生涯
- 字は守真。先祖は沙陀部の人。父の楊光遠は後晉太師壽王。承信は光遠の第三子で幼くして父の任により義武軍節院使・蘭州刺史、宣武・平盧二軍牙校。開運初年、光遠の青州叛乱に対し少帝が李守貞らに討伐させると、承信の兄承勲が父を捕らえ降伏させ光遠は死んだ。承信は弟の承祚と共に朝廷に死を請うたが釈され、右羽林將軍(承祚は右驍衞將軍)となり服喪の後鄭州に安置された。契丹に款を通じていた光遠に対し、来襲した契丹に承勲(鄭州防禦使)はその罪を数えて処刑し、承信は平盧軍節度として父の職を継いだ。
- 後漢では安州・鄜州節度を歴任し檢校太師を加える。後周廣順初年同平章事、劉崇討伐に従軍を求め開府階・杞國公封。世宗即位で韓國公封、淮南征討で濠州攻城副都部署・壽州北砦都部署兼知行府事、壽州平定の功で忠正軍節度同平章事、州治下蔡の拡張と盧州北での淮人撃破に功あり。恭帝即位で魯國公封、宋初侍中兼加。李筠討伐で澤州西面都部署、平定後河中移鎮、乾徳元年趙國公封、二年年四十四で卒し中書令を追贈された。
- 承信は身長八尺、容姿優れ多芸で、叛臣の子ながら藩鎮を歴任し苛政を避けて富貴を全うした。卒去には蒲の民が祠を建てて乞うたという。景徳四年、孫の松が奉職に録された。