宋史卷二百六十二 列傳第二十一 程羽

出自と生涯

  • 深州陸沢の人。若くして学を好み文を能くし、晉天福中進士に及第、陽穀主簿から虞郷・醴泉・新都令を歴任し政績を上げた。開寶中(968年CE以降)、両使判官に選ばれ太祖に時事を問われ的確に対応し著作郎に抜擢、興州・興元府の知事を歴任。
  • 帰闕して開封府判官となり、太宗が開封尹であった頃から長者として遇された。太宗即位で給事中知開封府、成都府知事として寛簡な政治で蜀人に慕われた。礼部侍郎、文明殿学士として枢密副使に次ぐ地位を得て泰寧坊に第を賜った。
  • 太平興国五年(980年CE)貢士試験を主宰し得た人材が多く、六年(981年CE)老疾で解職を求め兵部侍郎、まもなく致仕し全俸を給された。雍熙元年(984年CE)卒、享年七十二、礼部尚書を贈られた。子帝振は蔭補で尚書虞部員外郎に至り大中祥符元年(1008年CE)卒、その子適は同学究出身を賜った。従孫の琳は別伝がある。

史論

  • 五代の国は三代四代と続かぬうちにすぐ姓が変わり、その臣下は君に仕えることを雇い人のように見なした。主が変われば他家に仕えるのが常となり、唐が滅べば晉に、漢が禅譲されればすぐ周に拝したのを君子は嘆いた。李穀・邊歸讜・竇貞固・李濤らは廟堂や側近として世主に寵任され社稷の柱石でありながら、姓の異なる主に代々仕え名節を全うできなかったのは道義に悖る。特に李穀は籌策を自任しながら趙匡胤(藝祖)の寛容の器量を見抜けず、李筠の贈り物を受けたことで殺されることを恐れ憂死したのは何とも謬りである。ああ、魏の范粲・斉の顏見遠のような節義こそ前史に顕彰されるべきであった。