宋史卷二百六十 列傳第十九 崔翰

崔翰(字は仲文、京兆萬年の人、?–淳化三年)は太祖・太宗に仕えた将。太平興国四年の太原征伐で先鋒を務め、幽薊平定の主戦論を唱えて北伐を推進した。班師の混乱を単騎で鎮め、契丹の南侵を徐河・蒲城で撃退するなど武功を重ねた。財を軽んじ施しを好み、晩年は仏教に篤く帰依した。

年表(4件)
  • 太平興国二年西郊の軍容整備を主導し太宗に称賛される
  • 太平興国四年太原征伐で侍衛馬歩諸軍を率い先攻し矢を受けながら督戦する
  • 雍熙三年北伐不利の後、威虜軍行営兵馬都部署に召される
  • 淳化三年六十三歳で病没し侍中を追贈される

崔翰

  • 崔翰は字を仲文といい、京兆萬年の人。若くして大志を抱き太祖に見出されて麾下に入り、周世宗の淮南征伐・寿春攻略・関南攻略に功を挙げ軍使を補された。
  • 宋初、御馬直副指揮使として澤潞征伐に従い、開宝初め河東降民の実地選抜、河北鎮兵の精鋭選別を担った。太宗即位で本州団練使、太平興国二年西郊の武の議で楊信に代わり指揮を執り、五色旗による軍容整備を太宗に称賛され「晋朝の将にこれに勝る者なし」と評された。
  • 太平興国四年太原征伐で侍衛馬歩諸軍を総べ先攻し、頬に矢を受けながら督戦を続けた。劉継元降伏後、幽薊平定の議で「乗ずべきは勢、失うべきでないのは時」と独り主張し北伐を推進した。
  • 班師の際、金台駅で大軍が南向して潰乱しかけた際、単騎で軍律を諭して収拾した功で知定州・便宜従事の権を得た。冬の契丹侵攻を李漢瓊・崔彦進と合流して徐河・蒲城で大破し、契丹兵は西山の坑谷に多数没して数万を俘馘した。
  • 武泰軍節度使を拝し、劉継元降伏後の撫慰を任され、秦王廷美の禁を犯した外出を咎めたことが後の讒言の元となった。感徳軍節度使として盗賊を招撫し境内を安んじ、雍熙三年北伐不利の後、徐河の功により威虜軍行営兵馬都部署に召された。
  • 淳化三年、病を得て「身を国に許した以上、家で死ぬのを望まず馬革に屍を包まれたい」と語り、太宗に壮とされ復任、月余で六十三歳で卒し侍中を追贈された。驍勇で謀に富み、財を軽んじ施しを好み、死の日に家に余財がなかった。晩年は仏教に篤く帰依した。

史論

  • 論じて言う。曹翰以下、将帥として節鎮に任じた者は十人。いずれも拳勇によって行伍から身を起こし、学問には疎かったが精白一心で事功を立て、始終ともに美を全うし韓信・彭越のような禍いを免れたのは、制御・保全の道があったからである。
  • 楊信は篤実、田重進は忠朴、劉遇は淳謹、劉廷翰は武勇と称され、いずれも始終委任され替えられることがなかった。李漢瓊は木強で酒を好み、米信は暴横な振る舞いが多く、党進は恂恂としていながら奸詐を懐くようであり、李懐忠の遷官への態度は大体を知らないようであったが、太原征伐・江南平定・徐河の戦を見れば、いずれもその驍果さを損なうものではなかった。
  • 好謀善戦・軽財好施で至る所に功を立てたことでは曹翰・崔翰に優る者はいない。しかし古の良将と同日に語れないのは、崔翰の平燕の論奏が軽率のきらいがあり、曹翰の降卒殺害・江州屠城が残忍に過ぎたためである。君子は「功はこの二人に優る者なく、過ちもまたこの二人より先んずる者はない」と評した。まことにその通りである。