出自と生涯
- 徐州彭城の人。後唐天成中、進士に及第し鳳翔掌書記、左拾遺。太常丞史在徳の廟諱を犯した上章を弾劾し、時論の支持を得た。山南東道節度判官、左補闕、起居舎人、晉天福初司勲員外郎史館修撰、工部郎中。
- 少帝の奢侈(銀を金に換え器皿を広げた)に伴う左藏庫の数の帳簿の食い違いを李崧に問われた際、事情を説明し罰俸で済んだ。漢初、蘇禹珪の推挙で中書舎人、周廣順中、子頊が誥命の代草に連座して少府少監に左遷(頊も復州司戸に貶)。
- 顕徳初太常少卿、右諫議大夫、四年(957年CE)再度の知貢挙で、枢密使王朴の推薦する童子を拒んだことで王朴の恨みを買い、南征中に取士の不精を弾劾されて翰林学士李昉の再試験で七人が黜され、太子右賛善大夫に降格。
- 恭帝即位で右詹事、剛毅な性格で宰相范質と不和になり洛陽の清化里に隠退。太祖に旧臣として重んじられ、開寶二年(969年CE)老病を理由に召還され祕書監致仕、享年七十二で卒した。清泰初、盧導が薛居正を「文章器業必ず台輔に至る」と推挙した際、濤も強く推薦し後に薛居正は宰相となった。子頊の子嵗晟・子訥・譚は皆進士及第。