宋史卷二百五十六 列傳第十五 趙普(則平)

趙普(字は則平、幽州薊の人、?–992年)。後周の劉詞に見出され、太祖趙匡胤の腹心として陳橋の変を助け、宋建国後は乾徳二年に宰相となった。太祖の信任篤く、専断や不正を疑われて一時失脚したが、太宗朝で復権し太師・魏国公にまで至った。北伐の継続を諫めるなど公正な進言でも知られる宋初随一の宰相。

年表(17件)
  • 顕徳初め永興軍節度使劉詞に招かれ従事となった
  • 建隆三年樞密使・検校太保を拝命した
  • 乾徳二年門下侍郎・平章事・集賢殿大学士となった
  • 開宝二年病を得て太祖・皇太子の見舞いを受けた
  • 開宝六年呉越王銭俶からの贈物を太祖に見咎められたが受け取りを許された
  • 太平興国初め太子少保・太子太保に遷り盧多遜に排斥され鬱々と過ごした
  • 太平興国八年武勝軍節度使・検校太尉兼侍中として出鎮した
  • 雍熙三年幽薊への出兵の長期化を諫める手疏を奉った
  • 雍熙四年山南東道節度使に転じ、許国公に改封された
  • 淳化三年致仕を願い出て太師・魏国公を拝命し、七月に七十一歳で卒した
  • 建隆初め安易が府州録事参軍を摂し正官となった
  • 太平興国中安易が華・邢二鎮の掌書記を歴任した
  • 太平興国九年安易が宗正少卿に起用され知定州となった
  • 淳化中安易が蜀地の大銭鋳造を建議した
  • 咸平初め安易が梁周翰と共に属籍の纂録を命じられた
  • 咸平二年安易が七十六歳で卒した
  • 景徳初め安易が明徳皇太后の霊駕発引の礼制を巡り異論を唱えた

趙普――出自と生い立ち

  • 趙普は字を則平といい、幽州薊の人。後唐の幽州節度使趙徳鈞の連年の用兵で民力が疲弊したため、父の廻は一族を挙げて常山、さらに河南洛陽へ移った。
  • 趙普は沈着で寡黙、鎮陽の豪族魏氏がその娘を妻とした。後周の顕徳初め、永興軍節度使劉詞に招かれて従事となり、劉詞は死に臨んで趙普を朝廷に推挙した。
  • 世宗の淮南出兵に従い、太祖が滁州を陥とすと、宰相范質の奏で軍事判官となった。太祖の父宣祖が滁州で病臥した際、朝夕薬を捧げて仕え、以後一族同然の扱いを受けた。太祖は語らってその器量を認めた。
  • あるとき盗賊百余人を捕えて処刑しようとしたが、趙普は冤罪の者がいると疑い、太祖に訊問を進言して多数を救った。
  • 淮南平定後、渭州軍事判官に転じ、太祖が同州節度使となるとその推官に招かれ、宋州に移ると掌書記に任じられた。

陳橋の変とその後

  • 太祖の北征の際、陳橋で軍が推戴の議を起こすと、趙普は太宗(当時の晋王)とともに帳中に入って告げた。佐命の功により右諫議大夫・樞密直学士となる。
  • 李筠討伐の親征に趙普は太祖に従軍を願ったが、太祖は笑って京師に留まらせた。北征後、兵部侍郎・樞密副使に昇り、邸宅を賜った。建隆三年、樞密使・検校太保を拝命。

乾徳年間――宰相として

  • 乾徳二年、范質ら三相が同日に罷免され、趙普は門下侍郎・平章事・集賢殿大学士となった。中書に宰相の署名する敕がなかったため制度を確認させ、竇儀の考証により「皇弟(太宗)が開封尹・同平章事で既に宰相の任にある」として趙普にも署することとなった。
  • 太祖は趙普を左右の手のように頼り、事の大小を問わずすべて諮った。監修国史も兼ね、薛居正・呂餘慶を参知政事として補佐させたが、両者は不宣制・不知印・不預奏事・不押班という制約下に置かれた。
  • 太祖はしばしば微行で功臣の邸を訪れ、大雪の夜にも趙普邸を訪れて太宗も同席し、酒肴を囲みながら太原攻略を議した。趙普は「太原を落とせば我らが単独で北方に対峙することになる。諸国を平定した後に図るべき」と進言し、太祖はこれに賛意を示した。
  • 開宝二年、趙普が病むと太祖・皇太子が見舞い、翌年また邸を訪れた。開宝六年には呉越王銭俶からの贈物の中に金の瓜子が入っていたことを太祖に見咎められたが、太祖は「国事はお前ひとりの手によるものではない」と受け取らせた。

権勢と失脚

  • 趙普は政務を専断し、廷臣の反発を招いた。秦隴の大木を私的に運ばせて邸宅を建てたことを三司使趙玭に摘発され、太祖は激怒したが王溥の取りなしで事なきを得た。
  • 息子承宗を樞密使李崇矩の娘と結婚させたことを太祖に咎められ分離を命じられた。また隙地を私的に交換して邸を広げ、邸店を営んで利を得たことを翰林学士盧多遜にたびたび攻撃された。
  • 雷有鄰の登聞鼓による告発で堂後官胡贊・李可度の受賄、劉偉の偽官、王洞・趙孚の不正が発覚し、いずれも趙普が庇護していたことが露見。太祖はこれを不問に付したが、参知政事に知印・押班・奏事を分掌させ、趙普の権を削った。
  • ほどなく河陽三城節度使・検校太傅・同平章事に転出。太平興国初め、太子少保・太子太保に遷るが盧多遜に排斥され、数年鬱々と過ごした。

太宗朝での復権

  • 秦王廷美の陰謀が柴禹錫・趙鎔らに告発された際、太宗の召問に趙普は樞軸に備えて姦変を察したいと申し出、太祖・昭憲皇太后の顧命の事跡を上書して弁明した。太宗は感悟し、司徒兼侍中・梁国公に拝された。
  • 秦王廷美の班位が宰相の上にあったが、趙普の勲旧を理由に班次を復し、廷美は自ら下位を願い出た。涪陵事件(廷美失脚)で盧多遜が南遷されたのも趙普の力による。
  • 太平興国八年、武勝軍節度使・検校太尉兼侍中として出鎮。太宗の詩を賜り、趙普は涙して感激した。太宗も宋琪に対し涙を流したという。

雍熙の諫言

  • 雍熙三年、幽薊への大軍出兵が長引くと、趙普は手疏を奉り「炎暑に軍を長く駐めることの無益」「邪諂の輩が聡明を蔽い無名の師を興させることの危険」「兵は凶器であり久しく戦えば変が生じる」ことなどを説き、速やかな班師を進言した。
  • 太宗は手詔で「曹彬・米信らに雄覇に留めるよう命じたが、将帥らが独断で深く進んで敗れた責は主将にある」と応じ、趙普の忠言に感謝した。趙普は再び表を上げて謝意を述べた。
  • 雍熙四年、山南東道節度使に転じ、許国公に改封。真宗(当時陳王元僖)は趙普を「開国元臣、公正無私の良臣」と称え再登用を上奏した。
  • 耤田の礼が終わると太宗は呂蒙正を宰相にしようとしたが、その新進であることを憚り、趙普を太保兼侍中に冊拝した。

晩年

  • 樞密副使趙昌言が胡旦・陳象輿・董儼・梁顥と親しく、胡旦が翟馬周に上封事させて時政を非難させたことを趙普は深く嫉み、馬周を流罪、趙昌言らを黜けさせた。
  • 鄭州団練使侯莫陳利用の不法を摘発し流罪とし、さらに誅殺を求めるなど、嫉悪は激しかった。
  • 李継遷の辺境侵擾に対し、趙普の建議で趙保忠に夏台の故地を復させたが、保忠は反して継遷と結び辺患となり、時論はこれを趙普の咎めとした。
  • 旧制で宰相は未の刻に退出していたが、暑さのため午の刻退出を特許され、翌年からは朝謁を免じられて中書での視事のみとなった。大政あれば召対を受けた。
  • 病を得て再三致仕を求め、西京留守・河南尹・守太保兼中書令となる。三度固辞したが太宗は手詔で「開国の勲旧はお前一人だけは別格」と慰留した。
  • 淳化三年、老病により留守通判劉昌言に致仕を求める表を託し、太師・魏国公を拝命し宰相の俸給を給された。使者を遣わして詔書を賜り、弟の宗正少卿安易に詔書を届けさせた。
  • 七月、七十一歳で卒した。上清太平宮に祈祷させた話や、力を振り絞って神言を受けたこと、その夜卒したことなどが伝わる。太宗はこれを聞いて悲嘆し、五日間廃朝、尚書令を追贈し真定王に追封、諡は忠献。神道碑銘を親筆し、右諫議大夫范杲を鴻臚卿に代行させて喪事を護らせた。
  • 二女は共に出家を望んだが太宗が再三諭しても翻意させられず、長女は智果大師、次女は智円大師の号を賜った。
  • 趙普は微賎の頃を忘れず、太祖に語った逸話(「塵埃中に天子を見分けられたのは稀有」との太祖の言葉)が伝わる。
  • 趙普は若くして吏事に習い学識に乏しかったが、太祖に読書を勧められ晩年は手から書を離さなかった。死後、蔵の中から『論語』二十篇が見つかったという逸話がある。
  • 剛毅果断な性格で、人事を三度奏請して聞き入れられなかった逸話、刑賞の当否を巡り太祖と対立しつつも最終的に聴許を得た逸話が伝わる。
  • 太宗朝、曹彬の不軌の讒を弁じ、祖吉の贖罪を巡り「国家の郊祀を理由に赦令を曲げるべきでない」と諫めるなど、公正な進言を続けた。
  • 真宗の咸平初め、韓王に追封され、詔書は趙普を「識冠人彝、才髙王佐」と称え、太祖廟庭に配饗された。
  • 子の承宗は羽林大将軍・知潭鄆二州、承煦は成州団練使。弟の固安易は都官郎中に至った。

安易――出自と経歴

  • 安易は字を季和といい、建隆初め府州録事参軍を摂した際、節度使折徳扆にその清廉さを称され正官となった。河南府推官に再遷したが、兄趙普が宰相の地位にあった十年間は調に赴かなかった。
  • 太平興国中、華・邢二鎮の掌書記を歴任し、太原城攻めに芻糧を運んで監察御史・知興元府を拝し、殿中に転じて緋魚袋を賜った。
  • 両川の民が鉄銭で銅銭に換えていた不便を上言し、鉄銭納入を許す詔を得た。太平興国九年、宗正少卿に起用され知定州となったが、曹璨が知州になると通判に転じ、まもなく代わって帰京、外任を求め知耀州を命じられたが留められ、北辺の視察を行った。
  • 淳化中、蜀地で鉄銭が銅銭に対し数倍の価値となり小民の取引に不便であるとして、劉備の故事にならい大銭鋳造(十銭を百に当てる)を建議した。都省での集議で吏部尚書宋琪らは「劉備の時は銭が少なく改鋳したが、今は逆に銭が多く経久の策でない」と反対したが、安易は請い続けた。試作の大銭百余枚を進呈したところ極めて精巧だったが殿階から落ちて砕けた(鋳造の精を尽くしすぎたためという)。太宗は咎めず用心を嘉して金紫を賜り鋳造を任せたが、後に大きく損耗し年に三千余緡しか得られず衆議喧しく中止となった(詳細は食貨志に見える)。
  • 襄・廬二州の知事を経て宗正卿に遷り、帰朝して再び卿職を務めた。属籍が未整備だったため咸平初め梁周翰と共に纂録を命じられた。安易は書伝に薄く通じ、性は強狠で世務を談ずるを好んだが疎闊で用いにくかった。
  • 太宗がかつて農政を問うた際、安易は井田の制の復活を請うた。その家系は燕薊出身のため、辺事についても諮問された。
  • 景徳初め、明徳皇太后の霊駕発引に際する礼制の議論で、安易は「神主を立てる前に懸重を埋めるのは礼に反する」と上言し、壬地への権攢や升祔の手順を巡って強く異論を唱えた。判礼院孫何らはこれに反論し、晋書の羊太后の故事や礼の規定を引いて、廟に祔さねば神霊至らず、権攢が終われば梓宮は郊にあり葬礼に准じてよいとし、安易の主張を「妄言」「誣罔」と批判した。また孝章皇后の先例(至道年間)とも状況が異なることを指摘した。最終的に元の議のとおり施行するとの詔が下った。
  • 安易はその後も陵廟の事についてしばしば言上したが、言葉に鄙俚なものが多く、晩年も出世を求め続けたため時論に嗤われた。
  • 咸平二年、七十六歳で卒し、工部尚書を追贈された。子の承慶は国子博士、孫の従政は太常寺奉礼郎に録された。

史論

  • 論じて言う。古来創業の君にはその潜龍時代からの旧臣が策を定め佐命し、事を樹て功を建てる者が代ごとにいた。しかし始終一心同体、国を貴んで自らのことのようにし、宰相でありながら家相のように親しかった例は稀であり、宋太祖と趙普の関係はまさにそれである。
  • 陳橋の変では趙普と太宗が事前に謀を知っていたとも言われるが、事後、趙普は一介の樞密直学士として新朝に立ち、范質・王溥・魏仁浦の三相が罷免されて数年後にようやくその位を継いだ。太祖は功に急がず、趙普も政に急がず、宰相となってからは可を献じ否を替え、義に従うのみで勲旧を誇ることがなかった。武を偃せて文を修め、罰を慎み斂を薄くする三百年の宏規は、あたかも平素から定まっていたかのように一朝にして措置され、太原・幽州の役では軽々しい行動を終身の戒めとし、後にその言が正しかったことが証明された。
  • 家人が国の大議を裁断する趙普を見て、閉戸して書を読むのを見、後に覗くとそれは『論語』であったという。かつて傅説が商の高宗に「古訓に学ばねば永く世を治めることはできない」と告げたが、趙普はまさに古の哲人に倣い、蓍亀・聖模のように宋の治世の醇正な気象を助けた。
  • しかし晩年、廷美・盧多遜の獄は太宗の盛徳を大いに損なうものであり、趙普もこれに関与した。その学力に限りがあり、なお失うことを患う心があったのだろうか。君子はこれを惜しんだ。