出自と生涯
- 憲州樓煩の人。先祖は沙陀部族。若くして従軍し武勇を有し、漢初に散員都虞候から護聖都指揮使へ三たび遷る。
- 乾祐中(948-950年CE)、李守貞の河中反乱を隠帝の命で行營先鋒都指揮使として平定し端州刺史を領した。周初に護聖左廂都指揮使、のち鄭州防禦使、相州留後を経て廣順中(951-953年CE)義成軍節度使を授かる。在鎮中、河が決壊するたびに丁壮を率いて大程・六合の二堤を修めた。
- 世宗の劉崇征討では河東道行營馬軍都指揮使となり、李重進とともに陣の西偏を守った。樊愛能・何徽が東偏で逃走する中、重贊と重進のみ力戦し、世宗自ら親軍を率いて援護し并州軍を大敗させた。愛能らが誅されたのち、重贊は保大軍節度使に任じられた。
- 太原征討に劉詞の副として従い、忻州監軍が刺史趙臯を殺して契丹の楊訥庫とともに降った際、なお盛んな契丹兵を符彥卿とともに撃退した。淮南征討では潁上に屯し彰義軍節度に遷る。
- 宋初、涇州に鎮したが、教練使李玉が重贊と不仲で偽の詔書を捏造して謀害を企てた。都校陳延正がこれを重贊に密告し、事は発覚してすべて虚偽と判明。太祖は六宅使陳思誨を派して李玉と閻承恕を捕らえ処罰し、延正は刺史に抜擢された。以後、機密に関わる詔書は印文・筆跡を厳しく検証するよう詔された。
- 泰寧軍節度、乾徳四年(966年CE)定国軍節度、開寶二年(969年CE)左千牛衛上將軍として奉朝請となり、三年(970年CE)卒、享年六十二。