宋史卷二百六十三 列傳第二十二 劉熙古
劉熙古(字は義淳、宋州寧陵の人、?–開寶九年)は唐の劉仁軌の後裔。後唐で進士に及第し、後漢・後周・北宋に歴仕、北宋では参知政事にまで昇った。陰陽象緯の術に通じ著述も多く、顕貴となっても寒素の暮らしを守り清廉で知られた。子の蒙正・蒙叟もそれぞれ武功・文才で活躍した。
年表(7件)
- 建隆二年(961年CE)晋州榷礬の制置を詔され課税を大幅に増収させる
- 乾徳六年(968年CE)端明殿学士となる
- 開寶五年(972年CE)参知政事に召される
- 開寶九年(976年CE)享年七十四で卒す
- 太平興国四年(979年CE)子の蒙正が内蔵庫副使となる
- 咸平四年(1001年CE)蒙正が享年七十二で卒す
- 景徳中(1004-1007年CE)子の蒙叟が太常少卿致仕し享年七十三で卒す
出自と生涯
- 宋州寧陵の人。唐左僕射劉仁軌の十一世孫。祖父宝進は汝陰令。十五歳で易・詩・書に通じ十九歳で春秋・子・史に通じたが、祖父の諱を避け進士に応じなかった。後唐長興中、三伝で挙げられ、翰林学士和凝の掌る貢挙で献じた春秋極論・演論が評価され進士に及第、和凝の門下となった。
- 清泰中(934-936年CE)驍将孫鐸の従事、鶚が槐樹に留まり鐸が石を投げても去らぬのを熙古が一矢で射抜き、鐸に称賛された逸話がある。晉天福初、鐸の汝州移鎮に従い、下邑令、三司戸部出使廵官、永興・渭橋・華州諸倉の制置発運を歴任。
- 漢に仕えて盧氏令、周廣順中亳州防禦推官、澶州支使、秦鳳平定で秦州観察判官。太祖が宋州節度使の頃、節度判官として仕え、即位後は左諫議大夫知青州、車駕の維揚征討に扈従。建隆二年(961年CE)晋州榷礬の制置を詔され課税を八十余万緡増収。
- 乾徳初、刑部侍郎知鳳翔府、まもなく秦州に移り、境界の侵寇に対し朝廷の恩信で蕃部酋豪の子弟を人質とし辺境を安んじた。兵部侍郎徙知成都府、六年(968年CE)端明殿学士。母の喪から復帰、開寶五年(972年CE)参知政事に召され名馬・銀鞍を賜る。まもなく足疾で辞し戸部尚書致仕、九年(976年CE)卒、享年七十四、右僕射を贈られた。
- 陰陽象緯の術に通じ『続聿斯歌』一巻、『六壬釈卦序例』一巻を著した。顕貴になっても寒素の暮らしを守り、十八年の在官・三十余年の朝廷勤務に過ちがなかったという。『歴代紀要』十五巻を編み、小学にも精通し『切韻拾玉』二篇を摹刻して献上、国子監に頒行された。子は蒙正・蒙叟。
蒙正(頤正)――劉熙古の子
- 騎射に優れ、乾徳中蔭補で殿直から供奉官。江南征討に軍中で乗伝を命じられ、盧絳の潤州援軍に対し部署丁徳裕に精鋭百人での出撃を進言、矢が脇腹に当たっても奮戦し潤州を陥落させ知州劉澄・監軍崔亮を捕らえた。
- 嶺南の香薬陸運の経路(広州・韶州・江水を溯り南雄経由で大庾嶺を歩行輸送し南安軍へ)を規画。朝服法物庫を管理し繍衣鹵簿の規式を定めた。太平興国四年(979年CE)内蔵庫副使、崇義使、内蔵庫の創設に伴い二十余年その典領を務めた。
- 真宗初、如京使、滄・冀・磁三州を歴任し戎人の侵寇に対し城を固守したが功があったにもかかわらず、擅乗駅馬の罪で亳州団練副使に貶され、咸平四年(1001年CE)卒、享年七十二。
蒙叟(道民)――劉熙古の子
- 乾徳中進士甲科。岳州・宿州の推官を経て推薦により太子中允、済州知事、秦王子徳恭の判州事の下で通判、遷右補闕・起居舎人・戸部塩鉄判官・屯田郎中、廬・濠・滁・汝四州の知州を歴任。
- 咸平中(998-1003年CE)、皇帝が服喪を終えて政務に励むべきこと、奢りを慎み三軍の賜与を厚くしすぎず万民の負担を軽くすべきことを上疏し評価された。直史館として車駕北巡の際、中宮の名で『宋都賦』を献じ、遷都・宗廟建立の意義を論じたがすぐには実現せず後に採用された。
- 職方郎中、景徳中(1004-1007年CE)足疾で太常少卿致仕し卒、享年七十三。学を好み文辞を善くし『五運甲子編年歴』三巻を著した。子宗儒(太子中書)、宗弼、宗誨は皆進士及第。