宋史卷二百六十二 列傳第二十一 劉溫叟

劉溫叟(字は永齢、河南洛陽の人、?–開寶四年)は唐武徳功臣劉政会の後裔で、後唐・後晋・後漢・後周・北宋に歴仕した礼法を重んじる文官。契丹の汴入城の際は北送を免れるべく画策し、後周では礼部侍郎として貢挙の公正さを貫き、北宋では御史中丞を十二年務めて厳格な監察を行った。清廉と孝行で知られ、太祖からも深く信頼された。子の煜、孫の几もそれぞれ地方官・軍事で活躍した。

年表(4件)

出自と生涯

  • 河南洛陽の人。重厚方正で礼法を守った。唐の武徳功臣政会の後裔、叔祖崇望は昭宗の宰相、父岳は後唐太常卿。七歳で文を能くし楷隷を善くした。父岳は「わが子の器は非凡だが寿命だけが分からない、世が治まれば我らともに温洛の叟となろう」と名付けたという。
  • 蔭補で国子四門助教・河南府文学、清泰中(934-936年CE)左拾遺内供奉、老母のため監察御史分司に転じ台署を刷新。晉初、王松の判官、開封府廵官、少帝即位で刑部郎中を経て都官郎中知制誥。父岳がかつて務めた内署の任に自身も就き人々に栄誉と見なされた。
  • 母の誕生日に禁中から贈られた紫袍を受け取り影堂に告げ泣いた逸話がある。契丹の汴入城で北へ連行されるのを恐れ、承旨張允と共に解職を求めたが契丹主の怒りを買い、趙延寿の助言でかろうじて罷職に留まった。漢祖南下時は病と称し従わず、周初左諫議大夫、中書舎人加史館修撰、顕徳初礼部侍郎知貢挙で及第者十六人のうち讒言により十二人が黜されたが、後年その者たちが相次いで登第し温叟の私心のなさが証明された。
  • 恭帝即位で工部侍郎兼判国子祭酒事、宋初刑部、建隆年間御史中丞。母の喪に服し、吏部銓を判じ官吏の帰任制度を整備する上言を行った。太祖が非時に明徳門西闕に登った際、儀を守るため騶従を通常通り呼び続け、翌日「陛下が非時に登楼せぬことを衆に示すため」と説明し太祖に称賛された。
  • 憲府の公用茶の贈答慣行を辞退し、御史中丞を十二年務めて代任を求めたが太祖に難色を示され続けた。開寶四年(971年CE)病に伏し太祖が器幣を賜り、卒、享年六十三。継母への孝、盛暑でも冠帯を崩さぬ礼、楊徽之・趙隣幾ら門生の輩出、太祖から贈られた銭五百千を一年間開封せず節を示した逸話などで知られる。
  • 太宗が晋邸にあった頃、贈った角黍・扇の使者が銭の封が破られていないことを確認し、太宗が感嘆した話も伝わる。子炤(子隨)は太子右賛善大夫、煜は司封郎中、炳は進士及第。

煜(耀卿)――劉溫叟の子

  • 進士及第、祕書省著作郎知龍門県として盗殺人犯を捕らえ逃亡を防ぐため即座に処刑した果断さで知られた。益州通判、王曙の蜀治政の苛烈さを問われ「凌策の寛容な統治は豊作簡易な時代ゆえ、曙は昨今の飢饉の中では法外なことはしていない」と擁護。
  • 天禧元年(1017年CE)諫官の設置で右正言、飢饉・河決に伴う滑州の労役を批判し宰相の策免を求めた。祥源観建立の不経済さ、提点刑獄の罷止、仏道への帰依禁止など諫言を重ね、判吏部流内銓、三司戸部副使、龍図閣待制、開封府事権発遣、刑部郎中龍図閣直学士、知河南府・河中府を歴任し卒。
  • 王曙が寇準に連座し貶官された際、誰も見舞わなかった中、煜だけが訪れ一夜を過ごした。河中処士李瀆の高行を上疏し著作郎の贈位を得た逸話も。子は几。

几(伯壽)――劉煜の子

  • 蔭補で将作監主簿。范仲淹に召され邠州通判、鹵地で水不足に悩む民のため渠を浚渫し水を引いた(郭汾陽の旧城引水説を退け水路整備を実施し的中)。孫沔の推薦で如京使、寧州知事で妖術を用いた反乱の芽を摘んだ。
  • 儂智高の嶺南侵攻に自ら効力を志願、廣東西捉殺道を経て蔣偕・張忠の戦死後、狄青に「賊が巣穴に退けば持久戦を、そうでなければ決戦を」と進言、歸仁舖の激戦で右軍を率い青の勝利に貢献。皇城使、涇州知事を歴任し老母のため文官への復帰を願うと仁宗が特別に配慮。
  • 西上閤門使、曾公亮の推挙で太原涇原路総管、夏人の侵攻に対する統率、渭州知事との対立を経て鄜州に左遷。三班院判官として英宗の問いに大順の防衛戦略を的確に答え神が如くと評された。
  • 秦鳳総管、神宗即位で四方館使知保州、政績が河北随一と評され、六年後に祕書監致仕を請う。元豊三年(1080年CE)明堂祭祀で音律に通じることを買われ太常で雅楽を定め「古楽は五代の乱離で四清声を失った」と増補を進言。
  • 致仕後二十年、嵩山で異人靖長宮に養生術を学び老いても衰えず、辺事論では「夜間の飲酒を禁じるのは士気を損なう」と反論した逸話もある。通議大夫に加えられ享年八十一で卒。楽律論では「律は人声に基づき時代とともに変わるべき」との説を唱えたが、その解する音律は鄭衛の俗楽に近いと評された。