宋史卷二百五十四 列傳第十三 侯益
汾州平遙の人。祖父は農業。唐末より李克用麾下で武功を挙げ、後唐・後晋・後漢・後周・宋の五代にわたり武将として仕えた。景崇の乱で一族の多くを失うなど幾度も去就を翻したが、乾徳三年、年八十で卒し中書令を追贈された。子の仁矩、孫の仁寳・延廣ら子孫も官途を歩んだ。
年表(14件)
- 天成初年朱守殷の夷門叛乱を斬関先登で鎮圧し寧州刺史となる
- 應順初年潞王挙兵時に情勢を察し従わず商州刺史に降格されるも、のち蜀軍を撃破し復職した
- 後晉初年奉國都校・光州防禦使となった
- 天福四年武寧軍節度同平章事に進み、徐州の大火に私財を投じ賑恤した
- 廣順初年楚國公に封ぜられ、のち齊國公に改封された
- 顯徳元年致仕を許され洛陽に帰った
- 乾徳三年年八十で卒し、中書令を追贈された
- 開運初年仁矩が氈毯使・天平行軍司馬となった
- 後漢初年仁矩が隰州刺史として滞訟を一日で百余人釈放した
- 開寶二年仁矩が年五十六で卒した
- 咸平二年仁矩の子延廣・延之が進士に及第した
- 太平興國中仁寳が交州攻略策を献じたが容れられず、交州水陸計度轉運使として先遣され戦死した
- 淳化二年延廣が靈州刺史として派遣された
- 至道二年延廣が病で卒した、年五十
前歴
- 汾州平遙の人。祖父は農業。唐光化中、李克用の太原統治下で拳勇により麾下に入り、荘宗の大名攻めで先登し軍校を捕らえ馬前直副兵馬使に擢用。劉守光征討で先登、洺州攻略で機石により負傷し荘宗自ら薬を貼った。護衛指揮使を経て梁の驍将李立・李建を軍中で恐れさせるほどの武勇を発揮し、荘宗の梁との河上の戦いで二将を捕らえ馬前直指揮使に進む。荘宗の入汴、明宗の擁立の変にも従い、明宗即位で益は靣縛して罪を請うたが「忠節を尽くしたのに何の罪があろうか」と許された。
- 天成初年、朱守殷の夷門叛乱を斬関先登で鎮圧、王都の定州叛乱討伐にも従軍し寧州刺史、羽林軍五十指揮都校・費州刺史。夏帥李彞超の自立に対する討伐軍を率いたが明宗の病で中止。應順初年、潞王挙兵に際し西面行營都虞候として情勢の変化を察し稱疾で従わず商州刺史に降格されるも、蜀軍の金州侵攻を撃破し西面行營都廵検使に復した。
後晉から後漢への仕官
- 後晉初年奉國都校・光州防禦使。范延光の大名叛乱と張從賓の河陽呼応に際し、晉祖の命で西面行營副都部署として虎牢で従賓軍を大破し汜水の流れが止まるほどの戦果を挙げ、河陽三城節度・鄴都行營都虞候。延光降伏後潞州に移鎮、天福四年武寧軍節度同平章事に進み、九月徐州の大火に私財を投じ賑恤した。翌年秦州移鎮、西面都部署のとき階州の反乱に懼れ朝廷に援を求めつつ密かに蜀にも通じ、少帝は疑念を抱いたが蒲帥の移鎮に伴い河中尹・護國軍節度に転じた。契丹の汴入城で益は帰京し不関与を弁明、契丹より鳳翔節度を授かる。
- 漢祖即位で侍中を兼加。かつて契丹の命を受けたことを憂い城壁を修めて備えるなど不安定な立場にあり、蜀の孟昶からの誘いに応じて子と共に蜀へ入ろうとしたが、漢祖は臨終の際「益は表面服従だが内心は貳心を抱いている、状況次第で処断せよ」と密勅を残していた。景崇が蜀軍を破ると益は恐れて入朝を図り、隠帝は「蜀軍を誘い出し掩殺するつもりだった」との弁明を笑って許した。史弘肇らに賄賂して景崇の専横を訴え、開封尹兼中書令・魯國公に叙されたが、これに怒った景崇は反乱を起こし、益の親族七十余人は殺害された。
- 後周太祖挙兵の際、益は「兵を出さず関を閉じて挫くのが得策」と献策したが慕容彥超に「衰老の懦計」と反対され採用されず、澶州の戦いで士卒の戦意なきを見て取り占候も不吉として夜に周祖の下へ投じた。廣順初年楚國公封・太子太師・齊國公封を経て顯徳元年冬致仕を許され洛陽に帰った。太祖即位後も年ごとの朝見を許され厚遇された。乾徳初年郊祀で丞相同様の礼遇、三年年八十で卒し中書令を追贈された。子は仁愿・仁矩・仁寳・仁遇・仁興。
侯益仁矩――生涯
- 益に従い商州牙校として張從賓討伐に功あり蓬州刺史。潞・徐・秦三鎮を歴任し開運初年氈毯使・天平行軍司馬。後漢初年隰州刺史として滞訟を一日で百余人釈放し民に慕われた。後周で左羽林將軍・泗州刺史・通州兼屯田鹽鐵監使、宋初祁・雄二州刺史で善政を挙げ、開寶二年年五十六で卒し太祖は特に中使を送って葬儀を護らせた。子の延廣、延之は咸平二年進士及第。
侯益仁寳・延廣――生涯
- 仁寳は蔭で太子中允、趙普の妹壻。盧多遜と趙普の不和で知邕州となり、毒木の伐採奏上で九年在任。太平興國中、交州攻略策を献じたが盧多遜が「召還すれば謀が漏れる」と反対、代わって交州水陸計度轉運使として先遣、賊の伏兵に遭い援兵も届かず江中で戦死した。太宗は深く悼み工部侍郎を追贈、子の延齡・延世を齋郎とした。
- 延廣は幼くして王景崇の乱に巻き込まれ乳母劉氏が我が子を身代わりに死なせて延廣を助け、京師で益に返された。父仁矩の下で牙職となり、雄州在任中の突然の来襲に対し親信数騎で酋長を射殺し首級を献じ「わが家門を興すのはお前だ」と褒められた逸話がある。仁矩卒後西頭供奉官、太原征討・永昌陵造営に従事、延州軍護送・縁邊廵検で辺境警備、閤門祗候、崇儀副使として鄜坊延丹縁邊都廵検使。病をおして辺境に赴くと太宗より薬を賜り快癒、戎人は延廣の来着を聞くと侵犯を控えたという。叛卒劉渥の乱では自ら追撃し富平で戦い渥の右腕を斬り、後日渥は捕らえられた。崇儀使に擢用、淳化二年李繼遷の初動に対し靈州刺史として派遣され、趙保忠捕縛の功で錫賚を受け延州鈐轄。靈州知事として厳整な統治で戎人に慕われたが、監軍康贊元の誣告で召還され慕容徳豐が代わり靈州の統治は乱れた。至道間、李繼遷の靈州侵攻に対し寧州團練使・知靈州兼兵馬都部署として再赴任、白金二千両と歳増二百万銭を賜り、数十騎のみで鎮に赴くほど戎人に信望された。至道二年病で卒し年五十、太宗は涙を流し厚く弔った。