宋史卷二百六十一 列傳第二十 陳思讓
陳思讓(幽州盧龍の人、?–開寶七年)は後唐末から仕えた武将で、後周・北宋の各朝に歴仕し軍功を重ねた。後周世宗の下で北漢・契丹との戦いに功を挙げ、北宋建国後は各鎮の節度使を歴任、娘は皇子徳昭の夫人となった。仏教を篤信し施しを好んだため、没後は家に余財がなかったという。
出自と生涯
- 幽州盧龍の人。父審確は後唐から晉にかけ檀・順・涿・均・沁・唐・祁・成の八州刺史を歴任し、蜀征討にも従い金州防禦使で終わった。
- 思讓ははじめ荘宗の帳下に仕え、即位後右班殿直、晉天福中東頭供奉官を経て作坊使に累遷。安従進が襄陽で反乱すると先鋒右廂都監として焦繼勲に従い唐州花山で大破し、功により獎州刺史を領した。
- 澶州軍を監督し楊光遠討伐にも従軍。契丹の侵攻に際し磁州刺史となる。符彥卿の契丹北征に従軍を志願し衛州に改まるが、内外の喪に遭うと武臣には珍しく詔を待たず自ら郡を離れ喪に赴き、称賛された。
- 漢初に淄州へ移り、朗州馬希蕚と淮南が合兵して湖南を攻めた際に応援に赴くが途上で馬希廣が敗れ郢州に留まる。周祖即位後、召還され磁州刺史・北面兵馬廵検、のち團練使を経て磁州団練使となる。
- 廣順元年(951年CE)、劉崇軍を虒亭西で撃破し数百を生禽、王璠・曹海金・馬五十匹を獲た。晉州援護、絳州経略などを歴任し顕徳元年(954年CE)亳州防禦使兼昭義軍兵馬鈐轄となり并州軍・契丹援兵を破る。安国軍節度観察留後・北面行營馬歩軍排陣使を経て五年(958年CE)西山下で并軍を大破。
- 邢州の官吏・耆老が留任を請うほど信望が厚く、六年(959年CE)義成軍節度観察留後、世宗の北征に従い雄州都部署として関南を守った。恭帝嗣位で広海軍節度、宋初検校太傅、乾徳二年(964年CE)保信軍節度に改まり、皇子徳昭が思讓の娘を夫人に迎えた。開寶二年(969年CE)護国軍節度河中尹に改まり、七年(974年CE)卒、享年七十二。侍中を贈られた。
- 各鎮を歴任して失政はなかったが、仏教を篤信し禁屠を布いたため俸禄はすべて施僧に費やされ、没後は家に余財がなかった。弟思誨は六宅使に至り、その子欽祚は香薬庫使・長州刺史。欽祚の子が若拙。
若拙(敏之)――出自と生涯
- 若拙は幼くして学を好み、思讓の命で晉邸に書を届けたことで太宗の目に留まり、応対を褒められ軍職を勧められたが辞退した。
- 太平興国五年(980年CE)進士甲科に及第。将作監丞・鄂州通判・単州知州・太常丞・監察御史・鹽鐵判官などを歴任。益州の繋囚が多く太宗が驚いて面諭し、疏決を委ねられた。
- 殿中侍御史・益州通判、淳化三年(992年CE)西川転運副使、のち正使。李至が洛都留守となった際その佐治を評され度支員外郎・西京留司通判に。柴禹錫の涇州鎮でも通判に召された。
- 鹽鐵判官・工部郎中を経て、三司使陳恕と不和になり開拆司主判に転出。車駕北巡の際は判官として李沆の東京留守を補佐。黄河決壊による鄆州の遷城問題では閻承翰とともに規画し、権京東転運使として王陵口の塞閉や斉州での水利事業を行い、六州の梢木五百万の免除を奏請し民の便益となった。
- 転運使として召還され刑部郎中・知潭州。三司使の後任を自ら望んだが失望し、父母が老いたことを理由に赴任を辞退したところ真宗の怒りを買い、告勅を追奪され処州に左遷、のち温州へ移された。
- 復帰後、刑部郎中・鹽鐵判官・兵部郎中・河東転運使を歴任し金紫を賜る。汾陰の祭祀に際し所部の緡帛芻粟十万を輸送して援助し、陳堯叟の推挙で右諫議大夫に抜擢。永興軍府知事のとき隣郡の飢饉に対し貿易を許して民を救い、鳳翔府にも転任。給事中・知澶州として蝗害・旱害の後をよく治め、天禧二年(1018年CE)卒、享年六十四。子の映は奉礼郎を録された。
- 若拙は誕妄なところが多く学術に乏しく、榜眼(進士第二位及第者)となった年、文才がないことから「瞎榜」(見えない榜眼)と呼ばれた。