宋史卷二百六十六 列傳第二十五 錢若水

出自と生い立ち

  • 錢若水、字は澹成、また字は長卿。河南新安の人。父の文敏は後漢の青州帥劉銖に録事参軍として辟召され、長水・酆都尉・扶風令・相州録事参軍を歴任した。当時、府帥の多くは筆牘(文書取扱)を口実に官庫の銭を私用しており、韓重贇が節制を領したときもこの弊が残っていた。文敏がこれに従わなかったため、重贇は別件を口実に廷で責めたが文敏は屈しなかった。太祖はその節操を嘉し右賛善大夫・知瀘州とし、講武殿で「瀘州は蛮境に近く綏撫が肝要、知州郭思斉・監軍郭重が辺境の遠さを頼みに掊斂(搾取)不法をなしていると聞くが、朕のために鞫問せよ。もし少しでも民を侵すことがあれば決して赦さぬ」と論した。文敏は治績を上げ、夷人が朝廷に留任を願い出た。殿中丞に改まり再任を許され、司封員外郎に3遷、さらに知洺州・建昌軍を経て卒。享年72。
  • 若水は幼くして聡悟、10歳で文を能くした。華山の陳摶がこれを見て「そなたは神清く道を学べるが、そうでなければ富貴を得よう、ただし急ぎすぎることを忌め」と評した。雍熙中に進士に挙げられ、同州観察推官として釈褐。裁決が明允で郡治はこれに頼った。

地方官・辺境政策

  • 淳化初、寇準が選挙を掌り若水・王扶・程粛・陳充・銭熙の5人を文学高第として翰林の試に推薦、若水が最優で秘書丞・直史館に抜擢。1年余で右正言・知制誥に遷り、乾元門外に理検院が置かれた際にこれを領した。まもなく同知貢挙、屯田員外郎を加え、原・鹽等州へ辺事の制置に赴き、帰還後の奏上が帝意に叶い、翌日に職方員外郎・翰林学士(張洎と並ぶ)に改まり、知審官院・銀台通進封駁司を兼ねた。
  • かつて趙保忠に賜る詔を起草した際、「継遷を斬らなければ狡兎の三穴を開くようなもの、光嗣を潜疑すれば首鼠両端を持することになる」と書き、太宗は大いにこれを当を得たとした。至道初、右諫議大夫・同知枢密院事。
  • 真宗即位後、工部侍郎を加え、数か月で母の老いを理由に機務の解任を求めたが許されず、なお強く求めたため本官のまま集賢院学士・判院事とされた。まもなく『太宗実録』の修纂を命じられ、柴成務・宗度・呉淑・楊億を引いて共修、80巻を完成させた。真宗はこれを見て涙を流し賜与に差があった。
  • もと太宗は馴れた飼い犬を持ち常に乗輿の左右にいたが、崩御に際し鳴き号いて食を絶ち、永熙陵の寝所に送られた。李至はこの事を詠じて若水に記録させ浮俗を戒めようとしたが若水は従わなかった。呂端は監修でありながら局に臨まぬため署名できず、李至はこの事を抉って自分の功にしようとしたが、若水は詔旨と唐朝の故事を引いてこれを退け、時論はこれを覆せなかった。
  • その後『太宗実録』を重修し、王禹偁・李宗諤・梁顥・趙安仁が参与し1年足らずで完成。安仁は当時太宗正卿として「夔王は太宗の兄にあたるのに実録の記述に誤りがある」と上言、若水は国初の詔令を援用し廷議を数度重ねてようやく決着した。
  • まもなく判吏部流内銓。大名への行幸に従い禦敵安辺の策を上奏した。孫武は伐謀を主とし、漢高祖は将を選び法をもって先とした――伐謀とは将帥が敵情を料り勝を制すること、用法とは朝廷が賞罰を私しないことである。傅潜が数万の雄師を領しながら門を閉ざして出ず辺寇の掠奪を座視し、上は委任の恩に背き下は鋭師の気を挫いている、これは潜らが敵に勝てぬのではなく朝廷が法を用いていないからだ、と説いた。軍法では臨陣不用命の者は斬るべきで、潜を斬って見せしめとし、楊延朗・楊嗣ら5、7人を抜擢して兵権を分与すれば、敵は我が将帥が命令に従うのを見て退くしかなく、辺境は静まるだろうと論じた。
  • 過去の史書を引き、周世宗即位の初め劉崇が敵と結んで侵入した際、世宗が大宴を開き懦将樊愛能らを斬り偏将10余人を抜擢して太原を撃つと劉崇は恐れて逃げ、以後兵威が大いに振るった例を挙げ、陛下の神武は世宗に劣らぬはずだと述べた。
  • 辺境の安定策として、太祖朝の制置(郭進・李漢超・何継筠・賀惟忠・李謙溥・姚内斌・董遵誨・王彦昇らを各地に配し、巡検の名のみで行営部署の号を与えず、十余年任を変えず、功あれば厚く賞するが位は観察使に至らせない)に倣うべきと説き、位が高すぎなければ朝廷は制しやすく、任が変わらなければ辺事に通暁できる、と論じた。この方法により太祖の17年間、北辺・西蕃は塞を犯さず、しばしば和を乞うたと述べた。
  • まもなく知開封府。北辺が未だ安定しない中、帝が手札で策を尋ねた際、若水は備辺の要として五事(郡守を選ぶ・郷兵を募る・芻粟を積む・将帥を改める・賞罰を明らかにする)を挙げた。郡守選定では戦守が心を同じくしないことが問題であり、沈厚で謀ある辺事通暁の者を刺史とし縁辺巡検を兼ねさせ、勇敢の士を随身部曲に募らせるべきと説いた。郷兵募集では敵情を知らぬことが問題で、沿辺の民を招収軍とし糧を給し租税を免じ、敵地の親族を通じて情報を得るべきとした。芻粟の蓄積では民力の疲弊が問題で、営田を広げ課程を賞罰で奨励し商人の粟輸入を許すべきとした。将帥の改革では重兵が外に、軽兵が内に置かれていることが問題で、河北近鎮に将臣を慎選し行営の号を減らすべきとした。賞罰の明確化では戎卒の驕惰が問題で、亡命軍卒が多いのは令が厳しくないためであり、郭進の故事(太祖が戍卒に「郭進の法に従え、私は許しても郭進は許さぬ」と論した話)を引いた。
  • また、辺部の用兵は太白と月の位置を進退の目安とすること(太白は将軍、星辰は廷尉に喩えられ、合すれば戦、合わなければ戦わず)を述べ、太祖17年間、敵が往々に和を乞うたのは任用が適材適所で備禦に方があったためと結んだ。
  • まもなく出て知天雄軍兼兵馬部署。綏州に城を築き屯兵し党項に備える議に対し辺境間で利害が分かれ数度の使者派遣でも決着せず、大規模な丁夫動員が始まっていたところ、若水が現地を視察するよう命じられた。若水は綏州がもと内地であったが、趙保忠への割譲以来人戸が凋残し、城を築けば戍守・芻糧の供給を全て河東に仰ぐことになり、黄河と鉄碣二山・無定河に隔てられ緊急時の輸送が困難であること、また地が険しく城邑が焼失し材木も乏しいこと、労多くして利少ないことを述べ、朝廷はこれを嘉納し工事を中止した。
  • 若水が軍を率いて黄河を渡り部隊を配置した際の統制ぶりに戍将は深く感服し、帝は左右に「若水は儒臣の中で兵を知る者」と評した。この秋、陝西縁辺諸郡の巡撫を命じられ便宜に辺事を制置し、帰還後鄧州観察使・并代経略使・知并州事を拝す。
  • 咸平6年(1003年)春、病により両足に灸をすえたところ潰瘍から出血数斗、以後体は衰弱し、手詔で慰労され京師に帰るよう命じられた。数か月後にようやく朝謁に赴き、僚友と僧舎で食事の後仮眠中に卒去。享年44。戸部尚書を贈られ、母に白金500両、7歳の子延年を太常奉礼郎に録された。
  • 若水は美しい風貌と識見を持ち大事を決断する能力があった。継母に孝を尽くし、談論を好み、財を軽んじ施しを好んだ。赴任地では誠を尽くし僚佐に委任し、いずれも治績を上げた。後進を引き立て賢士を重んじ度量豁如であった。術数に精通し自らの寿命が長くないことを知っていたため権位を避けた。その死を士君子は特に惜しんだ。文集20巻。兄の若愚は比部員外郎。

錢若冲

  • 若水の従弟。大中祥符中、河陽県令に転じた際、酗酒する僕人を杖打った。僕は夜に部屋に潜んで刃で腕を切りつけ、若冲が大声を上げると幼子まで害した。詔により僕は門前で磔にされた。真宗は若水の母の老いを慮り使者を遣わし存問し緡・綿・羊・酒を賜り、若冲にも帛30端を賜り孟州別駕に補した。延年は後に文を献じて進士出身を賜り、太常博士・集賢校理を歴任した。