出自と生涯
- 幽州の人、本名晏僧。梁末に軍籍に入り、晉初に契丹語に通じるとして北辺への使者に応募し右班殿直に改まり、この名を賜った。西頭供奉官に遷り、再度契丹に使いした際、契丹主に才を認められ帳前通事として留められた。
- 南侵に伴い忠武軍節度を署せられ、漢初に鄧州へ移鎮。牛革の禁令が厳しい漢の法のもと、民が牛革で鼓を作った罪を問われた際、公正な処断を行い評価された。乾祐末に罷鎮して来朝、周祖挙兵の際は迎撃したが退却。
- 周廣順初(951年CE)、兗州征討に従い薛国公に封じられる。世宗の南征では右廂排陣使、顕徳三年(956年CE)には韓令坤らと揚州を襲取、泰州を先鋒都部署として攻略。楊行密子孫の永寧宮から玉硯・玉杯盤・水晶盞・碼碯盌・翡翠瓶を得て献上。
- 廬州行府事・行營都部署を兼ね、淮南各地の敵軍を破る。世宗の再度の呉遠征では紫金山で敗走する敵三千余を討ち、寿州平定に武勝軍節度を授かる。淮南平定後は邠州に鎮し、世宗北征では先鋒都指揮使、恭帝即位で燕国公に封ぜられた。
- 宋初、右羽林統軍、乾徳五年(967年CE)左領軍衛上將軍に改まる。太祖は「重進は応対において常人に及ばない、前朝は将帥としたが実力に乏しい」と評したという。六年(968年CE)卒、享年七十。