出自と生い立ち
- 曹彬は字を国華といい、真定霊寿の人。父の芸は成徳軍節度都知兵馬使。生後一年、百種の玩具を並べて何を取るか見たところ、左手に干戈、右手に俎豆を持ち、しばらくして印を取ったため人々は異とした。
- 成長して気質淳厚、後漢の乾祐中に成徳軍の牙将となり、節帥武行徳はその端正な人柄を見て「遠大の器、常流にあらず」と評した。
- 後周太祖の貴妃張氏は曹彬の従母(叔母)にあたり、周太祖の受禅で京師に召され世宗の帳下に隷した。澶淵の鎮に従い供奉官に抜擢、河中都監に擢用された。蒲州の帥王仁鎬は曹彬を帝の外戚として厚遇したが、曹彬はますます礼を慎み、仁鎬は「自分は日夜怠らないと思っていたが、監軍(曹彬)を見て自分の緩みを悟った」と語った。
後周から宋初にかけての経歴
- 顕徳三年潼関監軍に改まり西上閤門使に遷り、顕徳五年呉越への使者として趣旨を伝えた後は私的な贈答を一切受けなかった。呉越人が軽舟で追って贈ろうとしても固辞し続けたが、「終始拒めば名を求めることになる」として受け取り、帰国後全て官に上納した。世宗が改めて返却すると、初めて拝受してすべて親族・旧知に分け与え自らは一銭も留めなかった。
- 晋州兵馬都監の頃、身分を隠して質素に過ごしていたところ使者が本人と気付かなかった逸話が伝わる。太祖が禁旅を統べていた頃から曹彬は中立を保ち私的な交わりを避けたため、器量を重んじられた。
- 建隆二年、太祖は「昔から親しくしたかったのに、なぜ自分を疎んじるのか」と語りかけ、曹彬は「周室の近親であり内職も忝くしている以上、みだりに交結すべきでない」と答えた。
- 客省使として王全斌・郭進と共に河東の平陽県を攻め、平晋軍を建てた。乾徳初め左神武将軍、遼州攻略後、契丹六万騎の来援を李継勲らと共に平晋城下で大破した。
蜀・江南平定
- 乾徳二年冬、蜀征伐で劉光毅の副将として都監となり、峡中の郡県が降伏すると、他将が屠城を望む中、曹彬独り軍令を厳しくして民心を得た。
- 蜀平定後、全斌らが昼夜宴飲して軍規が乱れ蜀人を苦しめたため曹彬は再三班師を進言したが聞き入れられず、全師雄の乱が起きた。曹彬は光毅と共にこれを新繁で破り蜀を平定した。他将が子女玉帛を掠める中、曹彬の行李には書物と衣衾のみで、太祖は全斌らを処罰する一方、曹彬を清介亷謹と評して宣徽南院使・義成軍節度使を授けた。曹彬は「征西の将士は皆罪を得たのに自分だけ賞を受けるのは示すところがない」と辞退したが、太祖は「功を誇らないことこそ賞すべき」として受けさせた。
- 開宝六年李継勲・党進の太原征伐に前軍都監として従い洞渦河で二千余級を斬った。開宝二年の親征でも前軍都監として団柏谷で降将陳廷山を降し、濠橋での戦いで馬千余を奪った。開宝七年、江南征伐の詔で李漢瓊・田欽祚と共に荊南に赴き、昇州西南路行営馬歩軍戦棹都部署として潘美の歩兵と合流し、峡口砦・池州・当塗・蕪湖を次々破り、采石磯に浮橋を架けて大軍を渡した。
- 白鷺洲・新林港での勝利、秦淮での大勝、金陵包囲の長期戦(三年に及ぶ)を経て、李煜が徐鉉を遣わし緩師を乞うたが太祖はこれを容れなかった。太祖は「呉人は必ず夜襲する」と予見し、潘美に深溝を固めさせ、果たして夜襲を退けた。
- 曹彬は李煜の降伏を促すため、城が陥落寸前になると仮病を使い、諸将に「城を落とす日には一人も妄りに殺さないと誓え」と求めて士気の暴発を抑え、翌日城が陥落すると李煜と臣下百余人を慰撫して迎え、李煜の入宮荷造りにも配慮した。左右が「入宮させて不測の事あらば」と懸念したが、曹彬は「李煜は元来優柔不断で自決できまい」と笑って答え、実際その通りとなった。
- 出師から凱旋まで軍は畏服し、入見の際も謙虚な態度を崩さなかった。太祖は使相の位を約束していたが、劉継元(北漢)未平定を理由に留保したところ、潘美がそれを漏らしたことを察して笑い、太祖は事情を聞いて曹彬に二十万銭を賜った。曹彬は「人生に使相は必ずしも必要ない、良い官職は多くの銭を得られないだけのこと」と語った。
太宗朝
- まもなく樞密使・検校太尉・忠武軍節度使を拝し、太宗即位で同平章事を加えられた。太原親征を議した際、太宗の問いに曹彬は「周世宗・太祖が親征しても克てなかったのは、史彦超の敗戦や暑さによる疾病が原因で太原の兵が強いわけではない。今なら容易」と答え、太宗の決断を後押しした。
- 太平興国三年検校太師、太原征伐で兼侍中を加えられたが、太平興国八年弭徳超に讒言され太平軍節度使に降格。旬余で誣告と判明し魯国公に進封された。
- 雍熙三年、幽州行営前軍馬歩水陸の師を率いて北伐、固安・涿州で契丹を破ったが、田重進・潘美らの部隊が先に成果を挙げる中、曹彬軍は糧食が尽きて退却し、その後太宗の指示を待たず再進撃して大敗(岐溝関の敗戦)。詔で尚書省に鞫問され違詔失律の罪を認め、右驍衛上将軍に降格された(崔彦進・米信らも同様に処分)。
- 端拱初め侍中・武寧軍節度使に復し、淳化五年平盧軍節度使、真宗即位後は同平章事・樞密使を再拝。咸平二年病を得て真宗自ら見舞い、後事を問われて「自分には言うべきことはないが、二子(璨・瑋)は共に材器がある。瑋は璨に勝る」と答え、六月六十九歳で卒した。真宗は慟哭し中書令・済陽郡王を追贈し武恵と諡した。妻高氏は韓国夫人に封じられ、八月趙普と共に太祖廟庭に配饗された。
- 性は仁敬和厚、朝廷で上意に逆らわず人の過失を口にせず、二国(蜀・南唐)を平定しながら秋毫も私しなかった。位は将相を兼ねても等威をひけらかさず、士大夫に道を譲り、属吏に会う際は必ず冠を正した。蜀平定後の太祖の問いに軍政以外は答えず、ただ転運使沈倫の廉謹を推薦した。徐州で杖罰を一年延期した理由(新婚の吏が舅姑に責められることを慮った)や、趙昌言の軍法適用に反対せず後に取りなした逸話も伝わる。
- 子は璨・珝・瑋・玹・玘・珣・琮。珝は秦王の娘興平郡主を娶り昭宣使に至り、玹は左蔵庫副使、玘は尚書虞部員外郎(娘は後の慈聖光献皇后)、珣は東上閤門使、琮は西上閤門副使。父芸は魏王、曹彬自身は韓王を追贈された。
璨
- 璨は字を韜光といい、性は沈毅で射を善くし、父の任で供奉官を補し、父の遠征に従い謀議に与った。父は璨を「自分に似ている」と特に鍾愛した。宮苑副使から高陽関ほか五州都監、雍熙中知定州、淳化二年富州刺史、鎮州行営鈐轄を経て契丹侵攻で戦功を挙げたが伏兵を恐れて深追いしなかった。
- 至道初め四方館使・知霊州、引進使、鄜延路副都部署、麟府濁輪副部署などを歴任し李継遷を撃退。樞密都承旨、鎮定高陽関三路行営都鈐轄、天禧三年河陽節度使・同平章事を最後に七十歳で卒し、中書令・武懿の諡を贈られた。
- 貴胄の出でありながら孝謹で家を興し、韜略に通じ春秋左氏伝を好み士卒を慰撫したが、父ほどの清廉さはなかったという。子の儀は耀州観察使に至った。
瑋
- 瑋は字を宝臣といい、父彬の下で牙内都虞候を補し、沈勇・謀略に優れ春秋三伝、特に左氏伝に通じた。李継遷討伐で諸将が功を挙げられない中、太祖の問いに父彬が「末子の瑋なら任せられる」と推薦し、十九歳で同知渭州となった。軍を厳明に統率し、間諜を巧みに用いて敵情を把握した。
- 鎮戎軍知事として李継遷の民心離反を突き、諸羌を懐柔し康奴等族の帰順を得た。石門川で継遷を邀撃し多くを俘獲。鎮戎軍が平地で騎戦に不利であるとし、隴山以東の長城塹壕化を提案。弓箭手には閑田を給し租を免じて自弁の防備力を養った。
- 李継遷の死後、子の徳明が朝廷に帰順を求めた際、瑋は「継遷は河南を二十年占拠し国を脅かしてきた。今こそ精兵を与えて捕らえるべき」と献策したが、朝廷は徳明への恩恵を優先し容れなかった。以後も西夏諸族の帰順工作を続け、大都山の受降を成功させた。
- 環慶路兵馬都鈐轄、真定路都鈐轄を経て涇原・環慶の地図を作成して献上し、朝廷の辺防戦略の基礎とした。武延川で章埋族を破り、隴山諸族の献地を受けて籠竿城を築いた。
- 唃厮囉配下の立遵の求号を拒み、厮敦を離間工作で味方に引き入れて賞様丹を討たせ、南市の地を得た。羌人の叛去を招いた張佶の失政を正し、贖罪による帰順策で数千人を呼び戻した。二都谷での唃厮囉の大軍を撃退し馬牛雑畜を得るなど、河西・隴右で数十年にわたり戦功を重ねた。
- 天禧三年徳明の柔遠砦侵攻に対応し、丁謂・寇凖の政争で寇凖派とみなされ南院使から左遷されたが、寇凖失脚後に復権し華州観察使・知青州・知天雄軍などを歴任、彰武軍節度使を最後に卒し、侍中・武穆の諡を贈られた。
- 士に慕われ、平時は閑暇だが出師の際は神速な奇計を用い、唃厮囉や契丹も瑋の名を聞いて畏怖したという。真宗は瑋の辺事の判断を深く信頼し、他将の議も密かに瑋に諮ることが多かった。賊の首を捕らえた逸話や、環慶の属羌の田を巡る公正な措置、弓箭手制度の整備、蕃落将校の登用制度など、辺境統治に多くの実績を残した。父ほどの寛容さはなく一家を成した独自の将風であった。嘉祐八年、仁宗廟庭に配饗された。
琮
- 琮は字を宝章といい、兄珝が秦王の娘を娶った縁で幼くして宮中に出入りし、太宗に「曹氏には功がある、この子も佳い」と評された。父の卒後、西頭供奉官・閤門祗候として騏驥院を管掌し、馬市の運営で利益を上げた。
- 曹利用との姻戚関係から一時降格されたが、東上閤門使・榮州刺史を経て、仁宗の后(琮の兄の娘)冊立の礼を主管した際、「外戚として恩沢に乗じるべきでない、族人の請託は理に照らして処すべき」と上奏し称賛された。
- 環慶路馬歩軍総管、秦州防禦使、秦鳳路副都総管として倉廩を充実させ、生羌の侵入には恩信で懐柔した。元昊の反乱に際し攻守三策を上奏、劉平・石元孫の敗戦後は民を義軍として編成し兵勢を張った。吐蕃との連携策も献じ、沙州の帰順の使者を得た。
- 陝西副都総管、経略安撫招討副使、歩軍副都指揮使を歴任し馬軍副都指揮使在任中に病没、安化軍節度使・侍中・忠恪の諡を贈られた。小心謹畏な性格で軍を整然と統率した。子の佺は皇城使・嘉州防禦使。