生涯
- 字は温玉、真定の人、家は素より微賤。寡居の姉が京師にいた際、周祖が微賤の頃求婚を望み、廷璋の説得で姉が応じた。周祖の太原鎮守に伴い姉のもとを訪ね、周祖はその純謹さを愛し、姉の卒後も廷璋を側近に留めた。三叛討伐・国難平定でも竒計を献じ、即位後は姉を淑妃に追冊し廷璋を右飛龍使に擢用したが辞退し、代わりに父の洪裕への恩を願い出た。皇城使・昭義兵馬都監・澶州巡検使を経て世宗に才幹を評され客省使、河陽巡検知州事。涇帥史懿の反抗を鎮めるため代わりに赴き、詔書を示して禍福を説き解決した。周祖崩御の報に廷璋は嘔血し数日絶食したという。
- 世宗即位で左驍衛大將軍・宣徽北院使、劉崇討伐で建雄軍節度、太原境で仁義・高璧等砦を落とし刺史・軍校数十人を捕虜、民数千戸・兵器羊馬数万を得た。隰州刺史孫議の卒去に伴い監軍李謙溥を派遣、并人の来攻に対し「隰州の城壁は堅固、奇策で破るべき」と敢死士百余人で内応させ夜襲、并軍を大破し千余級を斬った。世宗は「わが舅は真に賊を防げる」と褒めた。檢校太保、顯徳六年河東界の砦十三を降し、恭帝即位で檢校太傅、宋初檢校太尉、吏民が徳政碑を求め太祖は盧多遜に撰文させた。
- 李筠の反乱に際し密使の蝋書を摘発し京師に送り、経略の策を上奏、太祖親征に従い陰地を経て賊勢を分断、平定後帰鎮し邠州に移鎮、乾徳四年鄜州、開寶二年右千牛衛上將軍、四年年六十で卒した。廷璋は美髯で上半身が長く容儀を好み、下役にも懈らず、幕府には名士が多く集まった。晉州在任中、荊罕儒が疑念から警戒しても廷璋は誠意で応対し無事だった。父洪裕には夢に石雁を授かった逸話が伝わり、その年に淑妃が生まれ、翌年廷璋が生まれたという。子は七人、うち垣・塤は進士及第。