出自と生涯
- 平州盧龍の人。祖父海は本州兩冶使、父令竒は盧臺軍使であった。
- 若くして勇力で知られ、契丹に仕えて蕃漢都指揮使となったが、後唐天成中(926-930年頃CE)に一族を率いて帰順し、明宗より亳州團練使、のち商州・原州刺史に任じられた。
- 清泰初年(934年頃CE)に階州へ移り、蜀人の侵寇に備えて城を険要の地へ移し民を安んじた。詔により文州を攻め、二十余砦を抜き数百人を生擒した。
- 晉天福中(936-944年CE)、警州へ移り羌渾の騒乱を平定。滑・坊・虢・衛の四州を統括した。開運初年(944年CE)には北面騎軍排陣使として陽城の戦いで大功を挙げた。
- 沂州刺史・荊口砦主・東面行營都虞候を兼ね、莫州刺史趙思を生擒して献じた。懷州刺史に改まり、俄かに北面先鋒都監となった。契丹が中原に陥ると、山東で盛んな盗賊を鎮めるため契丹主の命で再び沂州刺史となり、単騎で赴任し威名で盗賊を退散させた。
- 漢乾祐中(948-950年CE)、淮南の侵攻を防ぐため行營都部署に任じられたが、途中で和議が成立。平盧節度使劉銖に招かれ害されかけたが、従容として難を逃れ言葉で銖を説得した。
- 潁州團練使・防禦使を経て湖南攻略に従軍。周祖の南郊祭祀に権知宗正卿事として召され、世宗の劉崇征討では北面行營都監を務め、絳・蔡・齊三州の防禦使を歴任。齊州で飢饉の際、自らの俸禄で民を賑わせ、頌徳の碑を許された。
- 宋建隆三年(962年CE)告老し、右領軍衛上將軍に加えられ致仕、洛陽に帰った。乾徳二年(964年CE)卒、享年七十二。武人でありながら善政を尊び儒士を重んじる人物であったと評される。