簡は果たして酒で死んだ、惜しいことだ」と述べた。
- 易簡は日頃筆札に巧みで、特に談笑に長け、仏典にも通じていた。著書に『文房四譜』『続翰林志』および文集20巻があり秘閣に蔵された。3子は宿・寿・耆といい、大中祥符間に皆官禄を得た。