宋史卷二百六十五 列傳第二十四 賈黃中

賈黄中(字は媧民、?–996年、享年56)、滄州南皮の人。唐の宰相賈耽の子孫で、幼くして「等身書」の教育を受け15歳で進士に及第。太宗朝に参知政事となったが、慎重に過ぎ大きな建策には乏しかったと評される。

年表(9件)

出自と生い立ち

  • 賈黄中、字は媧民。滄州南皮の人。唐の宰相賈耽の4世孫。父の玭は字を仲宝といい、後晋天福3年(938年)の進士。宋初、刑部郎中となり、終わりは水部員外郎・知浚儀県。享年70で卒。玭は厳格で子弟の教育に努め、士大夫の子弟が訪ねてくると必ず懇切に教え諭した。
  • 玭が鎮州通判の折、郷党一族で未葬の者15人の葬儀を執り行い、孤貧で自活できぬ者は皆教育し婚嫁させた。黄中は幼くして聡明で、5歳の頃、玭は毎朝直立させて書巻を身の丈まで積ませ「等身書」と称して誦読を課した。6歳で童子科に挙げられ、7歳で文を能くし触れるものを詠じた。父は常に蔬食のみを与え「業が成れば肉を食わせる」と述べた。

地方官・中央官として

  • 15歳で進士に及第、校書郎・集賢校理を授かり著作佐郎・直史館に遷る。建隆3年(962年)、左拾遺に遷り左補闕を歴任。開宝8年(975年)、通判定州・判太常礼院。礼文の損益の詳定に多く関わり称職とされた。嶺南平定後、採訪使として廉直平恕、遠人はこれを便とし、帰還後利害数十事を奏上しいずれも帝意に叶った。
  • 江南平定後、知宣州に転じる。飢饉で盗が多発した際、自らの俸給で糜粥を作り数千人を救い、盗を弭める法を設けて解決した。太宗即位後、礼部員外郎に遷る。太平興国2年(977年)、知昇州。金陵帰順直後の統治を簡易にし、部内はよく治まった。ある日府署を巡察し固く施錠された一室を見つけ開けさせると、金宝数十匱(価値数百万)が李氏宮閤の遺物として発見された。これを表上したところ、帝は侍臣に「黄中の廉恪でなければ亡国の宝は法を汚し人を害しただろう」と語り、銭30万を賜った。
  • 父の喪に服し起復、太平興国5年(980年)に召還され、文学の高第を薦められ召試を経て駕部員外郎・知制誥を拝す。太平興国8年(983年)、宋白・呂蒙正らと同知貢挙、司封郎中に遷り翰林学士。雍熙2年(985年)、再び知貢挙、まもなく吏部選を掌る。
  • 端拱初、中書舎人を加え、端拱2年(989年)、史館修撰を兼ねる。2度貢部を典り多く寒門の俊才を抜擢し、官吏の品定めも精当であった。淳化2年(991年)秋、李沆とともに給事中・参知政事を拝す。太宗が黄中の母王氏を召見し「子の教育がこのようであれば真の孟母だ」と述べ詩を賜り厚く賞賜した。

参知政事として

  • 黄中は日頃呂端を重んじ、呂端が襄陽に出鎮しようとした際、上に強く薦めて枢密直学士として留め、後に参知政事となった。当世の文行の士を多く推薦したが自ら言わず人に知られなかった。しかし畏慎が過ぎ、中書の政事がしばしば滞った。
  • 淳化4年(993年)冬、李沆とともに罷され本官守。翌年、知襄州となるが母が老いていることを理由に京留を願い出て知澶州に改まった。辞去の日、帝は「小心翼翼は君臣共に当然のことだが、過ぎれば大臣の体を失う」と戒め、黄中は頓首して謝した。帝は侍臣に「その母の賢徳を思うに、70余年でなお老いを感じさせず、話せば明敏、黄中の終日の憂畏はまず母の老いを案じてのことだろう」と語り、参知政事蘇易簡の母についても同様に語った。易簡は「陛下は孝で天下を治め、賞は人の親に及ぶ、臣は何の功でこの栄遇に浴せましょうか」と謝した。
  • 至道初、黄中は病を得て召し帰され、皇太子の賓友を大臣の徳望ある者から選ぶ際、黄中も候補にあったが久病のため李至・李沆が兼賓客に任じられ、黄中は特に礼部侍郎を拝し李至に代わり秘書監を兼ねた。黄中は日頃文籍を好み、内閣に居られたことを大いに慰めとした。
  • 至道2年(996年)、病により卒。享年56。母はなお存命で、帝は先の言葉通りだったとし礼部尚書を贈った。日頃貧しいことを知り別に銭30万を賜り、葬儀後、母が謝礼に参内すると白金300両を追加で賜り、帝は「孫たちのことは案じるな、朕が忘れることはない」と述べた。
  • 黄中は端正謹直で家法をよく守り、廉白無私で台閣の故事に通じ、談論は倦むことを知らず聴く者を魅了した。翰林在任中、太宗が時政の得失を尋ねた際「臣の職は書詔を掌るのみで、軍国政事は臣の与り知るところではない」と答え、帝はますます謹厚として重んじた。しかし参知政事在任中は結局これといった建策がなく、時論はこれを許さなかった。
  • 文集30巻あり、子は守謙(雍熙2年進士)・守正(文を献じ召試を経て進士第を賜り虞部員外郎)・守約(国子博士)・守文(殿中丞)・守納(右賛善大夫)。

史論

  • 論じて言う。『詩経』に「まことに天子は卿士を降す、まことにこれ阿衡(伊尹)、まことに商王を左右す」とあるように、賢君あれば賢臣あり、賢臣あってこそ賢君を輔けられる。太宗は庶政に励み輔相に意を注ぎ、李昉を旧徳として重んじ、続けて呂蒙正・張斉賢を相位に進め、さらに賈黄中を大政に参与させた。この四臣は徳美を修め庶政を明らかにし、太平の治を成した、まさに君臣がそれぞれ道を尽くした例と言えよう。
  • 君子は評す。李昉は盧多遜に讒言されても争わず、呂蒙正は張紳に汚名を着せられても弁明せず、張斉賢は同僚の不正に累を負っても言わず、賈黄中は多くを推薦しながらその功を誇らなかった。これは人にとって難しいことである。しかも四臣は皆賢明な宰輔でありながら進退にも礼をわきまえ、皆善く終わった。盛徳の君子でなければ、誰がこれに及べようか。