出自と生涯
- 許州長社の人。若くして読書し大志を抱き、筆硯に安んじず異域で功を立て万戸侯を得ようと語った。任侠の徒として三晉を遊歴した後、晉祖が太原に鎮した際に儒服で謁見し帳下に留められた。
- 天福初(936年CE)皇城使・宮苑使を兼ねる。安重榮の反乱、安従進の襄陽挙兵に対し諸将を督して進討、唐州で従進軍を破り牙将安洪義・鮑洪ら五十余人を生擒。均州刺史蔡行を援護しに来た従貴の軍七百を殺し百を生禽、従貴の腕を斬って城中に放った。以後従進は勢いを失った。
- 齊州防禦使、少帝即位後は襄陽防禦使、右千牛衛大將軍、宣徽北院使・南院使を歴任。西人の侵寇に自ら討伐を志願し秦州観察使兼諸蕃水陸転運使となり、恩信で諸酋長を招撫し辺境を安んじた。
- 陝州、保義軍兵馬留後を経て、漢初鳳翔軍校陽彥昭の反乱を討伐し保大軍節度を授かる。隠帝末に北征を命じられたが、周祖挙兵の際は留子陂で敗れ周祖に帰順。世宗の淮南征討では左廂排陣使、その功で彰武軍節度に拝せられる。
- 宋初、右金吾衛上將軍・右武衛上將軍、乾徳三年(965年CE)権知延州、四年(966年CE)判右街仗。向拱が西京留守で職務怠慢のため盗賊が横行した際、太祖が継勲を代任させると一月余で京城が粛然となった。洛陽宮の修築を督して功があり彰徳軍節度知留府事に任じられた。
- 太平興国三年(978年CE)卒、享年七十八、太尉を贈られた。史伝に精通し治道に通じたが吝嗇で公費節減を好み、時論はこれを軽んじた。子は守節。
守節(秉直)――出自と生涯
- 左班殿直に補せられ、江淮南路採訪使として派遣され、閤門祗候に抜擢。李順の残党を上官正とともに討平し、高溪州蛮の侵寇にも対処案を進言。
- 咸平中(998-1003年CE)、江淮南荊湖路兵馬都監に選抜され、施夔州の叛蛮を大義で説き帰順させ境界を画定。閤門通事舎人として香薬榷易院を監督し、増収を実現。
- 契丹使節への応対で機知を示した逸話(黄龍府をめぐる問答)が伝わる。宮苑副使・皇城副使・東上閤門使・榮州刺史などを歴任し、襄・鄧・汝三州の知州を経て四方館使に至り、右神武大將軍として致仕、卒した。