出自と生涯
- 邢州龍岡の人。後唐明宗が邢台を鎮めた際、牙校に任じられ、即位後は作坊副使に抜擢、西上閤門使に累遷。清泰中(934-936年CE)右領軍衛將軍に改まる。
- 晉天福中、青州の楊光遠が謀反を企てた際、節度副使としてその動静を監視。二年後に讒言を受け護国軍行軍司馬に移った直後、光遠の反乱が発覚した。漢乾祐中、昭義・天雄二軍節度副使を歴任。
- 周祖が鄴を鎮めた際、副留守に表され、その挙兵の謀に加わった。周祖即位後は王峻に忌まれ唐州刺史に出され、のち棣州團練使を経て右衛大將軍、宣徽北院使兼枢密副使となる。
- 顕徳初年、永興軍節度使として出鎮。世宗の代に河中へ移った際、殿中丞上官瓚が河中の民の隠田を摘発しようとしたのを抗論し中止させた。継母の喪に服したのち安国軍節度に拝され、郷里の民に迎えられ厚遇した。父祖の墓を訪ねては涙した逸話が伝わる。
- 群盗に対しては使者を送り絹帛を贈って諭し、盗みをやめさせた。恭帝嗣位で山南東道節度に移り、宋初に検校太師を加えられる。建隆二年(961年CE)、病により召還される途中、唐州の伝舍で卒した。享年六十九。
- 性は端謹倹約で釈氏を篤く信じ、俸禄の多くを僧に施した。従事の劉謙が仏事に耽ることを諫めると素直に謝し、当時「長者」と称された。