出自と生い立ち
- 呉延祚は字を慶之といい、并州太原の人。若くして読書を好み、後周太祖に仕えて親校となった。広順初め荘宅副使を授かり、内軍器庫使・知懐州を経て皇城使となった。
呉延祚――後周から宋初にかけての経歴
- 天平の符彦卿が大名に移鎮すると呉延祚が権知鄆州となった。世宗の即位後、右羽林将軍・内客省使、まもなく宣徽北院使を拝した。
- 世宗の劉崇征伐に北面都巡検使として従い、師還って権判澶州、右監門衛大将軍に転じ、宣徽南院使・判河南府・知西京留守事となった。
- 汴河が決壊した際、丁壮数万を率いて塞ぎ、京城から臨淮まで堤防を増築した。世宗の北征中には鄭州原武県で河が決壊し、丁壮二万余を発して塞いだ。師還って左驍衛上将軍・検校太傅・樞密使となる。恭帝即位後、検校太尉に加えられ、宋初は同中書門下三品に加えられたが、父の名(璋)を避けて改称した。
- 李筠の叛乱に際し「潞城は険阻で太行に拠るため速攻すべき」と進言し、太祖の親征を助けた。太祖の東京留守・判開封府として李筠、李重進の討伐を支えた。
- 建隆二年夏、樞務を長年掌ったねぎらいとして秦州節度使に任じられた。秦州夕陽鎮の材木採取を巡る争いを鎮め、伏羌の地を献上させた。乾徳二年に入朝し京兆に転じ、開宝四年の長春節に朝したがまもなく病を得て、太祖の見舞いを受けたが五十四歳で卒し、侍中を追贈された。
- 謹厚寡言で至孝、母の喪に水漿を絶つほどであった。学を好み書を万余巻蔵し、仏教を篤く信仰した。
呉延祚の子――元輔・元載・元扆ら
- 子の元輔・元載・元範・元扆・元吉・元慶はみな礼賓副使に至った(元吉は閤門祗候、元慶の子守仁は内殿崇班)。
- 元輔は字を正臣といい、学を好み筆札に長じた。周の広順中に父の任で供奉官を補し、世宗嗣位で洛苑使、宋初に左驍衛将軍・澶州巡検を歴任し、定州鈐轄に至って四十八歳で卒した。子の昭徳・昭遜・昭普はみな閤門祗候。
- 元載は建隆初め太子右春坊通事舎人・緋魚袋を賜り、父の秦雍出鎮に従って衙門都校を補された。父の卒後供奉官となり、太平興国三年閤門祗候、九年西上閤門副使として知陝州、雍熙三年知秦州に転じた。秦州の富豪李益が奴僕数千を擁して郡吏を脅かし、推官馮伉のみが従わず辱められた事件を摘発。李益は権貴に賄賂して庇護されていたが、市馬の通訳を通じて上聞し、太祖は激怒して逮捕を命じ、李益は逃亡の末に河中府で捕らえられ処刑された。その子仕衡は終身除籍とされ、民は僧に飯を施して慶事とした。
- 端拱初め西上閤門使、淳化二年富州刺史を加領し成都府に徙知したが、蜀の奢侈な風俗を禁じ吏民の細罪も容赦しなかったため怨みを買い、王小波の乱を鎮められず、成都陥落の後に召還された。李仕衡(李益の子)の告発で郢州団練副使に貶され、単州に移り左衛将軍として五十三歳で卒した。子の昭明は内殿崇班、昭矩は太子中舎。
- 元扆は字を君華といい、太平興国八年太宗の第四女蔡国公主の駙馬都尉となり、愛州刺史・団練使を歴任。雍熙三年知鄆州、のち知河陽、鄯州観察使に転じ、朝会の序班次を特に優遇された。淳化五年、河が氾濫し城壁が壊れかけた際、泥土を渉って督工し、木を組んで避難させ舟楫と食糧で民を救い、澶陜の水害の中で領内は無事だった。
- 真宗即位後安州観察使に転じ知澶州、咸平三年、その治績が転運使劉錫に称賛された。寧国軍留後として知定州の頃、王超・王継忠が唐河を越えて遼と戦うことを予測して河橋を守り、敗走した王師を救った。考課で吏民が留任を願い出て徳政碑の建立を許された。旱の年に巫の祈雨を斥け道士による三日の潔斎祈祷で雨を得た逸話が伝わる。
- 景徳三年武勝軍節度使、諸陵の積水対策の都部署を兼ね、内侍副都知閻承翰を副とした。潞州に出鎮し澤潞晋絳磁隰威勝七州軍の戎事を総督した。東封に扈従を求め青帝を祀り、検校太傅・知徐州となったが、大中祥符四年、汾陰祀に伴う山南東道への改任の際に病を得て五十歳で卒し、中書令・忠恵の諡を追贈された。
- 元扆は性謹厚で藩鎮では民心を重んじ、賓佐を礼遇し、春秋左氏伝を好んで読み、声色狗馬に無頓着で得た禄賜は親族の孤貧者に分け与えた。乳媪の請託を拒んだ逸話があり、真宗はその賢を称えて没後も深く悼んだ。子の守礼・守厳・守良・守譲はそれぞれ六宅使・内殿崇班等を授けられた。