宋史卷二百六十三 列傳第二十二 張昭

張昭(もと昭遠、字は潜夫、濮州范県の人、?–開寶五年)は後唐・後晋・後漢・後周・北宋の五朝に歴仕した史家・文官。若くして史学に通じ、荘宗実録・明宗実録・唐書二百巻など歴代の実録・史書編纂を担い、博学と直言で知られた。宰相位には至らなかったが五朝にわたり信任され、蔵書数万巻を有する碩学であった。

年表(10件)
  • 同光初監察御史裏行を加えられる
  • 天成三年安義軍節度掌書記に転じ史材を評価され史官に登用される
  • 天成四年『武王以来功臣列伝』三十巻を上呈し知制誥となる
  • 清泰中駕部郎中知制誥として『明宗実録』を完成させる
  • 天福五年戸部侍郎となり『唐朝君臣正論』を撰する
  • 開運二年『唐書』二百巻を完成させ金紫階を加えられる
  • 乾祐二年検校礼部尚書となる
  • 顕徳元年兵部尚書として世宗に重んじられる
  • 乾徳元年郊祀の鹵簿使を務め鄭国公に加封される
  • 開寶五年享年七十九で卒す

出自と生涯

  • 本名昭遠、漢祖の諱を避け昭と称した。自ら漢の常山王耳の後裔と称し、代々濮州范県に住んだ。祖父楚平は寿張令。父直は楚平が長安に赴く途中、黄巣の乱で行方不明になったため孤児として河朔に避難、成人後は失踪した父を求め秦から蜀まで十年放浪するも見つからず、喪に服して海浜で耕作した。
  • 青州王師範に儒士として招かれ賓客に列したが、師範が梁に降ると直は難を逃れ北帰、周易・春秋を教える「逍遥先生」と称された。昭は十歳で古楽府・詠史詩百余篇を暗誦し、冠を迎える前に九経を通読、程生という史学の師から班固・范曄の漢書を学び史学に開眼、十代史をすべて修め十代興亡論を著した。
  • 後唐荘宗の入魏に伴い河朔の遊士が軍門に集う中、昭も文数十軸を携え興唐尹張憲を訪ね厚遇され推官に。同光初(923年CE)監察御史裏行を加えられ、憲の北京留守に従い晉陽に赴く。荘宗の死に伴う鄴の兵変で憲の部将符彦超が呼応した際、昭は憲に「表を奉じ勧進するのが自安の計」と説くと、憲は「主上に知られ保釐に至った書生が、なぜ靦顔して生を求めようか」と答え死を選んだ。昭も殺されかけるが「明誠の至り、再生を望まぬ、死してなお悔いなし」と言い放ち、囚われて符彦超に送られたが「正人ゆえ害するな」と釈放された。
  • 天成三年(928年CE)、安義軍節度掌書記に改まる。武帝(荘宗)・荘宗実録の未修を機に、昭が私撰した『同光実録』十二巻や史材が評価され、左補闕史館修撰として編纂を委ねられた。懿祖・献祖・太祖(帝位に即かなかった三代)を紀年録二十巻として補い、『荘宗実録』三十巻を献上し都官員外郎に遷った。
  • 皇子の奢侈を憂え、師傅を置き徳を修めさせるべきとの長文の疏を明宗に奉った(隋の煬帝・唐の魏王泰の例を引き、嫡庶の別を保つよう説く)が採用されなかった。天成四年(929年CE)『武王以来功臣列伝』三十巻を上呈し知制誥。
  • 明宗の畋猟を諫める疏(洛都の苑囿から離れる危険、四海平定前の徳による感化の必要、作法の弊風、後世への示範の四点)を上言し嘉納された。長興二年(931年CE)内艱に絹布・米麦を賜り、喪から復帰後は職方員外郎知制誥充史館修撰。観察使の復置・御史彈事・諫官への諫紙支給などを提言し、勧農・常平倉設置なども上言した。
  • 「安不忘危、治不忘乱」の古訓を引き、太宗貞観・玄宗開元の治を引きつつ「保邦の道八審」(材器・忠邪・煩苛・徳力・喜怒・愛憎・賢愚・姦佞の八つの審査)を説く長文の疏を奉り明宗に称賛された。
  • 清泰中(934-936年CE)駕部郎中知制誥、皇后冊文を撰し中書舎人に遷る。判史館兼点閲三館書籍を経て『明宗実録』三十巻を完成、礼部侍郎、御史中丞。晉天福初、汴州行幸に伴い宮闕の名額創設、朝綱の振興を進言。桑維翰の推挙で翰林学士となり、内署の入位順序の特例を勅で認められた。
  • 晉祖から重んじられ、著作佐郎致仕の恩典で父直に贈位を得た。天福五年(940年CE)服喪明けで戸部侍郎、唐史編纂に関わり『唐朝君臣正論』二十五巻を撰した。開運二年(945年CE)『唐書』二百巻完成で金紫階を加えられ爵邑進む。三年(946年CE)尚書右丞判流内銓権知貢挙。漢初、吏部侍郎として六廟の諡号・楽章の制定を判じた。
  • 乾祐二年(949年CE)検校礼部尚書。少帝の親昵する小人らを憂え儒臣との経義討論を進言。周廣順初戸部尚書、子秉陽の罪に連座し自ら引咎して太子賓客に左遷されるが翌年復官。制挙(賢良方正・直言極諫・経学・吏治・教化の三科)の設置を上奏し採用された。
  • 顕徳元年(954年CE)兵部尚書、世宗に重んじられ致仕を求めるも慰留された。『制旨兵法』十巻、周祖実録三十巻を撰し、梁・後唐閔帝廃帝・漢隠帝の五朝実録も試みたが史料散逸で断念。世宗の布衣抜擢策に対し「唐の劉洎・馬周は太宗が用いて国が興ったが、栁璨・朱朴は昭宗が用いて国が亡んだ」と諫め、旧法を保つよう説いた。
  • 経典釈文・九経文字・制科条式・六璽の由来・三礼図祭玉文鼎釜等の詳定を任され博学ぶりを評された。恭帝即位で舒国公、宋初吏部尚書。乾徳元年(963年CE)郊祀で鹵簿使、宮闕廟門郊壇の夜警晨厳の制を復旧、礼畢後鄭国公に加封。
  • 翰林承旨陶穀と選挙を共に掌るが、穀の誣告事件に証人として引かれ免冠して抗論、太祖に不満を抱かれ三度の上表で致仕、陳国公に改封。開寶五年(972年CE)卒、享年七十九。
  • 学術に博通し天文・風角・太一卜相・兵法・釈老の説にも通じ、蔵書数万巻を有した。嶺南平定で劉鋹の献俘の礼を知る者がおらず、太祖が近臣を病臥中の昭のもとに派して口述で答えさせた逸話がある。『嘉善集』五十巻、『名臣事迹』五巻を著した。子秉図は進士及第、秉謙は尚書郎。