宋史卷二百五十八 列傳第十七 潘美

出自と経歴

  • 潘美は字を仲詢といい、大名の人。父の璘は軍校として常山を守った。若くして倜儻、府中で典謁を務め、里人王密に「漢の命運が尽きようとする今、大丈夫たる者は功名を立てて富貴を求めるべき」と語った逸話が伝わる。
  • 周世宗の開封府尹時代から仕え、即位後供奉官を補し、高平の戦功で西上閤門副使、監陝州軍、引進使を歴任。太祖との旧誼が厚く、受禅後は太祖の使者として陝帥袁彦を単騎で説得し入朝させた。
  • 李重進討伐で行営都監、揚州平定後は巡検、秦州団練使、潭州防禦使を歴任。嶺南の劉鋹討伐に先立ち桂陽・江華の賊を討ち、唐代以来の渓峒蛮の患を平定した。
  • 開宝三年、嶺南征伐の行営諸軍都部署として富川を落とし、賀州・昭桂連三州・西江諸州を次々に降し、韶州で十万の劉鋹軍を破った。降伏交渉では「戦えるなら戦い、戦えなければ守り、守れなければ降り、降れなければ死ぬ、死ねなければ亡ぶ」の五択のみを認める方針を示し、劉鋹の弟保興の抵抗軍を火攻めで大破、広州を陥として劉鋹を捕らえ京師に送った。
  • 山南東道節度使、嶺南道転運使を兼ね、周思瓊の乱を平定して嶺表を安定させた。開宝八年、江南征伐で劉遇らと共に江陵に赴き、昇州道行営都監として曹彬と協力、秦淮渡河では「一衣帯水を渡らずして何の勝利か」と全軍を鼓舞して渡らせ呉軍を大破、采石磯の浮橋を守り、呉軍の反撃を退けて戦艦を奪った。
  • 太祖の指示で戦棹を移動させ夜襲を未然に防ぎ、金陵包囲戦で李煜の緩師の求めを拒み、決死の夜襲を撃退して曹彬と共に城を攻略した。功により宣徽北院使を拝し、太原征伐では党進を副将として汾水で戦功。
  • 太平興国三年開府儀同三司、四年北路都招討として太原攻略の主将を務め、幽州征伐でも知幽州行府事、三交都部署として北辺を鎮めた。固軍の地を占拠して積粟屯兵し、代州での遼軍来寇を銜枚の奇襲で大破し、代国公に封じられた。
  • 太平興国八年忠武軍節度使、韓国公に進封。雍熙三年北伐で寰・朔・雲・応等州を独力で攻略したが、陳家谷口の戦いで援軍の遅れにより驍将楊業が戦死する結果を招き(曹彬伝に詳しい)、三等の降格処分を受けた。
  • 翌年復権し知真定府、判并州、同平章事を加えられたが数月で六十七歳で卒し、中書令・武恵の諡を贈られた。咸平二年太宗廟庭に配饗された。子の惟徳は宮苑使、惟固は西上閤門使、惟正は西京作坊使、惟清は崇儀使、惟熙は秦王の娘を娶り平州刺史(娘は後の章懐皇后)。潘美は後に鄭王を追封された。従子の惟吉も戚里との関係を保ちつつ礼法を守り勤敏で称された。

李超(附)

  • 李超は冀州信都の人で禁卒として潘美の軍中で刑刀を掌った。潘美が怒って人を殺そうとするたびに執行を潜かに緩め、多くの命を救った隠徳の人として知られた。
  • 子の濬は字を徳淵といい、進士に及第して秘書省・知康州、刑部詳覆・御史台推直官を歴任、開封府推官・虞部員外郎兼侍御史知雑事を経て樞密直学士に抜擢された。宰相王旦の反対にも真宗は既に許した旨を告げて任用を貫いた。知開封として隠微を検察し称され、右司郎中から知秦州で急病により卒した。李宗諤と同年同月同日生まれ同日近くに卒したことが話題となった。

史論

  • 論じて言う。曹彬は器識により太祖に見いだされ重用された。百虫の蟄を傷めることすら忍びないと言い、呉越の私餽を全て人に施して一銭も留めなかった人柄からすれば、専征の際に秋毫も犯さず妄りに一人も殺さなかったこともうなずける。
  • 潘美は太祖の即位当初から厚く信任され征伐の任を託された。劉鋹の降伏を諭す言葉の厳正さは、奉辞伐罪の体を得ており、その威名の重さは嶺表平定・江南平定・太原征伐・北門鎮撫を待たずとも明らかであった。
  • 二人はともに武恵と諡され、共に配饗され、子孫もよく家を興し、その娘(光献皇后・章懐皇后)はいずれも賢后と称された。これは偶然ではない。君子は「仁恕清慎にして功名を保ち法度を守った点で、曹彬こそ宋の良将第一である」と評した。
  • 李濬もまた材幹によって主上の知遇を得て顕職を歴任した。これを隠徳の致すところとするのも理のあることであろう。