宋史卷一百八十七 兵志第一百四十 兵一(禁軍上)
兵制の総説
- 宋の兵制には大きく3種がある。天子の衛兵として京師の守衛・征戍を担う「禁軍」、諸州の鎮兵として役使を分担する「廂軍」、戸籍から選抜または募集して訓練し在地の防守に充てる「郷兵」、そしてもう一つ、国初以来塞下に籍を置き藩籬(防塁)の兵として組織された「蕃兵」がある。蕃兵はのち隊伍に編成され旗幟・営塁・器械を備え郷兵に準じる制となったため、本志では熙寧の保甲制の前に置き郷兵に付す。軍政には召募・揀選・廩給・訓練・屯戍・遷補・器甲・馬政の8項目があり、歴朝の因革損益をこれによって見ることができる。
- 三代以来、寓兵於農(兵農一致)の遺意を最もよく継いだのは唐の府衛制だが、府衛が募兵制に変わり藩鎮が強大化して唐は滅んだ。五代の乱亡もことごとく兵に起因する。太祖は戎行より起こって天下を取り、四方の精兵を京畿に集めて宿衛・辺境防備の分番制を敷き、什長の法・階級の別を定めて内外相維持・上下相制の体制を築き、藩鎮の弊を矯めた。咸平以後、太平が続くにつれ武備は緩み、仁宗の代には西方への招兵が過多となり将は驕り兵は惰弱化して国用を消耗し、識者はしばしば改革を求めた。神宗の代、民を編成する保甲制と諸路の将兵制が敷かれ(王安石が主導)、その弊を完全には矯められなかったが一時の士気を鼓舞した。元祐・紹聖は成憲を守ったが、崇寧・大観に額が拡大する一方精鋭を欠き(童貫が主導)靖康の変には無力であった。建炎の南渡では潰兵・群盗を集めて元帥府を開き、当初1万に満たなかった兵は張俊・韓世忠・劉光世・岳飛の指揮で軍威を回復したが、秦檜の和議路線により士気は沈滞。孝宗は北伐を志したが果たせず、光宗・寧宗以降は募兵は多いが領土は縮小し、将を統御する術も、将への過度な制約もあったが、辺境の諸塁はなお忠を尽くし、150年を経て亡んだ。祖宗の深仁厚沢が人心を固結させ、統治の周密さがここにも見て取れる。
禁兵の沿革(建隆~乾道)
- 禁兵とは天子の衛兵であり、殿前・侍衛の二司がこれを統括する。最も親近な扈従は「諸班直」と称し、その次は御前忠佐軍頭司・皇城・騏驥院に総属し京師の守衛と征伐に備えた。京師外にあるものは屯駐・屯泊でなければ就糧軍(現地で糧を得る軍)である。太祖は前代の失敗(藩鎮の強大化)を鑑み、精鋭を京師に集めたが規模は宏大であった。建隆元年(960年)、殿前・侍衛二司にそれぞれ所属兵を検閲させ、驍勇な者を上軍に昇格、老弱怯懦は「剰員」として処遇するよう詔した。諸州長吏には部下兵を都下へ送り禁旅の欠員を補わせ、さらに強壮な兵を選んで「兵様」(規格)を定め、木の棒で高下を示す規格を諸道に頒布し、州軍が召募・教習を行い精練の兵を京師に送る制度を整えた。
- 建隆2年、左右雄捷・左右驍武軍を驍捷に、左右備征を雲騎に、左右平遠を広捷に、左右懐徳を懐順に改称。建隆4年、河東楽平県の帰降兵266人に衣服銭絹を賜り「効順指揮」とした。乾徳2年、遼州の降軍を「効順懐恩」と改称。乾徳3年4月、西川の感化・耀武等軍を虎捷に改称。9月、帝は講武殿で諸道兵を閲兵し1万余人を得て、騎兵を驍雄、歩軍を雄武とし侍衛司に隷属、王継勲に主管させたが、継勲は民の妻女を強奪する不祥事を起こし帝が百人余を斬罪に処した。開宝7年、泰寧軍節度使の李従善の部下と江南水軍あわせて1039人を黥面し「帰化」「帰聖」の額とした。太平興国2年、簇御馬直を簇御龍直に、鉄騎を日騎に、龍捷を龍衛に、控鶴を天武に、虎捷を神衛に、骨朶子直を御龍骨朶子直に、寛衣控鶴を寛衣天武に、雄威を雄勇に、龍騎を雄猛にそれぞれ改称。太平興国8年、濮州平海指揮を崇武に改称。
- 雍熙4年、殿前司日騎驍直指揮を捧日驍直に、日騎を捧日、驍猛を拱辰、雄勇を神勇、上鉄林を殿前司虎翼、腰弩を侍衛歩軍司鉄林(のち侍衛司虎翼)に改称。至道元年、帝が禁兵を閲兵し1石5斗の強弓を20発以上射る者を見て「今の世は材武が出ている」と述べ、数百人の陣容を「殿庭のこの数百人でも見応えがある、まして万を数える陣ならなおさら」と評した。咸平3年、定州等の㕔子・無敵・忠鋭・定塞指揮を禁軍馬軍雲翼指揮に昇格させ(定州・相州・保州・威勇軍・静戎軍・寧邊軍・北平塞・深州の各部隊を雲翼第一~十四に再編)、髙陽関路都総管の統括下に置いた。咸平4年、陝西沿辺の選抜兵を「保捷」として禁軍に昇格。咸平5年正月、広捷兵5指揮を新設、5月には邠寧・環慶・涇原・儀渭・隴・鄜延等州の保安・保毅軍から2万人を選抜し「振武指揮」として各州に営を置いた。6月、河東州兵で神鋭24指揮・神虎10指揮を新設、石州㕔子軍を禁軍に昇格、威虎10指揮を虎翼に隷属。
- 景徳4年、河東の広鋭・神鋭・神虎軍を現有数で定額化。大中祥符元年、侍衛歩軍司の保寧軍士を4等に分け第1等は亳州永城県に移営。大中祥符4年、永安県永安指揮の兵8千余人を諸陵の奉仕に充て、廂軍を「奉先指揮」として禁軍に昇格。大中祥符8年、禁軍左右清衛2指揮を新設(雄武弩手の上位)。仁宗即位後、安粛の教場で飛山雄武軍の発砲を観閲し、捧日天武神衛虎翼の四軍で戦陣法を定め、精鋭を選抜昇進させた。天聖から宝元にかけて諸軍(陝西蕃落・広鋭・河北雲翼・京畿広捷・虎翼・効忠陝西河東・清邊弩手・京西江淮荆湖・帰遠)を増募し百余営に及んだ。
- 康定初、西夏の趙元昊反乱に伴い神捷兵を「万勝」と改称し20営を新設したが、市井からの募兵で質が低下。禁兵の多くは陝西に配置されたが、京師から派遣された兵は困難な任務に不向きで、辺境戦力の増強策として陝西・河北・京東等各地に多数の新軍が設けられた(陝西蕃落保捷定功、河北雲翼有馬勁勇、陝西河北振武、河北京東武衛、陝西京西壮勇、延州青澗、登州澄海弩手等)。慶暦中、外禁廂軍の総数は125万に達し(国初以来最多)、西方の軍事行動終息後に数万人を削減。皇祐2年、川峡に寧遠を増置、皇祐5年、江淮荆湖に教閲忠節を配置。荆湖広南では雄略軍を増募、至和2年、広桂邕州に有馬雄略を配置、翌年万勝を10営に統合。嘉祐4年、東南防備強化のため荆南江寧府揚盧洪潭福州に就糧軍「威果」を募集。
- 嘉祐7年、宰相の韓琦は、祖宗の兵制(有事に募兵・無事に併省)により兵は精強かつ用度も抑えられていたが、当時は辺境の常備軍が過重負担となっていると指摘し、開宝・至道・天禧・慶暦各期の兵数を精査した上で定額を立てるよう建議。中書枢密院の議で、開宝の兵籍総数37万8千(うち禁軍馬歩19万3千)、至道66万6千(禁軍35万8千)、天禧91万2千(禁軍43万2千)、慶暦125万9千(禁軍82万6千)と、募兵が急増していることが判明し、以後は定額制に転じた。
- 英宗即位後、諸道から強弓・彍弩の使い手を選抜し軍額を昇格させ、翌年万勝を神衛に統合、治平3年、京師に雄武第三軍を設置。治平の兵籍総数は116万2千(禁軍馬歩66万3千)であった。神宗熙寧元年12月、京東武衛42指揮を河北都総管司系統に再配置(6指揮は大名府路、36指揮は定州・高陽関両路)、休番時には河北教閲新法で訓練。京東路にも河北流民による廂軍「忠果」20指揮を新設。熙寧3年12月、枢密使の文彦博らが在京開封府界・京東等路の禁軍数を上奏し治平の数と比較検討、殿前虎翼(水軍1指揮を除く)60指揮を各500人・総3万400人に、在京広捷を5指揮2千人増、開封府界6万2千人、京東5万1200人、両浙4千人、江東5200人、江西6800人、湖広8300人、湖北1万2千人、福建4500人、広南東西1200人、川陝三路4400人と定めた。河北のみ突出して多かったため禁軍を7万人を額とし、その他は撥併された。京東の武衛軍は河北四路に分隷し、後に将兵制(将ごとに軍を編成)が始まった。
- 熙寧7年正月、諸将班直禁軍の名額を頒布(殿前司の諸班・殿前指揮使・内殿直・散員・散指揮・散都頭・散祗候・金槍班・東西招箭散直・鈞容直・諸直御龍系・諸軍捧日天武系・契丹直・神騎・広勇・歩闘・龍騎・驍猛・雄勇等、多数の軍号を列挙)。禁軍名額は捧日・天武・龍衛・神衛を上軍、料銭500文以上を中軍、それ未満と一部の軍を下軍とした。元豊5年10月、諸路教閲廂軍にも禁軍と同様の指揮名額配列を導入。熙寧の禁軍籍は56万8688人、元豊の籍は61万2243人であった。
- 哲宗即位後、四方での用兵増加に伴い戍兵が拡大。元祐元年3月、河北路保甲を招いて在京禁軍の欠員を補充(龍神衛は20歳以下、中軍以下は25歳以下)。元祐2年、河北陝西府界の馬歩軍を再整備。元祐7年、河東陝西の帥府に「敢勇」100人を新設。紹聖4年、陝西路に蕃落馬軍を増置、蘭州金城に歩軍保捷・馬軍蕃落を設置。元符元年、利州路興元府閬州に就糧武寧を、湖北江東に有馬雄略を増置。涇原路の新城「西安州」に7千人を額とする戍兵と馬軍蕃落・歩軍保捷を設置、天都・臨羌砦にも各3千人の戍兵と馬軍蕃落・歩軍保捷を配置。永興軍等路に蕃落、河北大名府等22州に馬軍広威・歩軍保捷を新設(河北の水害による流民募集による)。元符2年正月、環慶に敢勇200人増置、環慶路都総管司の建議で定辺城北の横山興平等の城砦に馬軍蕃落・歩軍保捷を増置、慶州白豹城・鄜延路の米脂等8堡砦にも同様に増置。
- 元符3年、河北の馬軍広威・歩軍保捷2万余人を京師の欠員補充に充てた。紹聖以来、陝西河東で連年の用兵が続き、徽宗崇寧元年9月、荆湖北路に「靖安」の禁軍を増置。10月、川陝に「安遠軍」を新設。崇寧3年、隴右都護が鄯州に水軍を新設、枢密院が府界京東西等路の歩軍を増置、荆湖南路の雄略も増置。10月、京東西河東北開封府界に馬歩軍5万人(馬軍は崇捷崇鋭、歩軍は崇武崇威と命名)を新設(緡銭280万余を常平封樁等から支出、蔡京の建議による)。京の兵力少なさを補うため増置策が進められた。崇寧4年11月、広西路に刀牌手3千人を新設。12月、四輔(京師周辺の要地)にそれぞれ2万人を額として設定。崇寧5年、環慶路の城「安辺」に馬軍蕃落・歩軍保捷を配置。大観元年5月、延安に銭監兵を設置、10月、靖州に宣節を設置、11月、両浙東西路に禁軍を増置。宣和3年、内侍制置所の譚稹は、方臘の乱平定後の諸節鎮への禁軍増置や、温処衢婺を除く州に禁軍新設10指揮の増置、厳州に威果禁軍の増置を建議し、いずれも実行された。宣和5年、六軍・羽林の名称整理(「揀中六軍」「六軍指揮」を「広効」に統一、内訳を第一~七指揮に再編)。靖康元年、広西の宜州融州は極辺として馬軍の削減を見合わせた。
- 元豊以降、民兵(保甲)が盛んになるにつれ募兵は衰え、募兵の欠員俸給は民兵教閲の費用に充てられた。元祐以降、民兵も衰退。崇寧・大観の蔡京主導期には逃亡兵の穴埋めに配流刑者を充てるほど兵の質が悪化。政和以後は蒐補(補充)が久しく行われず、老疾の兵が廩給を無駄に費やし、階級・紀律が崩壊。童貫が兵権を握り、敗戦のたびに事実を隠蔽し逃亡が横行、河北の将兵は定数の1~2割しか実在せず、封樁銭(本来の軍費)は上供に流用された。陝右諸路の兵もわずかで、种師道が援軍として京師に率いてきたのはわずか1万5千人。靖康の変では詔が発せられても間に合わなかった。
- 高宗の南渡後、御営司を建てたがまもなく枢密院に統合された。紹興4年、御前五軍を神武軍、御営を神武副軍と改称し枢密院に隷属。紹興5年、祖宗の故事(兵は三衙に隷属)に従い神武中軍を廃し殿前司に統合、以後殿前司の兵権が一元化。乾道元年、殿前兵馬を7万3千人を額と定めた。屯駐大軍は諸将の部曲であり、高宗の元帥府開設以来の諸大将軍は屯地が一定せず(劉光世軍は鎮江・池州・太平、韓世忠軍は江州・江陰、岳飛軍は宜興・蒋山、王彦の「八字軍」は張浚に従い蜀へ、呉玠軍は鳳州・大散関・和尚原に多く駐屯)、当時内外の大軍は合計19万4千余(川陝を除く)。楊沂中が中軍を率い宿衛を統括、江東の劉光世・淮東の韓世忠・湖北の岳飛・湖南の王燮の四軍で計19万1600、いずれも固定の屯地はなかった。
- 紹興11年、范同は諸将の兵権が過大で制御困難だと秦檜に進言、柘皋の戦勝を機に張俊・韓世忠・岳飛を召見、張俊が真っ先に兵権を返上したのを機に三帥の副校がそれぞれ部下を統率する「統制御前軍馬」に再編し、宣撫司を廃止、出師には朝廷の指示を仰ぎ、兵は枢密院に隷属することとなった。四川の大将兵は興州・成州・階州・鳳州・文州・龍州・利州門・金州・洋州・綿州・房州・西和州・大安軍・興元・隆慶・潼州府の14郡に分屯、就糧の体制をとった。乾道末、各州に都統司を置き兵を統括(建康5万、池州1万2千、鎮江4万7千、楚州武鋒軍1万1千、鄂州4万9千、荆南2万、興元1万7千、金州1万1千)。以後屯戍は増減が常なく、統制・統領・正将・副将・準備将の職名だけが確認できる。
- 水軍の制度は南渡後、江淮が辺境となったことで発展した。建炎初、李綱は沿江淮河の帥府に水兵2軍、要郡に1軍、次要郡に中軍を置き、舟楫に長けた者を集めて「凌波楼船軍」と称する軍号を建議、戦艦には海鰍・水哨馬・双車・得勝・十棹・大飛旗捷・防沙平底・水飛馬等の名があった。隆興以後、宝祐・景定にかけて江淮沿いの堡砦が増加し民の負担も増し、咸淳末には広東で蜑丁を戸籍化し閩海の船を徴発するに至り、公私ともに疲弊した。
- 禁軍の将校には、殿前司都指揮使・副都指揮使・都虞候各1名、諸班直都虞候・指揮使・都知・副都知・押班、御龍諸直には各直に都虞候・本直の都虞候・指揮使・副指揮使・都頭・副都頭・十将・将虞候を置いた。馬歩軍には捧日天武左右四廂都指揮使、捧日天武の各都指揮使、各軍の都指揮使・都虞候、各指揮の指揮使・副指揮使、各都の軍使(歩軍は都頭)・副兵馬使(歩軍は副都頭)・十将・将虞候・承局・押官を置いた。以下、諸班直と騎兵歩兵の名額を、建隆以来の制、熙寧以後の制の順に列記し、将兵・水兵の制も判明する範囲で付す。
建隆以来の制:殿前司騎軍
- 殿前指揮使(左右班2):宋初、旧府の親従帯甲の士や諸班軍騎から武芸絶倫の者を選抜。
- 内殿直(左右班4):後周制で軍校・武臣子弟の材勇の者を立てた。別に川班直殿直があり、乾徳3年に平蜀で得た精兵から材貌魁偉で騎射に長けた120人を選抜して立てたが、開宝2年に廃止。
- 散員(左右班4):後周制で諸州の豪傑を招置。散指揮・散都頭・散祗候と合わせ計12班。北面驍騎員僚直や諸軍からも補充。咸平5年、定州路都部署の王起は辺境の強梁の輩(強者)を厚遇して散員に募るよう建議し採用された。
- 散指揮(左右班4)。
- 散都頭(左右班2)。
- 金槍班(左右班2):旧名内直。太平興国初に改称、槍槊の使い手を選抜。
- 東西班(弩手・龍旗直・招箭班含め計12):旧号は東西班承旨。淳化2年、殿前侍東西第一第二の弩手龍旗直班6を帯甲とし、諸班・不帯甲班から増補。東班第二の茶酒班、西班第三第四班は不帯甲で諸軍員使臣や殉職者の子弟を充てた。善く弓を射る者は招箭班とした。
- 散直(左右班4):雍熙4年、諸道募集の藩鎮庁頭軍将や登聞院で武芸を試した者から立てた。咸平元年、諸節度使の従人で御馬小底の騎乗者を増補。
- 鈞容直(班2):太平興国3年、諸軍で音楽に通じ御馬小底の騎乗者から選抜。淳化2年改編。
- 外殿直(班1):諸班衛士の年長者「看班外殿直」に由来。国初は内員僚直もあったが開宝中廃止、太平興国4年の太原征討で得た上軍、天禧4年にこの班へ併合。
- 捧日(并左射・&KR1579;直・弩手・左第五軍、総指揮35、京師33、雍丘鄭各1):旧号小底。後周が鉄騎に改称、太平興国2年に日騎、雍熙4年に今名に改称。左右廂各4軍に分かれ、雍熙3年に槍槊の使い手を&KR1579;直、淳化3年に左射の使い手を左射、咸平5年に天武拱聖驍騎の弩射の使い手を弩手とした。
- 契丹直(3、咸平・許・夀各1):後唐が置いて廃したが、開宝3年に遼人内附の衆で復置、太平興国中も一時復置し廃止。
- 帰明渤海(指揮2、京師):太平興国4年の幽州征討で得た渤海降兵で立てた。
- 拱聖(指揮21、京師):乾徳中、諸州の騎兵を京師に送り「驍雄」として立て、後に「驍猛」、雍熙4年に「拱辰」、まもなく今名に改称。
- 吐渾小底(旧指揮5、治平中2に統合、京師):太平興国4年、太原平定で得た吐渾の子弟や監牧諸軍から充てた。
- 驍騎(指揮23、京師):太平興国4年設置、後に掉搨索兵・左右教駿兵を増置。雍熙4年に殿前司歩闘弩手を驍騎弩手に改称、淳化4年に精鋭を「上驍騎」として上位に置いた。咸平5年に左右廂分割。
- 驍勝(左右指揮各5、京師):咸平3年、教駿驍騎諸軍の備征子弟の材勇者から立てた。
- 寧朔(指揮10、京師・尉氏各3、雍丘・河陽・河陰各1):咸平3年、教駿諸軍の備征兵・外州兵から立てた。
- 龍猛(指揮8、京師):太平興国中、龍騎および諸州部送の招獲群盗のうち材勇の者から立てた。淳化4年、精鋭を「教閲龍猛」として上位に置き、景徳4年、龍騎驍騎兵を増置。
- 飛猛(指揮2):咸平2年、龍猛驍騎兵の子弟の材勇者から立てた。
- 驍猛(指揮4、尉氏3・太康1):旧号驍雄。太平興国中に改称。雍熙4年、拱聖の年長者を拱辰軍に、次点者は驍猛のまま。景徳4年も拱聖の年長者を隷属。
- 神騎(指揮18、雍丘13・咸平5):端拱2年、驍雄の新配人や教駿借事兵から立てた。淳化2年廃止の掉搨索軍を隷属、咸平2年、教駿備征・外州兵で増置。
- 驍雄(指揮4、咸平・陳留各2):太平興国8年、驍猛の中で次点の者を遷して立てた。景徳中、驍騎驍勝寧朔軍の年長者を隷属。
- 吐渾直(指揮3、太原2・潞1):太平興国8年、太原・雲州・河界の吐渾を遷して屯を并州・代州に立てた。雍熙3年、雲朔の帰明吐渾を得て潞州に増設。
- 安慶直(4、太原1・潞3):太平興国4年、雲朔・河東の帰明安慶の民を并州潞州等に遷し土田を与えた。雍熙4年設置。
- 三部落(指揮1、太原):太平興国4年、幽州親征で雲朔応等州の部落を并州に遷して立てた。
- 清朔(指揮4、西京2・許汝各1):太平興国4年、雲朔州の民を内地に遷し自ら馬を備えさせ「家戸馬」の騎兵とした。雍熙4年設置。
- 擒戎(指揮5、西京・許各2・汝1):太平興国4年、雲朔州の民を西京・許・汝等州に遷し土田を与え「家戸馬」とした。端拱2年設置。
- 新安内員僚直(5):端拱2年、成徳軍節度使の田重進が、易州静砦の兵が鎮州に屯していたところ賊に陥落し家を没収されたことから、その軍を宿衛に充てるため設置。後廃止、天聖以後は無し。
- 散祗候(左右班2):天聖以前は無し。
- 歩闘(指揮6、尉氏・太康各1・蔡4):慶暦中に増置。天聖以前は無し。
建隆以来の制:殿前司歩軍
- 御龍直(左右2):旧号「簇御直」。太平興国2年「簇御龍直」に改称、後に今名。
- 御龍骨朶子直(左右2):旧号「骨子直」。太平興国2年「御龍散手直」に改称、後に今名。
- 御龍弓箭直(5):天武諸軍の材貌魁傑な者から充てた。
- 御龍弩直(5)。
- 天武(并寛衣・&KR1579;直・左射、総指揮34、京師23・咸平1)。
- 神勇(上下計21指揮):乾徳中、諸軍の壮実な体格の者を選び「雄威」として立て、太平興国2年「雄勇」、雍熙4年に今名。淳化4年、武芸超絶の者を「上神勇」として擒盗に備えた。
- 宣武(上下計20指揮、京師):太平興国2年、効節・忠猛の二軍を併合して立て、諸軍・郷兵から増員。至道2年、軍頭司歩直の槍槊掉刀の使い手を「殿前歩直」として立てたが後廃止。
- 虎翼:太平興国中、雄武弩手から精鋭を選び「上鉄林」とし、雄武・定遠・寧勝床子弩手・飛山雄武等の軍からも増員。雍熙4年、左右各4軍に分割。淳化4年、精鋭を「上虎翼」として擒盗に備え、咸平2年に広勇軍を併合。大中祥符6年、江淮の水戦に長けた士卒を金明池で訓練し「虎翼水軍」として立てた。旧指揮62、景徳中に6増、京師。
- 雄勇:旧号「雄威」。太平興国2年に改称、雍熙4年「神勇」となり、次点の者を改めて「雄勇」とした。旧指揮5、至和年間に増置。咸平3・鄆2・許鄭滑各1。
- 広徳:開宝4年、広南平定で得た兵を殿前司(次点は八作司)に隷属させた。欠員は広南諸州兵で補充。雍熙3年、八作司の強壮者を「揀中」とした。総指揮10、咸平・尉氏・陽武・河陽・滄・鞏・白波各1、西京3。
- 広勇:淳化2年、神射・鞭箭・雄武・効忠等軍の強壮善射者から「広武」として立て、大中祥符2年に今名。旧指揮23、慶暦中に43へ増置(10指揮ごとに1軍)。京師5・陳留22・咸平・東明・太原・胙城・南京各2・襄邑・陽武・鄆各1・滑3。
- 広捷:旧名「左右平遠」。建隆2年に改称。咸平5年、広徳・神威等軍から標槍旁牌の訓練を加えて補充。旧指揮5、景祐中5増、明道中10増、慶暦36増で総56。陳留8・咸平6・雍丘4・襄邑尉氏許各3・太康扶溝南京亳河陰潁寧陵各2・陳6・滑曹鄧蔡広済穀熟永城襄城葉各1。
- 雄威:雍熙4年、神勇兵の次点者を「神威」として立て、後に今名。指揮10、考城襄邑陳留各1・南京4・陳2。
- 宣威:雍熙4年、神勇宣武兵の次点者から立てた。上下指揮2、咸平襄邑各1。
- 龍騎:建隆年間、諸道の招致兵・捕獲した群盗から立て、有馬の者は歩闘も兼ねた。淳化3年、年長者を「帯甲剰員」とし、咸平以後は龍猛の退兵も増員。旧指揮8、康定中に配隷充軍者で20に増置し3軍に分割。京師4・尉氏雍丘咸平鄭各2・南京陳蔡河陽潁単泗波各1。
- 神射:両浙州兵、旧号「腰弩」。雍熙4年に今名、淳化元年、京師送致の強者を「広武」の次点、残りを本軍とした。指揮5、陳留3・雍丘2。
- 歩闘:雍熙3年、諸州廂軍の壮勇者から立てたが後廃止(この軍と次の鞭箭は天聖以後は無し)。
- 鞭箭:雍熙3年、両浙兵から「鞭箭」を立て次点者を「忠節鞭箭」とした。端拱2年に統合。至道元年、霊州援軍として派遣した際、免死の詔を得たが後廃止。
建隆以来の制:侍衛司騎軍
- 侍衛司は侍衛親軍馬歩軍都指揮使・副都指揮使・都虞候各1名、馬軍・歩軍にもそれぞれ都指揮使・副都指揮使・都虞候各1名を置き、馬歩軍都虞候以上が欠員の場合は馬歩軍都指揮使が兼務、殿前司と合わせ「三司」と称した。馬歩軍には龍衛・神衛の左右四廂都指揮使・都虞候、各指揮に都指揮使・副指揮使を置き、その他は殿前司の制に準じた。
- 員僚直:後周の顕徳中、三関平定で募った強兵と高陽関の馳捷兵から「北面両直」を立てた。建隆初、諸州の騎兵・藩鎮庁頭募集人らで「左三直」、太平興国4年の太原平定で得た騎兵で「右三直」を立てた。北面両直は貝州・冀州に営し高陽関都部署に隷属、大中祥符中「貝州左直」「冀州右直」に改称、後に四直に整理。京師2・思冀各1。
- 龍衛:旧号「護聖」。後周広順中「龍捷」に改称。建隆2年、老兵を除き諸州の精鋭で補充。太平興国2年に左右廂分割、4年の太原平定で得た降兵を「揀中龍衛」とした。雍熙2年、槍槊の使い手を&KR1579;直に、淳化3年、披甲可能な剰員を「帯甲剰員」に、5年、左射の使い手を左射とした。指揮44、京師38・雍丘尉氏河陽各1・澶3。
- 忠猛(指揮1、定州):咸平2年設置。
- 散員(指揮1、定州):咸平5年設置。
- 驍捷:後周顕徳中、三関平定で諸州の壮勇な士卒から「河北驍捷」を立て、宋初は高陽関都部署に隷属。建隆2年、廃止された左右驍武の兵を編入。乾徳中、備征兵や嵐州帰附兵で「河南驍捷」を立てたが、以後は「驍捷」の名に統一。太平興国4年の太原平定の降兵から「揀中驍捷」、淳化4年に「新立驍捷」、至道3年に左右廂分割、咸平5年に年長者を帯甲剰員とした。指揮26、尉氏新立陳揀中各1・恩14・冀10。
- 雲騎:旧号「左右備征」。建隆2年に改称。開宝以後、募集した子弟を雲騎、次点を武騎とし、年長者は帯甲剰員とした。指揮15、京師11・陳留西京各1・鞏2。
- 帰明神武(指揮1、後4に増置、雍丘):太平興国4年の幽州親征で得た降兵で立てた。
- 克勝(指揮2、潞):もと潞州騎兵。端拱初に昇格。
- 驍鋭(指揮4、莫3・冀1):旧名「散員指揮」。咸平4年に改称。
- 驍武:もと河北諸州の忠烈威邊騎射等兵。淳化4年、材の優れた者を雲騎武騎等と共に選抜、馬を自弁させ左右廂分割。指揮20、北京7・眞定3・定6・相懐洺邢各1。
- 広鋭:もと河州の忠烈宣勇軍で社を結び馬を買える者。馬が死ねば官が代替費を補助。至道元年設置。咸平以後、振武兵で増員。老疾者は親族が代役でき、景徳2年に非親族代役も許可、大中祥符5年に年長者は帯甲剰員とした。旧河東指揮31・陝西7、景祐康定中42に増置。太原代并各3・汾5・嵐石嵐岢各2・晉熙慈絳澤隰憲寧化威勝平定火山各1・涇原鄜各2・秦渭環邠寧各1。
- 武清(指揮1、晉):晉州騎兵。端拱2年、北辺での屯戍の労を評価し勇悍の者を昇格。
- 有馬勁勇:咸平4年、江東諸州兵から立てた。慶暦中に第六第七を増置。総指揮7、太原2・代嵐各1・磁3。
- 雲翼:旧指揮33、景祐以後23増置、左右廂総56。眞定雄瀛深趙永寧各3・定冀各6・保5・滄北平永静順安保定各2・莫邢覇各1・広信肅各4。
- 㕔子(指揮6、定1・相5):もと石州城の兵。景徳元年、相州に移営、慶暦初に禁軍昇格。
- 万捷(指揮7、相冀遼各2・滄1):開宝中、趙相滄冀州の民から募集。大中祥符中、驍武雲騎の退兵を隷属。
- 雲捷(指揮12、尉氏咸平西京北京澶各2・汝懐各1):太平興国4年、諸軍応募子弟・教駿借事備征兵の武幹者から立てた。大中祥符5年、寧朔の退兵を隷属。
- 横塞(指揮7、雍丘咸平考城襄邑寧陵各1・衞2):咸平3年、諸軍の威邊騎射兵・在京借事兵から立てた。
- 員僚剰員直:禁軍の員僚で罪により降格した者を充てた(以下騎捷まで6軍は天聖以後は無し)。
- 清塞:後周の立てた指揮2、一つは北蕃帰附の衆で夀州に営し、もう一つは淮南紫金山砦攻略で得た騎軍で延州に営した。宋初、本軍子弟で欠員補充。太平興国3年、泉州両浙兵を追加。
- 飛捷(指揮4):もと威虜軍・保州・易州静塞兵・定州㕔子軍。淳化元年、京師に召して静塞を三等、㕔子を一等として今名に改称。
- 驍駿(指揮1):もと夀州咸聖軍。咸平3年に改称。
- 揀中夏州㕔子(指揮1):もと夏州の家戸。淳化5年、河西行営都部署の李継隆が京師に送って立てた。
- 騎捷(指揮4):もと雍州強人指揮。咸平3年に改称し瀛莫に分営。
- 武騎(指揮11、京師雍丘各1・尉氏3・陳留考城咸平鄭各1・西京2):以下有馬雄略まで12軍は三朝志に記載なし。
- 驍騎(指揮1、太原)。
- 無敵:河北沿辺の廂兵。慶暦2年に禁軍昇格。総指揮6、定北平各2・安粛広信各1。
- 忠鋭(指揮1):広信廂兵で有馬の者。慶暦2年に禁軍昇格。
- 威邊(指揮2、定保各1):諸州廂兵のうち保州のみ教戦射で巡検司に隷属。慶暦初に禁軍昇格。
- 飛騎(指揮2):麟州廂兵。慶暦初に禁軍昇格。
- 威遠(指揮2):府州廂兵、もと胡騎の精鋭。慶暦初に禁軍昇格。
- 克戎(指揮1):并州廂軍で有馬の者。康定中に禁軍昇格。
- 有馬安塞(指揮1):慶州廂軍。慶暦中に禁軍昇格。
- 蕃落:陝西沿辺の廂兵で有馬の者。天禧以後に禁軍昇格し極辺の城砦にことごとく設置。慶暦中の総指揮83。環5・延慶各4・秦并外砦17・原渭并外砦各12・徳順并外砦12・鳳翔涇并外砦儀保安各2・隴外1。
- 并州騎射(指揮1):諸道廂軍のうち并州路のみ有馬で備征役。慶暦5年に禁軍昇格。
- 有馬雄略(指揮3、広桂邕各1):至和2年設置。
建隆以来の制:侍衛司歩軍
- 神衛:後晋では「奉国軍」、後周が「虎捷」に改称。建隆2年、諸州募兵で増補。乾徳3年、西川行営都部署の王全斌が偽署した感化耀武等軍のうち功のあった者を禁旅とし、詔で全て「虎捷」とした。太平興国2年、水戦訓練の部隊を「神衛水軍」とし、剰員から備征可能な者を「揀中神衛」とした。大中祥符後、剰員には帯甲・看倉草場・看船の4等級があり年長者を補充。宋初指揮46、仁宗以後31指揮のみ、京師。
- 歩武:もと郷軍から神勇宣武に選抜された者。雍熙3年、次点者で立てた。慶暦中に6指揮増置、陳。
- 虎翼:宋初は「雄武弩手」と号し、太平興国2年、壮勇な者を「上鉄林」その次を「下鉄林」とした。雍熙4年、左右廂各3軍に分割、咸平5年、威虎軍を隷属、景徳3年、効順兵で補充、大中祥符5年、水戦に優れた者を「上虎翼」、6年、江淮の習水卒を金明池で試験し「虎翼軍」とした(江浙淮南諸州も同様)。7年、「虎翼水軍」に改称。旧指揮75、慶暦中21増置、総96。京師90(うち水軍1)・襄邑東明単各1・長葛2。
- 奉節(指揮5、京師):乾徳3年、平蜀で得た兵で「奉議」を立て、後に今名。景徳3年、「上奉節」を追加設置。
- 武衛:太平興国中、河北諸州兵で募集。旧指揮16、慶暦中に河北で67指揮に増置。南京眞定淄各4・北京澶相邢懐趙棣洺徳祁通利乾寧広済各1・青5・鄆徐兗曹濮沂済単莱濰登淮陽瀛博各2・斉密滄各3。
- 雄武(并雄武弩手・床子弩雄武・揀中雄武・飛山雄武・揀中帰明雄武):総指揮34、京師13・太原尉氏南京鄭汝寧陵各2・咸平東明雍丘襄邑許曹広済穀熟長葛各1。
- 川効忠:太平興国3年、諸州廂兵で京師帰属の者から立てた。淳化4年、川峡威棹克寧兵の京師送致者で「川効忠」を立てた。景徳6年(実際は景徳のち)、徳清廂軍・威遠兵を追加。旧指揮28、後7に削減。南京6・寧陵1。
- 効順(指揮1、襄邑):宋初、潞州征討の降卒で立てた。
- 雄勝(指揮3、峡冀済各1):開宝中、剰員から立てた。太平興国中、上鉄林への選抜者以外はそのまま雄勝剰員とした。
- 揀中雄勇(旧指揮4、後1に削減、襄邑):開宝中、常寧・雄勇・効順等軍の剰員から強者を選び立てた。大中祥符2年、帰遠軍から「新立」を追加選抜。
- 懐勇(指揮3、雍丘2・陳1):開宝4年、京師にいた蜀兵で立てた。
- 威寧(指揮1、許):淳化中、西川の賊帥王小波に脅従した兵の京師帰順者で立てた。咸平元年、散員直で増補。
- 飛虎(指揮3、陳留2・咸平1):もと虎翼広武兵で西川に家族なく駐屯していた者。太平興国中、京師に帰属。
- 懐順(指揮1、覇):もと淮南兵、旧号「懐徳」。建隆2年に改称。
- 帰聖(指揮1、雍丘):開宝7年、李従善配下の兵・水軍で立てた。8年の江南平定でも降兵を増補。
- 順聖(指揮1、鞏):太平興国中、両浙兵の京師送致者で立てた。
- 懐恩(指揮3、荊南2・鄂1):乾徳3年、平蜀で得た軍で立てた。
- 揀中懐愛(旧指揮3、後1に削減、寧陵):もと蜀兵で懐恩と共に立てた。精鋭を「揀中」に選抜。淳化4年、川峡威棹克寧兵の次点者で河漕役の「牽船」も立てた。
- 勇捷(指揮26):太平興国4年の太原征討で左右廂分割、左廂は諸州庫兵、右廂は広済開山兵で補充。襄邑北京澶陳夀汝曹宿各2・咸平西京南京亳寧洪河陰鞏長葛韋城各1。
- 威武(共指揮13):太平興国4年の太原征討で左右廂分割、左廂は江南帰化兵、右廂は両浙順化兵で補充。大中祥符5年、「下威武」を追加。西京河陽鄭鄆澶滑濮通利鞏河陰永城各1・曹2。
- 静戎弩手(指揮4、河陽澶衞通利各1):江南帰化兵・諸州廂兵の壮実者で立てた。
- 平塞弩手(指揮4、咸平亳河陽白波各1):もと両浙順化軍の強壮者から弩手を立て、江浙の官物逋負で窯務徒役に隷属していた者から「揀中平塞」を立てた。
- 新立弩手(指揮1、広済):もと勁勇兵。太平興国中、善く弩を射る者から立てた。
- 忠勇(指揮1、咸都):咸平5年、易州兵で賊を捕らえた者から立てた。
- 寧遠:大中祥符6年、西川の克寧威棹兵から立てた。旧指揮5、皇祐~至和中に8に増置。戎3・遂梓嘉雅江安各1。
- 忠節:太平興国3年、諸州廂軍の強壮者から立てた。淳化4年、川峡威棹克寧兵で「川忠節」を立てた。旧指揮24、後の校閲忠節を合わせ総60。雍丘襄邑寧陵各3・陳留咸平東明亳河陰永城各2・南京5・太康陽武許江寧揚廬宿夀楚眞泗泰滁岳澧池歙信太平饒宣洪虔吉臨江興国広徳長葛各1・合流4。
- 神威:咸平3年、京師諸司庫務兵から立てた。上下指揮13、陳留3・許鞏各2・雍丘考城咸平河陽広済白波各1。
- 帰遠:雍熙3年、王師の北征(飛狐霊丘攻略)で得た降卒から立てた。咸平2年、諸州雑犯兵で増員。旧指揮3、天聖中に16に増置。陳許亳夀宿鄧襄鼎各1・荊南澧潭洪各2。
- 雄略:咸平6年、諸州廂兵・香薬逓鋪兵から立てた。旧指揮15、皇祐5年に25に増置。荊南5・潭4・鼎澧各2・広辰桂各2・許全邵容各1。
- 威猛:咸平3年、諸州廂兵・召募兵から立てた。上申下指揮10、襄邑4・咸平許長葛各2。
- 神鋭:咸平6年、河東兵を検分して立てた。大中祥符5年、本軍・神虎兵の年長者を帯甲剰員とした。指揮26、太原6・潞晉各3・澤汾隰平定各2・代絳忻遼邢威勝各1。
- 神虎:咸平5年、陝西州兵馬から立てた。6年、河東州兵でも立てた(西路河東兵)。指揮26、永興6・鳳翔河中忻晉威勝各2・太原秦延鄜華各1・潞州3。
- 保捷:咸平4年、陝西沿辺の郷丁・保毅を選び昇格。旧指揮45、慶暦中に郷弓手を選抜し総135に増置。永興12・同9・秦8・河中汾涇各7・渭寧耀各6・鳳翔延儀華隴解乾各5・陝原鄜各4・成3・慶鳳坊晉鎮戎各2・環丹商虢階慶成徳順各1。
- 振武:旧指揮40、慶暦後に河北で42、陝西で39に増置、総81。北京澶相懐衞覇莫祁棣趙濵洺保安永寧通利安肅儀各1・眞定定瀛保恩邢深博永静乾寧陵涇各2・延6・邠隴各7・鄜寧各5・磁4・滄原各3。
- 橋道:太平興国3年、諸州廂兵の次点者から立てた。淳化4年、川峡威棹克寧兵で「川橋道」を立てた。総指揮18、襄邑咸平陽武各2・陳留東明尉氏太康西京河陽濮鄆鞏河陰白波寧陵各1。
- 清塞:太平興国初、左右廂を立てた。旧指揮23、嘉祐中に12に統合。曹2・鄭鄆滑通利鞏河陰白波氾水長葛各1。
- 招収:端拱中、通州大沙洲の賊衆を得て立て、欠員は江浙で招致した海賊で補充。端拱中の逃軍帰参者を赦免して「徳寿軍」とし、後に今名に改称、保州巡検司に隷属。慶暦初に禁軍昇格で指揮17。保4・霸信安各3・定鄆城砦各2・広信安粛順安各1。
- 壮勇:もと招獲した群盗を京師近郊の徒役に配した者から拔擢して立てた。咸平3年、諸雑犯兵で増員。至道3年、江浙発運使の楊允恭が捕らえた海賊で増補したが後に廃止。旧指揮3、慶暦中に7に増置。耀解滑各2・許1。
- 宣効:咸平3年、六軍窯務・軍営務・天駟監効役・店宅務の州兵から立てた。景徳元年、材勇者から「揀中宣効」を選抜。旧指揮5、後2に削減、京師。
- 来化:雍熙中、飛狐霊丘の帰附の衆から立て、朔州内附の牽擺兵でも立てたが後廃止。旧指揮3、後2に削減、寧陵。
- 帰恩(指揮2、亳):雍熙中、平塞で陥落した辺境の民を黥面放還して立て、家族の有無で左右廂に分けた。
- 順化(指揮2、河陽鄆各1):太平興国3年、両浙兵の次点者から立てた。
- 左右清衛(指揮2):大中祥符8年設置。諸宮観の掃除役に充てた(以下強壮軍員まで8軍は天聖以後は無し)。
- 川員僚直:もと西蜀の賊全師雄が署した将領。乾徳中に立てた。
- 造船務:乾徳初、荆湖平定で舟楫に長けた者から立てた。
- 帰明羽林:太平興国4年の幽州征討で得た兵で立てた。
- 新立清河(指揮2):もと縁河の鋪兵で河決に備えたもの。後に検閲し直して立てた。
- 保寧:大中祥符元年、馬歩軍都虞候の王超が病軍の中で歴戦の者から立てるよう建議。
- 新立帰化(指揮1):開宝7年、江南の李従善配下の歩曲水軍で立て、8年の江南平定でも降兵を増員。
- 強壮軍員(指揮1):咸平6年設置。
- 澄海弩手(指揮2、登):慶暦2年設置、海州都巡検司に隷属(以下武厳まで13軍)。
- 捉生(指揮2):延州廂兵。天聖5年に禁軍昇格。
- 清邊弩手:宝元初、陝西河東廂軍の屈強な者を選び弩手として設置。指揮43、太原9・秦5・涇4・河中隴各3・永興代潞晉各2・慶環滑同坊鎮戎慈丹隰汾憲各1。
- 制勝:陝西廂兵。慶暦中に禁軍昇格。指揮9、永興華永各2・鳳翔耀同解乾各1。
- 定功:陝西廂軍。慶暦4年に禁軍昇格、指揮10に増置。永興秦慶原渭涇儀鄜延鎮戎各1。
- 清澗(指揮2):慶暦初、現地の精悍な者を募って地名に因み命名。
- 建威(指揮1):秦州廂兵。慶暦8年に禁軍昇格。
- 効勇:景祐中、川峡の流民を募り指揮27に増置。陳留3・太康尉氏襄邑河陽曹合流各2・咸平鄭亳衞許単澶磁広済河陰寧陵白波1。
- 宣毅:慶暦中、京東京西河北河東淮南江南両浙荆湖福建の9路で健勇を募りまたは廂軍から選抜。指揮288、治平中は174に減。京東路(南京鄆徐曹斉各2・青兗密濮沂単済淄莱濰登淮陽広済各1)、京西路(西京滑許河陽陳襄鄭潁蔡汝随信陽各1・鄧2)、河北路(鎮定徳棣博邢祁恩磁深定濵通利永静乾寧各1)、河東路(太原汾各6・晉4・澤絳石代各3・潞嵐忻遼威勝平定各2・慈隰寧化各1)、淮南路(揚亳各2・廬宿夀楚眞泗蘄海舒泰濠和光黄通無為髙郵漣水各1)、江南路(江寧洪虔吉撫袁筠建昌南安各1)、両浙路(杭2・越蘇明湖婺潤温衢常秀処各1)、荆湖路(潭全鼎各3・荊南邵衡永郴道安鄂岳澧復峡帰辰荊門漢陽桂陽各1)、福建路(建2・泉南剣漳汀邵武興化各1)。
- 宣毅牀子弩砲手(指揮1、岢嵐):慶暦中設置。
- 建安(指揮2、府嵐各1):府州廂兵。慶暦2年に禁軍昇格。
- 威果:嘉祐4年設置。指揮25、荊南江寧杭揚廬澤各3・洪越福各2・虔1。
- 武厳(指揮1、京師)。
御前忠佐軍頭司・皇城司ほか
- 御前忠佐軍頭司には馬歩軍都軍頭・副都軍頭、馬軍都軍頭・副都軍頭、歩軍都軍頭・副都軍頭を置き、所轄の散員には副指揮使・軍使・副兵馬使・十将、馬歩直の指揮使以下は殿前司の制に準じた。
- 御前忠佐散員:もと許州の員僚剰員。淳化中、軍頭司散員一班として立てた。五代以来、軍功があっても叙任先のない者は諸校と同じ待遇(健飯都指揮使)とされたが、後には譴責を受けた者が置かれる班となった。大中祥符2年、「散指揮使班」1に改称。
- 馬直(指揮1):雍熙4年設置。
- 歩直(指揮1):端拱元年設置。
- 備軍:1960人。
- 皇城司の親従官(指揮3):太平興国4年、親事官の材勇の者を分けて立て、諸殿の掃除・巡察を担当。
- 入内院子:天聖元年、親事官の年長者から立て、9年、輦官60歳以上の者を選抜、治平2年、定員500人とした。
- 騏驥院の騎御馬直:太平興国2年設置、左右番に分け8年に二直、後に8直に増置。
- 左右教駿(指揮4):旧名「左右備征」。建隆2年に改称。