宋史卷一百九十四 兵志第一百四十七 兵八(揀選之制廪給之制)
揀選之制の始まり(建隆〜天禧)
- 建隆初(960年頃)、諸州が召募した軍士を京師に部送し、軍頭司が体格等級を再検し諸軍に配属する制度が始まった。廂軍から禁兵へ、禁兵から上軍へ、上軍から班直への昇格は皇帝自ら親閲するもので、卓越した材勇の者以外は下から順に選補された。
- 咸平5年(1002年)、環慶等州の廂軍馬歩軍から材勇の者4500人を選び禁兵に代えて防備に充てた。景徳2年(1005年)、禁軍の老疾化を憂慮し「精加選揀」を断行する詔が出され、太祖の代の先例(揀閲断行後に精兵が育った故事)が引かれた。樞密使王継英らは冗費を懸念したが、帝は「契丹講和・夏人納款を機に軍縮を疑われぬよう、まず下軍から選抜して上軍を補い老疾者は秋冬に揀去する」と命じた。景徳3年(1006年)、樞密都承旨韓崇訓らと殿前・侍衛司による京東西路の揀閲、河東出身の効順第一軍の労苦をねぎらい虎翼への昇格が行われた。
- 大中祥符2年(1009年)、江南・広東西路の配流の罪人のうち少壮で披帯に堪える者を近上の軍分に選抜移配する詔。大中祥符5年(1012年)、樞密院王欽若らに在京軍校の欠員補充策(捧日上三軍300人、龍衛上四軍各250人、拱聖・驍騎・驍勝・寧朔・神騎・雲武騎各350人等の詳細な定員規定)を示した。大中祥符9年(1016年)、河北・河東・陝西の本城兵500人以上を1指揮に昇格させ禁軍とする制度。天禧元年(1017年)、諸州の廂軍から驍壮な者を上軍に昇格させ、この年5千余人が禁軍に移った。
天聖〜嘉祐期の詳細な選抜基準
- 天聖年間(1023-1032年)、樞密院が禁軍昇進の詳細な弓弩の力量基準(上四軍は弓9斗・弩2石7斗〜3斗等)、班直ごとの選抜規格を定めた。景祐元年(1034年)、驍駿を選んで拱聖諸軍を補い、老疾者は剰員に落として不任役者は民に戻す制度。景祐3年(1036年)、驍騎・雲騎・驍勝を拱聖に、武騎・寧朔・神騎を驍騎に補充する編成替え。康定元年(1040年)、御輦官の反乱事件(首謀者2人を斬、余は嶺南に配流)を機に選抜を再開。
- 慶暦3年(1043年)、韓琦・田況に禁軍武技精捷の者5人の選抜と樞密院への籍記を命じた。田況は「天下の兵は先朝の3倍に達し養兵の冗費は前例がない。宣毅・広勇等は弱く戦にも役にも堪えないので、堪えない者を廂軍に降格・釈放すべき」と献策し、皇帝はこれを容れた。皇祐元年(1049年)、河北・河東・陝西・京東西の禁廂諸軍を揀し、老疾者を半分の給与にして帰郷させるなどの措置。皇祐3年(1051年)、韓琦の奏請により河北就糧軍で上軍希望者の大閲・部送規定を定めた。
- 嘉祐2年(1057年)、神衛水軍等の5年ごとの揀選、諸司庫務役兵の3年一揀、京東西・陝西・河北・河東の各種兵種の禁軍昇格基準を定めた。嘉祐8年(1063年)、右正言王陶は「調発の際にこそ揀練が必要」として60歳以上の兵・65歳以上の将校の淘汰を提案し、殿前馬歩軍司も陝西・河北・河東・広南への出戍軍について同様の揀法を求め、許可された。
治平〜煕寧期の再編
- 治平元年(1064年)、親従官の武技試験で120人を諸班直に補充し35歳以下限定とした。治平4年(1067年)、拱聖・神勇以下から捧日・天武・龍神衛の闕を補充。元豊3年(1080年)、権主管馬歩軍司の燕逹は「就糧退軍のうち武藝浅弱な者は訓練も屯戍もできず冗食となっている。今後は補充を止め、禁軍選募・敎習で自然減させ、奉銭700を500に減じる」と提案し、許可された。
- 元豊4年(1081年)、河北義勇保甲の狄諮の提案により、老疾の兵の代役規定(弟姪子孫による承替)を40歳以上に拡大。元祐2年(1087年)、諸路の武藝観閲・試験の日程を整備。元祐3年(1088年)、在京諸軍の闕額と京東西路就糧禁軍の溢額の是正のため官を派遣し選抜・発遣する制度。
- 大観元年(1107年)、東南諸郡の軍事訓練の不足を憂慮し、教頭の選抜強化を命じた。省併(部隊統合)の制度についても述べられている。皇祐年間、馬軍400人・歩軍500人を1営としていたが、承平が続くと定員割れが常態化し(1営に数十騎、1〜2百人程度)、将校の俸給だけが嵩む状況になっていた。煕寧2年(1069年)、陝西の馬歩軍営327を270に統合(馬軍300人・歩軍400人を1営に再編)し、その後全国で545営を355営に統合、統合により年間45万緡・米40万石・細絹20万匹・布3万端・馬藁200万を節減した。
- 統合には当初、軍の驕慢を憂慮する反対論(蘇軾「近時の併軍蒐卒の令は前例のない急な措置」、文彦博「人情が動揺している」)があったが、王安石は「事が改革を要するならこの程度の反対は憚るに足らない」と断行を主張し、帝はこれに従った。以後煕寧から元豊にかけて毎年統合が進められた。元符2年(1099年)、諸路の砦の統廃合(鄜延・秦鳳路はすでに実施、涇原・熙河・蘭会・環慶・河東路は検討中)、崇寧年間の都護府廃止、大観3年(1109年)の東南諸郡での軍事支出抑制(帥府・望郡の禁軍増設中止、壮城兵の定員縮小等)、大観4年(1110年)の四輔州の減将・崇鋭崇威崇捷崇武44指揮の統廃合、宣和5年(1123年)の両浙盗賊鎮圧部隊の江東・淮東への転用配置なども行われた。
- 神宗代には簡汰退軍(冗員削減)の令も度々出された。治平4年(1067年)の拱聖・神勇以下からの補充に続き、煕寧元年(1068年)、諸路監司に招簡の適否を審査させ、不任禁軍は廂軍へ、不任廂軍は民へ降格する制度。煕寧2年(1069年)、陳升之の議により40歳以上で技藝不足の者の給与を減らす案が出されたが、呂公弼・陳薦は退軍の不便を訴えた。煕寧3年(1070年)、司馬光も「在京禁軍45歳以上を淮南に移すのは横に降配するに等しく不当。従来通り毎年揀選し不任者を漸次減らす方が国家の安危に資する」と反対意見を述べ、右正言李常も同調してこれが通った。
- この年、陝西就糧禁軍の額を10万とし、河東・陝西で緊急募兵する詔。煕寧4年(1071年)、配軍から陝西の彊猛な兵を選び壮勇並みの待遇とする詔、広東・福建・江西で配軍から壮勇1万人を募る詔、広東の新澄海指揮(500人1指揮)の編成。煕寧7年(1074年)、諸路の小分(40歳以下)を大分に昇格、50歳以上の希望者は民に戻す制度により冗兵が大幅に減少した。煕寧10年(1077年)、畿内・京東西・陝西・荊湖の長吏に簡募を命じ禁軍闕員を補充。
- 元豊元年(1078年)、馬軍から上軍・諸班への選抜基準(弓1石力)、班直槍弩手の闕員補充規定。元豊2年(1079年)、雲騎軍闕2100を雲捷等軍で補充。元豊6年(1083年)、50歳以下で武技が不成立の騎兵を歩軍に転換。元祐4年(1089年)、禁軍剰員への降格基準を65歳に引き上げ。元祐8年(1093年)、涇原路経略司は60歳以下で精力の衰えない者を留任させる案を許可された。紹聖4年(1097年)、龍騎軍(雑犯軍)の闕員を犯徒兵・断罪経験者から補充。元符元年(1098年)、就糧禁軍の闕額を廂軍から40歳以下の者で補充。宣和7年(1125年)、京東西・淮南・両浙帥司に精鋭選抜を命じ京畿輔郡兵馬制置使司に送らせた。
靖康〜南渡後の揀選
- 靖康元年(1126年)、軍兵の教習不足を憂え冗濫の淘汰を命じたが実効は上がらなかった。かつて兵が盛んな時代には50歳以上を悉く民に戻したのに対し、統合が進むと逆に60歳以上を再び兵籍に収める矛盾が生じており、これが政治の巧拙を映すものと評されている。中興(南渡)以後は軍校転補の法が定着し、揀選はより精緻になった。おおむね疾患・老弱・藝能未熟を基準に選抜が行われ、中軍から外軍へ、あるいは外辺の精鋭を禁衛へ昇格させるといった運用がなされた。
- 諸軍の招募基準(等杖)は、天武第一軍5尺8寸、捧日・天武第二軍・神衛5尺7寸3分、龍衛5尺7寸、拱聖・神勇・勝捷・驍捷・龍猛・清朔5尺6寸5分、驍騎・雲騎・驍勝・宣武・殿前司虎翼・虎翼水軍5尺6寸などと細かく段階づけられ、下は3路廂軍の5尺2寸まで多数の軍種ごとに規定された。
- 建炎3年(1129年)、江南江東・両浙諸州軍の正兵・土兵から40〜45歳以下・器甲を備えた者を選抜し行在に赴かせる詔。建炎4年(1130年)、神武義軍統制王&KR0667;の閲兵で第三等軍兵1660人を廂禁軍に補充。紹興2年(1132年)、盗賊招安の邵清・単徳忠・李捧の部隊約7千人から呂頥浩・秦檜が選抜、張俊が精鋭5千人を行在に送った。紹興20年(1150年)、統制の呉玠・楊政による西兵の選抜補充。紹興24年(1154年)、御龍直の闕員を殿・歩両司から選拍補充。乾道2年(1166年)、王琪による馬軍300人選抜。慶元3年(1197年)、殿司の効用軍の闕員を弓弩合格者から補充。
- 嘉定11年(1218年)、臣僚は「今の軍政で最も肝要なのは汰卒であり、千人のうち百人が老弱で戦に先んじて逃げれば全軍が瓦解する」と将帥に厳格な淘汰の徹底を求めた。省併の法は咸平年間に始まり、以後臣僚がしばしば「闕額が生じれば統合し旧額を満たして教閲を容易にすべき」と提言し、指揮・制領・将佐の統廃合も同時に行われた。嘉熙初(1237年頃)、臣僚は「卒伍の中から強勇な者を選び別籍として厚遇すれば、百人中10〜30人でも精鋭を養える」と述べ、蘇轍の説(天子・将軍がそれぞれ私的に信頼する精鋭を持ち、将帥の統御権を強化すべし)を引いた。咸淳年間(1265-1274年)には募兵が絶えず行われたが人選が適切でなく「揀選」の名に値しなかったと総括されている。
廪禄之制(俸給・支給の制度)
- 農民は租税を納めて兵を養い、兵は防衛の任にあたる。唐は天下の兵を藩鎮に分置し禁衛は10余万に過ぎなかったが国用は不足しなかった。宋は五代の弊を懲らして数十万の甲兵を京師に集めながらも国用が不足しなかったのは、経制・出納に節度があったためである。国初、太倉の備蓄はわずか2、3年分であったが、承平が続くと江淮からの漕運が年600万石に達し、財貨は常に余裕があった。
- 上軍都校(捧日・天武、龍衛・神衛の左右廂都指揮使で団練使を遥領する者)は月俸銭百千・粟50斛、諸班直都虞候・諸軍都指揮使(刺史を遥領)はその半分。以下、諸班直将校は3千から3万まで12等、諸軍将校は300から3万まで23等、廂軍将校は350から1万5千まで17等と、細かい俸給体系が定められていた。春冬の衣は絹綿または紬布・緡銭で支給された。糧食支給は軍次(部隊の順位)に応じて倉庫を分け、あえて遠隔地の倉から支給することで士卒に「負担の労苦」を経験させる工夫もあった。
- 3年に1度の大祀での賜賚・優賜、毎年の寒食・端午・冬至の特支、辺戍への季節ごとの銀鞋支給、邠寧・環慶等の辺境での薪水銭支給、嶺南戍の月奉加給、川広からの帰還者への装銭、遞鋪卒への時服銭など、多様な手当が制度化されていた。天聖7年(1029年)、法寺は騎兵・歩兵の春冬衣の支給規定(騎兵は春冬各7事、歩兵は春7事・冬6事)を定め、質入れ・売却には重罰を科した。
- 景祐元年(1034年)、三司使程琳は「兵は精であるべきで多寡ではない。河北・陝西は軍儲が乏しいのに募兵が止まらず、住営兵1人の費用で屯住兵3人を養える。かつて1万の兵を養う費用で今は3万の兵を養っている」と述べ、河北の年間芻糧費1020万・陝西1500万のうち賦入で賄えるのはそれぞれ3割・5割に過ぎず残りは京師からの供給に頼っている実情、咸平以来2辺で増設された馬歩軍指揮160の費用(騎兵1指揮年約4万3千緡、歩兵1指揮約3万2千緡)を示し、募兵の増設停止と廂軍からの精鋭補充・内郡への漸次移営を建議し、帝はこれを嘉納した。
- 康定元年(1040年)、戦場の士卒への終身給与継続の詔。宰臣張士遜らは京師の禁兵の家族窮乏を憂え、内蔵庫から10万緡を賜った。慶暦5年(1045年)、湖南の征蛮兵への装銭以外の帯甲銭支給停止。嘉祐8年(1063年)、殿前諸班の請糧が定めより不足していたことを御史中丞王疇が指摘し、以後の是正が命じられた。皇祐2年(1050年)、在外禁軍への郊賚(実額支給)の詔。皇祐5年(1053年)、広南の捕蛮軍の帰営者への銭・月奉増額、瘴癘での死没者の子孫への処遇規定。
- 治平2年(1065年)、涇原勇毅軍の3等区分と奉銭差等の規定。煕寧3年(1070年)、帝は「軍糧の支給に虧減があってはならない」と厳命し、乞取・減刻を厳しく取り締まった。煕寧4年(1071年)、鄜延路の軍の窮乏(衣を売って自弁する状況)を憂慮し体量振恤を命じた。この折、王安石は「士卒を愛するのは驕らせることとは異なる。郭進の故事のように、厚く恤みつつ違令には厳罰で臨む姿勢が必要」と述べ、封樁銭物の柔軟な使用を提案した。
- 煕寧4年(1071年)、教閲を行わない廂軍について、河北崇勝・河東雄猛・陝西保寧・京東奉化・京西壮武・淮南寧淮各軍の給与規定(醤菜銭・月糧・春冬衣の具体額)を細かく定めた。煕寧7年(1074年)、橋道清塞・雄勝諸軍の奉を300に増額、募集賞給を旧来の半分に減額。煕寧10年(1077年)、安南道での戦没者への衣奉全額支給免除、弓箭手・民兵・義勇への貸付の1年据置。
- 元豊2年(1079年)、荊南雄畧軍の南戍瘴没者への優恤(軍校子孫への職・緡銭、士卒子孫弟姪の兵籍収容と賻の支給、70歳以上無子孫者への終身半額支給)。徽宗崇寧4年(1105年)、料銭の支給方法を小平銭に統一。蔡京が皇城舗兵の食銭を私的に増額して恩を売った事例も記録されている。崇寧5年(1106年)、封樁銭の樞密院所属を巡る戸部との折衝。宣和7年(1125年)、軍司による乞取・率歛や官吏の冗占による濫費を戒める詔。靖康元年(1126年)、二税課利を軍糧・春衣・冬賜に優先充当する規定。
- 国初以来、三司・漕臺が軍儲を最重要視し支給は定額に基づいたが、闕額分の封樁の扱いは政局によって樞密院・尚書省の間で揺れ動き、これが政和年間の軍政が崇寧・大観年間より劣っていた一因とされる。
- 中興(南渡)以後も概ね旧制を踏襲。紹興4年(1134年)、御前軍器所の万全雑役の廩給不足を戸部が是正(月米1石7斗を1石9斗5升に増額)。紹興5年(1135年)、効用の給与名称・額を整理(進勇副尉等)。宣撫使韓世忠は従軍家族への日給増額を要請し許可された。紹興13年(1143年)、殿司統領官に月々の供給銭を明確化し私的な兵の使役(負販)を禁じた。歩軍司趙密は招収白身効用の給与体系を整理し、逃亡防止のため待遇を統一した。
- 隆興2年(1164年)、剰員降格年齢(兵卒60歳・将校65歳)の徹底と籍簿の整備を規定。乾道8年(1172年)、給与の銭・銀・会子の支給比率を細かく規定。淳熙3年(1176年)、効用の資格ごとの給与額(1資〜10資まで、それぞれ銭・折麦銭・米・絹の具体額)を精緻に定めた。紹熙元年(1190年)、知常徳府の王銖は辺境城砦官兵の俸給遅配による弊害(民への侵漁、訴訟・辺境紛争の誘発)を訴え、月ごとの確実な支給を求めた。
- その後弊害は次第に拡大し、咸淳年間には建康を例に、実員に見合わない軍号の乱立(神策二軍・遊撃五軍・親兵二軍・制効二軍・靖安唐湾水軍・遊撃采石水軍・精鋭破敵軍・効用防江軍等)により統制1人あたり月給が会子換算1万500に達する例も見られた。開慶元年(1259年)、四川制司は戍兵の生券人への月給増額(6千から9千へ)を求めたが、財源は民の膏血を絞り、実際には2、3人の大将の私腹に帰し国用が枯渇して宋の滅亡につながったと総括されている。
- 臣僚はかつて「古は兵農一体で供億の煩がなく防禦の責任を果たせたが、後世は兵農が分離し国力を尽くして兵を養うようになった。今の辺防には屯田(川蜀)・民兵(淮襄)を組み合わせた兵農合一策こそ足食足兵の良策」と論じたが、この説は権姦(佞臣)に阻まれ実現しなかった。