宋史卷一百九十三 兵志第一百四十六 兵七(召募之制)
制度の起源(唐末〜宋初)
- 召募の制度は府衛制の廃止に始まる。唐末、士卒は征役に疲弊し逃亡者が続出したため、後梁の朱全忠(梁祖)は諸軍に顔面に文字を彫らせて軍号を識別させた。これが長征の兵の始まりで、募集時にはまず体格を見て、次に走力・視力を試験し、然る後に黥面のうえ銭・衣履を給して兵籍に入れた。
- 宋初はこれを継承し、土地の者を募って所在に編成したり、飢民を募って城の防備に充てたり、罪人を配隷して労役させたりと方法は一様でなかったが、屈強な者は禁軍へ、そうでない者は廂軍(廂部)へ配属し、隊伍・法令をもって統制した。太祖は軍中の勇者を「兵様」として諸道に示し、これに倣って募集させ、後には木製の物差し(木挺)で身長を測る「等長杖」の制に改めた。
真宗〜仁宗期の募集制度
- 真宗祥符年間(1008-1016年)、身長基準(等杖)を5尺8寸から5尺5寸まで5等に定め、闕額の軍に充てた。
- 仁宗天聖元年(1023年)、京東西・河北・河東・淮南・陝西路での募集規定(部送者への刺字と家族への口糧支給、募集成績による賞罰)、益・利・梓・䕫路での毎年募兵と部送先(奉節・効忠・忠節等軍)を定めた。慶暦7年(1047年)、5尺7寸以上の廂軍募集者を部送のうえ禁衛に試補する制度を定めた。至和元年(1054年)、河北・河東・陝西で就糧兵を募り、騎兵400人・歩兵500人を1営とした。
- 嘉祐2年(1057年)、身長基準(等杖)を給与額(奉銭)ごとに細かく再定義した。奉銭1000は5尺8寸・7寸・3寸を3等、700は7寸・6寸・5寸、500は6寸・5寸・5分、400は5寸・4寸5分、300は5寸から2寸まで6等、200は4寸から2寸まで4等、無給者は5尺2寸または7指・8指を基準とした。武厳・御営喝は技藝優秀者を優先し身長を問わなかった。嘉祐7年(1062年)、御史唐介が「近年の等募禁軍は小柄・弱体な者が多く鎧甲に耐えられない」と指摘し、初期の基準を厳守する詔が出された。
神宗期の募集拡充
- 治平4年(1067年)、延州に保捷5営を募集し更戍に備えた。煕寧元年(1068年)、諸州で飢民を募り廂軍に補した。煕寧2年(1069年)、樞密院は「辺州は無警時には兵を罷めるのが国初の慣行だが、今は屯兵が多く財政を圧迫している。糧の安い内地で募兵を増やし極辺に戍させる方が得策」と提案し、文彦博・韓絳・陳升之・呂公弼らと協議した。煕寧3年(1070年)、東西路の糧草のある州軍で廂軍3万人を募る額を定めた。定州の滕甫の請願により弓箭社の募集も継続された。
- 煕寧4年(1071年)、在京の兵員不足を補うため、在京・府界・京東西・河北で若く壮健な者を募り、遠地からの徴発による水土不適応・凍餓の弊害を避けた。延州の趙卨は漢蕃弓箭手4984人を募り8指揮に編成し昇進を得た。煕寧7年(1074年)、熙河路の効用兵を諸路で選募し、河北・河東の募兵は廃止した。煕寧8年(1075年)、祖父母・父母が老疾で他に扶養者がいない者は移住を許可。
- 元豊年間(1078-1085年)には岷州・床川・荔川・閭川砦・通遠軍などに牧養十監を置き募兵で監牧とし、営田には永済卒(定員1000人)を募った。沿辺の情報収集要員(刺事人)の募集、兖・鄆・斉・済・濵・棣・徳・博の饑民募兵による開封府界・京東西将兵の補充なども行われた。元豊6年(1083年)、在京の奉銭700以下の馬歩軍1万5千人と、開封府界・本路・涇原・秦鳳路での義兵・保甲募集を命じた。
- 哲宗元祐元年(1086年)、右司諫蘇轍の請願により、河北保甲のうち投軍を望む者で上四軍の等杖・事藝を満たす者に特別な例物を加えて募集する制度を定めた。元祐6年(1091年)、司馬光は「軍兵が全く不足している辺境には額を立てて招募すべき」と述べた。紹聖元年(1094年)には禁軍募集の賞格を制定。紹聖4年(1097年)、熙河蘭岷路で歩軍保捷4指揮・馬軍蕃落1指揮の募集を許可し、以後陝西各州に蕃落軍10指揮を追加配置した(募兵による騎兵増強策で、牧地による馬の飼育よりも簡便とされた)。
徽宗期の募集政策
- 崇寧元年(1102年)、湖北都鈐轄の舒亶が施州・黔州の土丁を募り辰・沅の猺(異民族)討伐に充てた(1州あたり最大700人)。崇寧3年(1104年)、京東等路で崇捷・崇鋭(馬軍)、崇武・崇威(歩軍)の名で5万を募集。崇寧4年(1105年)、崇威・崇鋭新兵の教閲状況を問われた転運使洪中孚は「教閲自体は容易だが、太祖以来の兵数を減らさずに新たに増やすのは無用な支出」と諫言し、帝は一旦増兵中止を命じたが、中孚は「離散した兵が盗賊化する恐れがある」として結局既定の10万募集(崇捷・崇武)が実施された。
- 政和2年(1112年)、広西の欠員1万3百余人について、犯罪の軽重に応じ配流の代わりに募兵とする措置を定めた。政和4年(1114年)、東南諸郡の廂軍募集に和雇を用いる措置。宣和元年(1119年)、高陽関路の呉玠が禁軍の闕額補充を命じられ、実績に応じ昇進磨勘年数を優遇された。宣和2年(1120年)、廂軍募集で規格未達の者を退けるよう命じた。宣和4年(1122年)、両浙東路・台州で不係将禁軍を増設。同年3月、京師での強制的な捕捉徴募(道行く人を捕らえて刺字する乱暴な募集)が横行し民が恐怖したため、詔により禁止された。宣和7年(1125年)、財政緊縮の一環で得られた財源を諸路糴本・募兵賞軍に充てた。
欽宗朝(靖康)の募集
- 欽宗即位後、州県・郷村の土豪を隊長とし、50人以上募集した者には進義副尉、300人以上には承信郎を授ける詔を出した。京畿輔郡兵馬制置使司は敢勇効用兵の募集規定(先給銭・試験・褒賞)、監司・知通・令佐が200人以上募集すれば加官する規定を定めた。
- 靖康元年(1126年)正月、諸路募兵の財源を延福宮西城の銭帛から支出することとし、龍猛・龍騎・帰遠・壮勇の闕額補充、召募人数による等第推賞、強制募集の禁止(志願制の徹底)などを命じた。武挙及第者・戦功者・辺任経験者らの親征行営司への応募も許可した。陝西の土人・使臣効用等を姚平仲軍に募った。
- 4月、大金軍前からの帰還希望者の処遇、陝西路宣撫司による義勇募集(右腕への刺字のみで禁軍並みの支給)で陝西5路から2万人を得る計画、福建路への槍杖手募集(戸部員外郎陳師尹派遣)などが定められた。6月、樞密都承旨折彦実は関中防備の緊急性を訴え、各路に十万緡を与えて帥臣に土人を募らせ保護に充てるよう進言した。開封府尹聶山は、京畿での強制募集の弊害を報告し、政和令に基づき再犯の盗賊を廂軍に充てる代替策を提案、許可された。
- 7月、陝西5路制置使の銭蓋は保甲5万を軍に充てる計画の困難(正兵不足による負担過重)を報告し、志願制での7万人確保を提案。銭蓋はまた、陝西の土人募集が市井の烏合の衆に偏りがちなことから、6路で銅銭各10万緡を用い精選する方針を示し6万人を得た。10月、樞密院は膽勇・射猟の民の募集、福建路の忠義武勇の士の募集を奏請。11月、京城四壁に10万の兵が集められたが応募者の多くは物乞い同然で戦意に乏しく、閏11月、何㮚・王徤が募った奇兵も規律がなく暴発して使臣数十人を殺害する事態となり、王宗濋が首謀者を斬って鎮圧したが、鉄騎に衝かれて潰走した。
- 逃亡兵の処遇に関する規定も度々改定された。煕寧5年(1072年)、奉銭500以上の禁軍が7日以上逃亡すれば斬とする詔が出た際、王安石は「軍興中の逃亡は日数を問わず斬とすべき」と主張し、樞密使蔡挺の沿辺3日逃亡即斬の提案には「軍興でない場合に一律の重刑は不可」と応じた。文彦博は軽々な法改正への慎重論を述べたが、王安石は前代の兵員削減の失敗は制度自体の問題ではないと反論、最終的に7日に改められた。元豊年間には逃亡兵の捕獲・処罰規定がさらに整備され、崇寧・大観・政和年間にも逃亡防止・出頭免罪の規定が繰り返し改定された。宣和2年(1120年)、逃亡兵の百日以内出頭免罪の特例が定められたが、宣和4年(1122年)には臣僚から「出頭・投換が容易すぎて逃亡が助長される」との懸念が示された。
- 靖康年間には、太原方面での潰散兵(种師中軍の潰走)の処遇をめぐり、河北路制置使劉韐が统制将佐の免罪を上奏したが、識者は「軍法を厳格にしなければ緊急時に将を見捨てる風潮が広まる」と危惧を表明した。种師中の統制将佐は結局5階降格処分となった。8月、潰敗した使臣の出頭猶予が10日延長され、以後の逃亡には重賞での購捕・軍法処断が命じられた。
南渡後(建炎以降)の募集
- 建炎初、募兵は西北出身者が中心であったが、後に諸路州軍で三衙が招募したり、三衙軍中の子弟を選抜刺字したりする方式に改めた。滄濵・江淮沿流の州軍では潜水に長けた者を50人限定で募集。神武右軍統制の張俊は烏合の衆を勝捷・振華・振武に改編して統一訓練することを提案、両浙江東・江陰軍で水軍200人を募集した。
- 紹興元年(1131年)、広東の将兵(元5200、現員1319)を10分率で各半数募集する計画。紹興2年(1132年)、互いの軍から兵を引き抜くことを禁止。紹興4年(1134年)、河北出身者を河北振武、その他を陝西振華に充て、沿江水軍の募集(500人1指揮)も行われた。紹興10年(1140年)、三京路招撫処置使司が効用軍兵1万(うち使臣2000)を募集。紹興15年(1145年)、福建安撫の莫将は「汀・漳・泉・剣4州の土豪が私財で社戸を集め防御にあたっているのに朝廷から評価されず賊に転じかねない」と訴え、4州守臣に効用の名目で各千人の募集を命じ張淵に統括させた。
- 紹興24年(1154年)、殿前都指揮使の楊存中は在京禁軍の欠員(捧日・天武以下、逃亡・故障を除き1900人)補充のため年内千人の募集を求めた。紹興27年(1157年)、同じく楊存中が効用兵の欠員6726人を報告、以後毎年正月から募集を再開することとなった。隆興元年(1163年)、歩軍司の郭振は在京時軍額3万9500に対し現員1219人にすぎない実情を報告し、闕員1781人を3000を額として神衛・虎翼・飛山・床子弩・雄武等指揮に募集した。
- 乾道7年(1171年)、馬軍司の王友直は戦馬2700余に対し傔馬600余しかない不均衡を報告し、傔兵1500の募集(雄威に充当)が許可された。歩軍司の呉挺も歩司5軍の闕員3600の補充を求めた。淳熙16年(1189年)、殿前副都指揮の郭鈞は戦隊の傔兵不足を報告し1000人の募集が許可された。紹熙2年(1191年)、歩軍司での1000人募集。慶元元年(1195年)、楚州で261人を弩手効用に補充。慶元5年(1199年)、金州都統に度牒を給し闕額補充と揀汰を命じた。
- 開禧元年(1205年)、興元都統の秦世輔は本司の軍額の変遷(紹興末2万9千余→乾道3年〔1167年〕額2万7千→現員2万5400)と実際に披帯可能な者がわずか627人しかない実情を報告し募集を求めた。参知政事蔣芾は「募集を一時停止し財政が整ってから精兵を募る方がよい」と主張し、南渡以来の兵籍数の推移(紹興12年〔1142年〕21万4500余→紹興23年〔1153年〕25万4540→紹興30年〔1160年〕31万8138→乾道3年〔1167年〕32万3301、23年間で6万9061の増加)を示し、財政悪化への懸念を表明した。宝慶2年(1226年)、知武岡軍の呉愈は禁衛の充実こそ根本と述べ、嘉定15年(1222年)時点で三衙馬歩諸軍が旧額3万に対し7万余に達している例を挙げ、諸州の禁兵補充を求めた。
- 紹定4年(1231年)、州郡の禁卒・壮城・廂軍・土兵の財政は各州の税収で賄えるはずが、実際には募集が名目倒れで逃亡率が高く、州郡が養兵費を惜しんでいる実態が指摘された。宝祐年間(1253-1258年)、州郡の欠員を材武を問わず補充する弊害、咸淳年間(1265-1274年)末には辺報急増に伴い官が高給を示して強制的に平民を刺字募集する乱暴な事例(商人・船夫を騙し討ちにする、軍人の妻に美貌で誘引させる等)が横行し、農地・商路が荒廃した。開慶元年(1259年)、賈似道の上奏では景定元年(1260年)以来の招軍数23万3千余(うち新規募集9万5千、後にさらに5万)を報告したが「兵は無いに等しい」と評された。開慶10年(1270年)、汪立信は賈似道に「内地の兵を江を渡らせて集めれば60万を得られる。兵は多寡でなく訓練の精粗こそ肝要」と建言した。
総括
- 旧制では軍に闕額が生じれば都度補充し、煕寧・元豊年間に民兵政策が整備されると募兵は漸減、三衙もしばしば空籍となり、靖康に至って禁衛は弱体化した。中興後は再び等杖・選抜基準を定めて募集を精選しようとしたが、招募の実権は最終的に樞密院に総括された。