宋史卷二百六十五 列傳第二十四 張齊賢

出自と初期の建策

  • 張斉賢は曹州寃句の人。3歳のとき晋末の乱に遭い一家で洛陽に移った。孤貧のうちに勤学し遠志を抱き、唐の李大亮の人柄を慕い字を師亮とした。
  • 太祖が西都に行幸した際、布衣のまま馬前で献策し行宮に召された。手で地を画して十事(併汾・富民・封建・敦孝・挙賢・太学・籍田・選良吏・慎刑・懲姦)を条陳し、うち4説は帝意に叶ったが、斉賢は全て善しと強く主張したため帝は怒り武士に引き出させた。しかし帝は帰還後太宗に「西都でただ張斉賢一人を得た、今は官爵を与えないが、いずれそなたを輔ける宰相となろう」と語った。
  • 太宗が即位すると進士に挙げ高第に置こうとしたが、有司が選考を誤り上位榜は皆京官とされてしまった。斉賢は大理評事・通判衡州となる。州で刼盗の裁判が全て死罪と判じられていたのを見直し、誤判5人を救った。荊渚から桂州にかけての水逓鋪の夫役が数千戸に及び困窮していたのを上奏し半減させた。
  • 帰還後、太原親征に従い秘書丞に遷り、忻州の新占領地の知州を命じられた。翌年召還され著作佐郎・直史館、左拾遺に改まる。冬の北征の議で速やかに幽薊を取るべきとの声が多い中、斉賢は上疏し、河東平定直後で人心が未だ固まらず、辺備の充実こそ急務であり、契丹は今すぐ幽燕を取りに来る力はないこと、辺境の安寧は将の得失によること、聖人の挙事は万全を期すべきで、戦わずして勝つ方が良いこと、民を安んじ利すれば遠人は自ら帰服することを説いた。

地方官としての実績

  • 淳化年間、江南西路転運副使、後に右補闕・正使に転じる。饒・信・虔州の銅鉄鉛錫の産地を調査し、前代の鋳法を参考に饒州永平監の鋳造を基準とし、年間5十万貫(銅85万斤・鉛36万斤・錫16万斤使用)の鋳造制を定め、朝廷で詳細に説明し議論者はこれに反駁できなかった。
  • 諸州の罪人が多く京へ護送される途中で死ぬ者が十人中五、六人に及んでいたが、斉賢は南劍・建昌・虔州から送られる囚人の牒を検め、多くが冤罪であることを朝廷に訴えた。以後、京への囚人護送は厳選された吏に委ね、誤りがあれば原問官の罪とするよう改め、江南からの護送死者は半分以下に減った。
  • 江南諸州の民が官地に居住する際の地房銭、吉州の江没した土地でもなお課された勾欄地銭、水上生活者に課された水場銭などの前代の弊政を全て免除した。
  • もと李氏(南唐)統治下では税銭3千以上の戸から丁1人を出させ黥面させ器甲を自弁させる義軍制があり、内附後は帰農させていたが、これを再徴集し家族ごと京へ送るべきとの意見が出た。斉賢は「義軍は良民であり、克復後は放って帰農させ久しく皇風に浴し安住している。戸別に捜索すれば驚擾を招く、法は常を貴び政は清静を尚ぶ」と反対し、旧に従うべきとした。江南の民はこの寛大な統治を忘れなかった。
  • 召還され枢密直学士、右諫議大夫・簽書枢密院事、雍熙元年(984年)左諫議大夫。雍熙3年(986年)、大挙北伐で楊業が代州で戦死した際、帝が近臣に策を求めると斉賢は即座に赴くことを願い出て、給事中・知代州として部署潘美とともに緣辺の兵馬を領した。

代州防衛と契丹戦

  • 遼軍が湖谷から侵入し城下に迫った際、神衛都校馬正は南門外に部隊を並べたが衆寡敵せず、副部署盧漢贇は懦弱で保塁に固執した。斉賢は廂軍2千を出して馬正の右を助け、士気を鼓舞して当たらせ遼兵を退けた。
  • もと潘美と合流する約束であったが、間諜が遼に捕まり作戦が漏れた。斉賢は師期が漏れたことと美の軍が孤立することを恐れたが、美の使者が「並州で密詔を得て、東軍が君子館で敗れ、并州の全軍は出戦を許されず既に州に戻った」と告げた。この時遼兵は道を塞いでおり、斉賢は「賊は美の来援を知りながら退いたことを知らない」と考え、使者を密室に閉じ込め、夜に兵200人を出し旗と束ねた芻を持たせ城の西南30里に配置して火をつけさせた。遼兵はこれを并州軍の到着と誤認し驚いて北へ逃げた。斉賢はあらかじめ歩兵2千を土磴砦に伏せ掩撃し大敗させ、北大王の子1人・帳前錫里1人を捕らえ数百級を斬り馬2千・器甲多数を得た。捷報では功を盧漢贇に帰した。
  • 端拱元年(988年)冬、工部侍郎を拝す。遼が大石路から南侵した際、斉賢はあらかじめ廂兵千人を選び繁畤・崞県に二分して駐屯させ、「代西に寇あれば崞県の師が応じ、代東に寇あれば繁畤の師が応じ、接戦の頃には郡兵が集結する」との令を下し、実際に繁畤の兵が撃破に成功した。
  • 端拱2年(989年)、屯田を置き河東制置方田都部署を領する。端拱3年(990年)、刑部侍郎・枢密副使。淳化2年(991年)夏、参知政事に数月あり、吏部侍郎・同中書門下平章事を拝す。

宰相として(前期)

  • 斉賢の母孫氏は80余歳で晋国太夫人に封じられ、宮中に参内するたびに帝はその福寿と多くの賢子に感嘆し手詔で存問を賜り、賜与は縉紳の栄とするところとなった。
  • もと王延徳と朱貽業がともに京庾を掌り外任を求めていた際、貽業は参政李沆と姻戚の李沆に頼み、李沆から斉賢に伝わり斉賢がこれを上聞した。太宗は延徳がかつて晋邸に仕えたのに自ら陳情せず執政に依頼したことを怒り、召して詰責したが、延徳・貽業とも実情を隠して答えなかった。斉賢は李沆に累を及ぼさぬよう独りその責を負った。
  • 淳化4年(993年)6月、尚書左丞に降格。10月、知定州を命じられたが老母を理由に赴任を望まなかった。まもなく母の喪に服し、水も口にせず7日、以後は粥のみで喪が明けるまで酒肉果物を口にしなかった。まもなく礼部尚書に転じ知河南府。獄に大辟の裁定を控えた者があった際、斉賢は現地で立ちどころに真相を明らかにし釈放した。
  • 3日後、知永興軍に転じる。当時、閤門祗候趙贊が言事によって寵を得て関中の芻糧を提点し多くの横暴を働いていたが、斉賢がその罪を論列し法に処した。まもなく襄州・荊南・安州と転じ、1年余りで刑部尚書を加える。

宰相として(真宗朝・霊州問題)

  • 真宗即位後、召されて兵部尚書・同中書門下平章事を拝す。従容と皇王の道を語り、その理由まで根本から論じ、「臣は陛下より非常の恩を受けたゆえ、非常をもって報いる」と述べると、帝は「朕は皇王の道に特別な形跡はなく、庶事が治まればそれに近いと思う」と答えた。
  • 戚里の者が財産分与を巡り訴訟し宮中に自訴した際、斉賢は「これは台府の裁く事ではない、臣が自ら治める」と願い出て、相府で訴人を召し、「あなたは相手の分けた財が多く自分が少ないと不満なのか」と問い、両家の吏を召して甲家を乙の家に、乙家を甲の家に移し財貨は動かさず交換させると翌日には和解、帝は「これはそなたでなければ治められなかった」と大いに喜んだ。
  • 郊祀で門下侍郎を加えたが、李沆と不仲になり、冬至の朝会で酔って失儀し罷相。咸平4年(1001年)、李継遷が清遠軍を陥落させると、涇原等州軍安撫経略使に任じられ、右司諫梁顥を副とした。斉賢は上奏し、清遠軍陥落後の情勢を分析し、青岡砦焼棄以来霊武一郡の孤立は継遷が必ず狙うところであり、討伐は不足だが放置も過ぎるとし、継遷と隙のある蕃部大族の首領を官爵・貨利・恩信で誘い結び、利害で激すれば山西の蕃部族帳は朝廷に傾くと述べた。自らが領する12州軍の2万余の兵に加え縁辺の兵5万余を得れば、招致した藩部は10数万に及び、彼らを東西に走らせれば我が方が優位に立てると論じた。
  • また、霊武軍民6、7万が危亡の地にあること、継遷が来春に攻める前に援軍を送り靈州の孤城を固めるべきこと、潘羅支を六谷王に封じ厚く金帛を与えるべき理由が継遷の売馬路を断つためであること、朝廷の使者が潘羅支に届けば泥埋等族・西南遠蕃を招集でき、鄜延・環慶・原渭の熟戸も自然に帰化し、萬山(勢力名)は靈州河西で頓兵できなくなり、賀蘭の蕃部も継遷から離反すると論じた。名器・爵賞を軽々に濫用すべきでないという議論は聖人の常道とは限らないと述べた。
  • 江淮荊湘の丁壮8万を調発し防禦を強化するよう求めたが、動揺と遠戍の負担から朝議は退けた。斉賢はさらに靈州が完全であった時期でさえ「合棄すべき」との声があったこと、継遷の乱後は南の鎮戎まで500余里、東の環州まで6、7日程の危険な道であること、精兵を増やし対替の兵と原渭・鎮戎の師・山西の熟戸を東界から進ませ両路交進すれば継遷は敗れ、靈州の囲みは自ずと解けること、その後靈州の軍民を蕭関・武延州の険要地に移し状況が落ち着いてから旧地に戻すべきことを説いたが用いられず、まもなく靈武は陥落した。
  • 閏12月、右僕射・判汾州を拝したが赴任せず、判永興軍兼馬歩軍部署に改まる。薛居正の子惟吉の妻柴氏が子なく早寡し財貨・書籍を独占して改嫁しようとした際、惟吉の子安上がこれを訴え出た。帝は理には処さず司門員外郎張正倫に訊問させたところ柴氏の供述と安上の訴状が食い違い、御史に付されると斉賢の子太子中舎宗誨が柴氏に訴状を教えていたことが判明し、斉賢は太常卿・分司西京に降格、宗誨は海州別駕に貶された。

宰相として(後期)

  • 景徳初、兵部尚書に起用され知青州。帝の澶淵行幸に伴い青淄濰州安撫使を兼ねる。景徳2年(1005年)、吏部尚書に改まり、上疏して先朝で靈夏両鎮が継遷に併呑されることを憂慮していたが世人はこれを憂慮過剰とみなしていたこと、継遷は当初単に祖先の旧地への懐旧のみとみられ銀州を与えられたがその後も攻略を止めず、麟府州界を降し8部族の蕃酋を脇制し賀蘭山下の帳族にまで及んだこと、封奨がなお不足として銀夏の土地と節旄を与えたことで姦威がさらに増し靈州の糧路を断ち縁辺の城池を脅かし続けたことを振り返った。
  • 靈池・清遠軍が陥没しかけた頃、自らが経略の命を受け、継遷には強大な蕃族を敵として当てるのが古今の上策と考え、六谷の名目で潘羅支を封じるよう請うたが、近臣の多くは反対したこと、その後継遷は潘羅支に射殺され辺患は一時収まったが、その子徳明が依然として析逋・遊龍鉢等を配下に収め野心は小さくないと見られること、徳明が帝の東方行幸の隙に六合を攻めれば瓜沙甘粛・于闐諸処が制圧されかねないこと、潘羅支が既に没し厮鐸督ではその敵ではないおそれがあることを述べ、大臣にこの事を経制させるよう望んだ。
  • 東封(泰山封禅)から戻り再び右僕射を拝す。玉清昭応宮建立の際、符瑞を絵画するのは謙徳を損ない天意に背くとしてしばしば廃止を求めた。景徳3年(1006年)、判河陽に出、汾陰祭祀に従い左僕射に進む。景徳5年(1008年)、代還し老を理由に司空致仕を請う。入辞の際、便坐で拝礼しようとして倒れかけ、帝は止めて2子に扶けさせ座に茵を加えることを許した。3年後、洛陽に帰り裴度の午橋荘(池榭・松竹の勝地)を得て親旧と日々詩酒を楽しんだ。景徳4年(1007年)夏、薨去。享年72。司徒を贈られ諡は文定。

人物と子孫

  • 斉賢は姿が豊かで議論慷慨、大略をもって君を輔けることを自負した。刑獄に心を留め多くの命を救い、寒門の俊才を提奨することを好んだ。若い頃家貧しく父の死に葬儀の費用がなく、河南県の吏がこれを取り計らってくれた。斉賢はこれに深く感謝し兄の礼で仕え、貴くなっても変わらなかった。次兄昭度はかつて斉賢に経学を授け、その死後は表して光禄寺丞を追贈させた。太子少師李粛の家に寄食していたことがあり、粛の死後は葬儀を取り仕切り歳時に祭った。
  • 趙普はかつて斉賢を太宗に薦めたが用いられなかった際、「陛下がもし斉賢を用いれば、彼の感恩は今以上になろう」と述べ、帝は大いに喜び大用に至った。种放の起用も斉賢の推薦による。
  • 斉賢は4度両府(宰相府・枢密院)を踏み9度八座(尚書省の高官)に居り、三公として致仕し康寧福寿を全うした。時の人はその比を稀とした。宰相在任中はしばしば大獄を起こし、寇準とも相争ったため、これを理由に彼を軽んじる者もいた。
  • 諸子は皆立身し、宗信は内殿崇班、宗理は大理寺丞、宗諒は殿中丞、宗簡は閤門祗候、宗訥は太子中舎、宗礼は最も賢明であったが累資して登朝しても束縛を嫌い多く田里に住んだ。

張宗誨

  • 字は習之。斉賢の第二子。若くして兵法・陰陽・象緯の書を好み、父の任で秘書省正字となり太子中舎に至るが、柴氏の一件で海州別駕に貶された。
  • 通判河陽を経て知富順監となった際、夷人斗郎春の反乱で群獠が騒動したが、郡兵を率いて撃破し開封府判官・三司度支勾院に抜擢された。開封在任中、御史王沔がその酒に耽り職務を廃していると弾劾し、河北転運使となってから王沔の居喪中の官船賈販を暴いたため世論はこれを憎んだ。
  • 調発が民を騒がせたため知徐州に転じ、太常少卿に累遷。後に永興軍兵馬鈐轄、さらに鄜延路兼知鄜州に転じた。元昊が延安を侵し劉平・石元孫が敗没した際、鈐轄黄徳和が延州に逃げ帰り入城を拒まれ更に鄜州へ逃走した。宗誨は「敗走の将兵に帰る場所がなければ乱を起こしかねない」と考え収容し、黄徳和を拘束して報告した。当時鄜城の防備が不完全で寇兵来襲の噂に人心不安であったが、宗誨は斥候を厳重にし出入りを制限、老幼を動員して守禦させ、敵も自ら退いた。興州防禦使を領し、後に永興鈐轄・兼知邠州に転じ、秘書監として致仕。
  • かつて子に頼み事を求められた際、「昔、賀秘監(賀知章)が道士服で会稽に帰った際、明皇が鑑湖を賜り老後の地とした。今、洛陽に鑑湖はないが嵩少・伊瀍は天下の佳処、朝廷から賜らずとも閑逸の人が持つ地だ。父上も羽服を着て悠々自適に過ごせばよく、なぜさらに請託にこだわるのか」と言われ、宗誨は「私は白頭の老いた秘書監として眠るのみ、賀知章のように流沙に赴く必要があろうか」と答え、当時これを名言とした。
  • 斉賢が代州を守った際、宗誨は計画に参与し、親族の保任を親疎を問わず年齢順とした。ただし性格は貪欲で、致仕後もなお貨殖を事とし、そのまま卒した。

張子皋・張子憲

  • 宗誨の子は2人。子皋は字を叔謨といい、若くして才名があったが自負せず、人々は交遊を楽しみ、尹洙とも特に親しかった。尹洙は「私は天下の士と多く交わったが、順境逆境で態度を変えぬ者は子皋である」と評した。進士に挙げられ秘書郎の試を経て知新鄭県、斉賢の縁で校書郎・館閣に転じ、頌を献じて著作佐郎に抜擢、直史館に進み尚書司封員外郎に至る。
  • 子憲は字を彦章といい、蔭で将作監主簿となり、文を献じて同進士出身を賜り尚書刑部郎中に累遷、知光化軍。戍卒がその帥韓綱を逐った余党の反乱を招降で鎮め、重税による民の逋負を上奏して除いた。太常少卿・三司塩鉄判官・直史館・知洪州を経て右諫議大夫、知桂州には赴かず御史に弾劾され秘書監に降格、後に直秘閣・知廬州、秘書監に累進し揚州に転じて卒。