生涯
- 應州金城の人、重厚で寡言、方略に富んだ。初名は崇威、周祖の名を避け崇と称した。父祖は代北の酋長。弱冠で募兵に応じ、後唐清泰中應州騎軍都校。晉祖が雲應の地を契丹に割譲すると、崇はこれを恥じ南帰し鄆・河中・潞の三鎮で騎軍都校を歴任。開運中太原を戍り、漢祖挙義で前鋒として入汴、䕶聖左第六軍都校・郢州刺史・富州刺史。周祖の河中平定で果州防禦使・䕶聖右廂都指揮使、周祖の鄴鎮守で行營騎軍兼天雄軍都巡検使。
- 乾祐三年冬、周祖の後漢平定に従い留子陂で李筠と共に慕容彥超を破り走らせ侍衞馬軍都指揮使。馮道らと湘隂公贇を徐州から迎えて擁立しようとした際、契丹南侵で周祖が北征し澶州で六軍に推戴されると、樞密使王峻の命で崇は七百騎を率い贇を東で拒む任務についた。睢陽で贇と対峙し、贇の呼びかけに応じて城楼に登り軍情を説明、贇は「天命は定まった」と涙して従い、贇の衛兵都校張令超も帰順、崇は贇を館舎に護送した。
- 廣順初年定武軍節度・京城都巡検使・修城都部署兼知歩軍公事、まもなく陳州節鎮に潁州を隷させ節度使に任命。周祖の親郊で同平章事、澶州に出鎮、周祖病篤で鎮に戻る。世宗即位、并州の潞州侵攻に符彥卿と共に固鎮で防戦、世宗親征では彥卿の副として行營都部署。師還で侍中兼加、真定尹成徳軍節度。四年世宗の淮南征討中、契丹の万余騎の掠奪に対し束鹿県を攻略し数百級を斬った。五年入朝を願うも許されず厚遇を受け、世宗の関南平定にも従軍。恭帝嗣位で檢校太師、宋初中書令兼加。
- 崇は後周の恩遇を偲び涙することがあり、監軍陳思誨がこれを「常山は辺境に近く異心を疑うべき」と密奏したが、太祖は「崇は篤い恩義の人、感激の情に過ぎない」と信じ、探らせた使者も崇が普段通り宴を楽しむ姿を報告し、太祖の見立て通りであった。李重進が反乱すると崇は代わりの節制となり、乾徳三年年五十八で卒し太師を追贈。子の守璘は洛苑副使、妻は明徳皇后の姉。子の允恭は殿直から崇儀副使・知常州で卒し、その次女は仁宗皇后となった。天聖三年、崇に尚書令兼中書令、守璘に太尉寧國軍節度、允恭に太傅安徳軍節度を追贈、六年英國公を追封、さらに贈典を加えた。