宋史卷二百六十二 列傳第二十一 李濤

李濤(字は信臣、京兆萬年の人、唐敬宗の子郇王瑋の十世孫)は後晋・後漢・後周・北宋に歴仕した文官。後晋では涇帥張彦澤の非道を強く弾劾し節制罷免に追い込み、後漢では隠帝に藩鎮抑制を進言したが容れられず、後に「李濤の言を用いなかったのが漢滅亡の因」と評された。北宋でも兵部尚書として無辜の処罰を正すなど直言で知られた。弟の澣は契丹に抑留されながらも本国への内報を続け、應暦十二年(962年CE)に契丹の地で没した。

年表(4件)

出自と生涯

  • 京兆萬年の人。唐敬宗の子郇王瑋の十世孫。祖父鎮は臨濮令、父元は将作監。朱梁革命の際、宗室として難を避け湖南に逃れ馬殷に依った。従兄郁が梁の閤門使として父子の帰京を上言し、河陽令に補せられた。後唐天成初年に進士甲科及第。
  • 起居舎人、晉天福初に考功員外郎・史館修撰。晉祖が大梁に幸した際、張従賞の盟津反乱に連座しかけた張継祚の家族を、その父全義の功績を理由に赦免するよう上疏。宋州括田使として袁正辞の田園託送を上奏し、正辞を降格させた。
  • 涇帥張彦澤が記室張式を殺しその妻を奪った際、濤は伏閤して法による処断を強く求め、晉祖と激しく対立(笏を叩き声色を厲しくした逸話)。結果、彦澤の節制は罷免され、張式の遺族が官を授けられた。濤自身は洛下に退き詩を作って悲しんだ。
  • 契丹の汴入城の際、張彦澤が殺戮を行う中、濤は自ら彦澤の帳に赴き対峙。漢祖起義の際は財賦の状況を的確に答え翰林学士に抜擢。杜重威の鄴反乱討伐が二師不協で難航する中、親征を進言し高祖に宰相の器と認められ中書侍郎兼戸部尚書平章事に拝された。
  • 隠帝の代、楊邠・周祖が枢密を掌り史弘肇が兵権を握る中、藩鎮出鎮による中外の権力争いを収めるよう進言したが容れられず罷相。太后が後に「李濤の言を用いなかったのが漢の滅亡の因」と嘆いた。
  • 周初、太子賓客として起用され刑部・戸部二尚書、世宗の山陵副使、恭帝即位で莒国公。宋初、兵部尚書、建隆二年(961年CE)病中、軍校尹勲が丁夫を杖殺した事件に対し「兵部尚書として無辜の殺人を見過ごせぬ」と病を押して上奏し、太祖はこれを嘉して尹勲を処罰した。
  • 卒、享年六十四、右僕射を贈られた。慷慨として大志を抱き経綸を自任し、詩文にも優れ滑稽を好んだが人を害することはなかった。孝友で聞こえた。子承休(尚書水部郎中)、孫仲容。

澣(日新)――李濤の弟

  • 幼くして聡敏で王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王の文章を慕った。後唐長興初、呉越王銭鏐の神道碑起草を楊凝式に代わって行い、その文彩が称賛された。秦王従栄の幕に召されるも従栄失脚で田里に帰され、のち校書郎・集賢校理として復帰。
  • 晉天福中、右拾遺、翰林学士(学士院廃止で吏部員外郎に一時転出)、礼部郎中知制誥を経て中書舎人・学士に復帰。契丹の汴入城で北方に連行され、永康王のもとで宣政殿学士。永康王死後、幽州節度使蕭海貞との親交から南帰の計を密かに勧めた。
  • 周廣順二年(952年CE)、定州孫方諫を通じ契丹の衰弱を上言し、田重覇の使者に通信を委ねられた。契丹主の幼弱ぶりや大臣の離反を分析し出師を勧めたが、中原の多事により採用されなかった。契丹から一度脱出を試みて捕らえられ、以後厳しく監視された。契丹の応暦十二年(建隆三年・962年CE)、契丹の地で没した。
  • 濤はその文章を編んで『丁年集』とした。二子は承確(主客郎中)・承続(職方郎中)。

仲容(李濤の孫、字は儀)――出自と生涯

  • 父の李吉が進士甲科及第。仲容は大理評事・三原県知事から監察御史・殿試進士考官を歴任。真宗の問いに的確に答え中書に召される。左司諫・直史館、天聖中(1023-1032年CE)起居郎知制誥。
  • 右諫議大夫として八年在職したが、宰相張士遜に嫌われ学士昇進を逃し給事中・集賢院学士判史館司農寺に。石中立・張観の学士補任を機に翰林侍読学士、龍図閣学士、戸部侍郎に至り卒した。
  • 醇厚な性格で酒を好み、人と忤らわず勢利に触れなかった。早世した三人の弟の子十余人を我が子のように育てた。吏事には長じなかったが、制草を集めた『冠鳳集』十二巻を著した。