劉廷讓
- 劉廷讓は字を光乂といい、その先祖は涿州范陽の人。曾祖仁恭は唐の盧龍軍節度使、祖の守文は滄州を継いだが弟守光に父仁恭が囚われた際に討伐に赴き敗死した。劉廷讓は父延進と共に南へ逃れ、周太祖の鄴鎮時代に帳下に入った。
- 広順初め内殿直押班、世宗の淮南征伐で雷州刺史を領し、宋初は江州防禦使・龍捷右廂を領した。李筠討伐で先鋒使、建隆二年侍衛馬軍都指揮使・江寧軍節度使。
- 乾徳二年蜀征伐で四川行営前軍兵馬副都部署として松木・三会・巫山等の砦を破り、蜀将南光海ら五千余人を捕獲、水軍三千を得て峡中郡県を平定した。夔州の鎖江の防備を太祖の指図通り陸行奇襲で突破し萬・施・開・忠四州を攻略、遂州の陳愈の降伏を受けた。
- 蜀平定後、王全斌らが掠奪の罪に問われる中、劉廷讓のみ秋毫も犯さず、全師雄の乱でも曹彬と共に討伐した。太原征伐に従い鎮寧軍節度使、太平興国二年右驍衛上将軍。
- 雍熙三年、曹彬の岐溝関敗戦後の人事で知雄州、瀛州兵馬都部署に任じられ、契丹数万騎との君子館の戦いで、寒さで弓弩が使えない中包囲された。李継隆に後殿を託していたが、継隆は楽寿に退いて援軍とならず、劉廷讓の軍は全滅、自身は数騎で辛くも脱した。先鋒の賀令図・楊重進は契丹に陥落し、以後河朔の戍兵は闘志を失い、契丹は深く侵入して民を殺し財物を掠奪した。
- 太宗は李継隆の過誤と知り劉廷讓を責めなかったが、端拱三年、病を理由に無断で屯所を離れたことで御史の弾劾を受け、削官配流の処分(寛典として)を受けた劉廷讓は不満のまま食を絶ち五十九歳で卒し、太師を追贈された。子の永徳は内殿崇班等。