宋史卷二百六十三 列傳第二十二 竇儀

竇儀(字は可象、薊州漁陽の人、?–乾徳四年)は後晋・後漢・後周・北宋に歴仕した文官で、科挙制度の改革や『刑統』三十巻の編纂に携わった剛直な学者。弟の儼・侃・偁・僖もみな科挙に及第し「竇氏五龍」と称された。太祖に信任されたが趙普に忌まれ宰相にはなれなかった。

年表(7件)

出自と生涯

  • 薊州漁陽の人。曾祖遜は玉田令、祖思恭は媯州司馬、父禹鈞は兄禹錫とともに詞学で知られ、後唐から周にかけ諸州の掾官を歴任し右諫議大夫致仕。
  • 儀は十五歳で文を能くし、晉天福中進士及第。侍衛軍帥景延広の記室として夔州節度に従い、延広の歴任した滑・陝・孟・鄆の四鎮すべてに従事として仕えた。開運中、楊光遠の青州反乱に伴う契丹侵攻の際、博州刺史周儒の投降と契丹軍の馬家渡渡河を予見し、執政に厳戒を進言(実際に周儒は契丹軍を導き入れ危機となったが、李守貞らの防備で撃退)。
  • 漢初、左補闕礼部員外郎、周廣順初倉部員外郎知制誥、翰林学士。周祖の南御荘での宴射で金紫を賜る。駕部郎中給事中を歴任。劉温叟の知貢挙で覆試の落第者が出た事件に伴い礼部侍郎権知貢挙となり、晉天福五年制(科挙制度の改革:進士省巻の規格、明経童子科の廃止、落第者の五等分級、学究科の統合、及第後の選期短縮など)の復活を詳細に上言し採用された。
  • 父の病により辞官を上表するが世宗が慰撫し金丹を賜与、父の死後は洛陽に葬り喪を終えて端明殿学士。淮南征討に判行在三司として従い、餉饋の遅延で罪せられかけるも宰相范質の取りなしで免れた。淮南平定後は河南府判兼知西京留守事。恭帝即位で兵部侍郎充職。
  • 南唐への使いで、雨雪の中で李景が廡下での拝受を求めたのに対し「国命を帯びる以上、旧礼を失えぬ」と拒み、李景は庭で正式に拝命した逸話がある。建隆元年(960年CE)工部尚書に遷り学士を罷め大理寺を判じ、『刑統』三十巻の重定を詔された。
  • 翰林学士王著の飲酒失態を機に太祖が「深厳の地には宿儒を」と述べ、宰相范質らが「竇儀は既に端明殿に遷っている」と答えると太祖は「この人でなければ禁中は治まらない」と述べ再び翰林学士に。乾徳二年(964年CE)、范質ら三相が罷免され趙普が拝相する際、陶穀の建議に対し儀は「南省六官の長が敕を署するのは非承平の制」と正論を述べ、太宗(皇弟開封尹)の署名が正しいと太祖に容れられた。
  • 礼部尚書に加えられ、御史台の表首を巡る儀礼論争で典故を引き正論を主張。四年(966年CE)秋知貢挙、その冬卒した。享年五十三、右僕射を贈られた。学問優博で風度峻整。弟の儼・侃・偁・僖はいずれも科挙に及第し、馮道が禹鈞に贈った詩(「霊椿一株老、丹桂五枝芳」)から「竇氏五龍」と称された。
  • 周祖の兗州平定に際し無差別の誅殺を諫め馮道・范質とともに助命を実現。顕徳中、太祖の滁州陥落に際し府庫を籍録した際、私に絹を給しようとした太祖に対し「既に公帑と記録した以上、詔なくして取れぬ」と拒んだ。太祖は儀の剛直を評価し宰相にしようとしたが、趙普が儀の剛直を忌み薛居正を参知政事に引き入れた。儀の死に太祖は深く惜しんだという。侃は漢乾祐初及第で起居郎、僖は周廣順初及第で左補闕。子諲・諹・誥はいずれも進士及第、諲は都官員外郎、諹は祕書丞。

儼(望之)――竇儀の弟

  • 幼くして文を能くし、晉天福六年(941年CE)進士及第。滑州従事から著作佐郎集賢校理、天平軍掌書記。母の喪から復帰し左拾遺。開運中(944-946年CE)諸鎮の酷刑濫用に対し、名例律の死刑二種(絞・斬)以外の私的な残虐刑を禁じるよう上疏し採用された。
  • 漢に仕えて史館修撰、周廣順初右補闕として賈緯・王伸と晉高祖・少帝・漢祖三朝実録を修め、主客員外郎知制誥。兄儀と同日に翰林院・中書舎人に相並んで拝命し「兄弟並立」の栄誉を得た。金部郎中を経て中書舎人。顕徳元年(954年CE)集賢殿学士判院事、父の喪から復帰。
  • 「歴代致理六綱」(礼・楽・政・刑・農・武)を人体の各機能に喩えた長文の疏を上言し世宗に評価された。南征帰還後、雅楽の考正(鐘磬管籥の数、清濁上下の節、律呂旋相の法)を命じられ翰林学士判太常寺、後世に踏襲される成果を残した。
  • 官吏の実務経験不足を憂え、両畿諸県令・外府州県令の格上げや朱紫の賜与、遷任制度の整備を提言。また農政書(斉民要術・四時纂要・韋氏月録)から田蚕園囿に関する記述を集めた一巻の頒布を提言したが採用されなかった。
  • 宋初、礼部侍郎として兄儀に代わり知貢挙、祀事楽章宗廟諡号の多くを撰定し博識を評された。澤潞征討には病で従わず卒、享年四十二。「周正楽成」百二十巻を撰し史閣に蔵された。「通礼」は未完のまま没した。文集七十巻。
  • 儀とは特に才俊の間柄で唱和が三百篇に及び、道義で互いを励ました。荊南使者として髙氏一族の僭越な儀礼(司賓すら公礼を犯す)を天子の礼を説いて正した。星歴に通じ吉凶を予知したとされ、盧多遜・楊徽之の官職占い(「丁卯歳、五星聚奎、天下太平」)を的中させたが、自らは「五人の兄弟が皆進士及第するも輔相に至る者はいない、ただ偁がやや近いが久しく在位せぬだろう」と語り、その通りとなったという。子は早世、姪の説を嗣とした。

偁(日章)――竇儀の弟

  • 漢乾祐二年(949年CE)進士及第。周廣順初単州軍事判官、絳州防禦判官、宋初武寧軍掌書記、西京留守判官、天雄・帰徳軍節度判官。開寶六年(973年CE)右補闕知宋州、「遂命賦」を作り自らを慰めた。
  • 太宗が開封尹の頃、判官に選ばれるが同僚の推官賈琰の人柄を嫌い、宴席で琰の矯誕な言葉を「巧言令色、心に恥じぬのか」と叱責し太宗を驚かせた。彰義軍節度判官に出るが、太平興国五年(980年CE)車駕幸大名で行在に召され比部郎中、北征論議で休兵牧馬を進言し容れられた。
  • 樞密直学士、賜第、六年(981年CE)左諫議大夫充職、七年(982年CE)参知政事。太宗の「何をもってここまで至ったか」との問いに、太宗自ら「賈琰を公正に責めたことを朕は直臣として旌した」と答えた逸話がある。同年秋卒、享年五十八。車駕自ら哭し工部尚書を贈られた。
  • 涇州で丁顥と同官の頃、幼い顥の子謂(後の宰相丁謂)を見て「この子は必ず遠く至る」と娘を娶わせた逸話も伝わる。太祖はかつて宰相に「竇儀は質重厳整で家法があり門を治めた、諸弟は及ばぬが、偁は操を持ち嘉すべし」と評したという。