宋史卷一百八十六 食貨志第一百三十九 食貨十八(商税・市易均輸・互市舶法)
商税の基本制度
- 州県には税務を置き、関鎮にも置くことがあった。大きな務は専任官が監臨し、小さな務は令佐が兼領、都監・監押が共に管掌した。物を携えて通行する者への課税を「過税」といい千銭につき20を算し、居留して売買する者への課税を「住税」といい千銭につき30を算するのが大略の相場だが、名目・税率は地域ごとに一様でなかった。
- 行旅の携行品で課税対象でないものへの箱の捜索は禁じられ、細々とした小商い・嶺南商人の生薬・民の織った縑帛で市販しないものは課税対象外とされた。常税の名目は有司が頒行し役所の壁に掲示して周知させた。課税対象を隠匿し官に発覚した場合は3分の1を没収し半分を捕えた者に与えた。官路を通らない密売は罪とし、官の需要物は10分の1を「抽税」として徴収した。唐の藩鎮以来、五代諸国も財貨掊聚に走り徴税は繁雑を極めたが、宋は帰順国に蠲省(免除)を命じ官吏に煩苛を戒めた。大中祥符6年(1013年)、諸路州軍の農具税を初めて免除。
- 諸州の渡し場には旧来課税があったが、橋に替わっても主者に負担を求める例があり、建隆初、滄・徳・棣・淄・斉・鄆の渡し39か所の課税を廃止。橘園・魚池・水磑・社酒・蓮藕・鵝鴨・螺蚌・柴薪・地鋪・枯牛骨・溉田水利等の税も諸国旧制に由来し、恩赦のたびに廃省された。縁河州県の民船の粟輸送税も開宝3年に廃止(陳州が私に置いた蔡河の鎖による過重徴収も太平興国3年に全廃)。至道元年、江南の溪渡での過重徴収を禁じ、年額5千以下は免除。至道中の歳入税課は400万貫、天禧末には804万貫に増加。
- 天聖以来、財政需要増大に伴い緡銭課税の議もあったが、仁宗は「貨泉の利は天下に流通させるべきで課すべきでない」として退けた。ある日、内出の蜀羅が朱印で汚れていたことから、税務が商人の物帛を汚損しないよう命じた。康定元年、西辺の兵費不足で州県が増税することがあったが朝廷は取り消しを命じ、行者の家族への捜索も禁じた。凶作時は耕牛税を免除、水郷では蒲魚果蓏の税を緩め、渡河する流民の免税も行った。詐り隠す者は告発を許したが、実際の証拠がなければ誣告を防ぐため処罰しなかった。皇祐中の歳課は786万3900緡、嘉祐以後、茶禁を緩めた州県での課税増もあり治平中は60余万増、うち茶税銭は49万8600。
- 熙寧以来、河北河東陝西の三路では租賦を辺境で貿易する民に免税、河北流民の帰農にも免税を適用。熙寧5年、京商税院を提挙市易務に隷属。熙寧7年、国門の税(30銭未満)を数十種免除、外城20門の課息責任を緩和。元豊元年、濱棣滄州の竹木魚果炭箔税(100銭未満)を免除。元豊2年、熙河路の李憲が本路商貨を専断的に榷したことを漕臣蒋之奇が弾劾。導洛通汴司は泗州に堆垜場を設置し官塲を経由させる制を試みたが、翌年、京への水運は自由通行(日用品は免課)とされた。瓊管(海南)は船の丈尺による「格納」課税が実態(金銀物帛など高価品を運ぶ泉福・両浙・湖広船と、米瓦器牛畜など低価品の高化船)に合わず高化商人が海南に来なくなる弊を招き、貴賤に応じた官給文憑制に改められた。
- 元豊6年、京東漕臣の呉居厚は正税7万6千余緡・倍税15万2千余緡の徴収を報告、倍税は免除し正税は分割納入(百千以下3年、以上5年)とした。元祐元年、戸部は在京商税院の元豊8年額(55万2261緡余)を基準とすることを求め、元祐3年は天聖歳課を基準とした。元祐7年、諸路の承買土産税場を廃止。元祐8年、京糶米の力勝税(運送量に応じた税)を一時免除、蘇軾は「法は五穀に課税せず」として天聖の免税制への復帰を求めた。徽宗宣和中も一再、州県災傷を理由に免除。哲宗即位後、導洛物貨場を廃止したが紹聖4年に復活の議があり、結局実施されなかった。
- 元符令で品官の家用品免税を定めたが、建中靖国初、馬牛駝驢騾は対象外とされ、その後の営私牟利により免税の詔が乱発された。宣和2年、宮観寺院・臣僚の家の商販は関津での検査を義務化。元符から建中靖国にかけて蚕織農具耕牛への文憑・免税措置も行われた。宣和4年、諸路の近年の増税分を応奉司に帰属。宣和7年、凶作の年に京・畿内の油炭麺布絮税・力勝銭を免除。靖康元年、都城の物価安定のため一時免税、諸路転運司の恣意的な税額改定を戒め旧法(5年増減の中数を基準とする)への復帰を命じた。
- 高宗建炎元年、貨物の上京輸送を免税、糧草の入京抑税者を処罰、残破州県の竹木磚瓦税を免除、帰正人・両淮復業者の路税も免除。紹興3年、臨安の火災で竹木税を免除。孝宗は高宗の未実施の省罷を推進、臨安の物価安定のため淳熙7年の税を半減。光寧年間もしばしば商税を放免したが、貪吏による私税場の乱立(空舟税・食米酒米への課税・行李の強制捜索・零細取引への濫罰)が横行し「大小法場」と呼ばれる苛政となった。
市易法の展開
- 市易法は漢の平準に倣ったもので、物価の高低を均通させる目的であったが、実際は官府が商賈のごとく牙儈の利を独占する弊を生んだ。熙寧3年、保平軍節度推官の王韶が縁辺市易の説を唱え、官銭を借りて秦鳳路経略司が交子で物貨と交易する策を進言、韶は本路帥司幹当兼領市易事となった。古渭城への移司には李若愚らが戎心を招くとして反対し、文彦博・曾公亮・馮京・韓絳も同調したが、王安石は若愚の懸念を退け、王韶の「連生羌の形勢を張り古渭に軍を建てれば蕃部の帰属と軍費の確保、荒地開拓につながる」との論を支持し、陳升之の反対を押し切った。
- 熙寧5年、内帑の銭帛で京師に市易務を設置。草澤(在野)を称する魏継宗は「物価は富者が奪い貧者に与えられる」との弊を訴え、榷貨務銭で常平市易司を置き通財の官に良賈を求めさせる策を建議。中書は在京市易務官を置き、滞貨の物を平価で買い上げ、官物との交換や貸付(半年で1割、1年で2割の利息)を認め、諸司の物資供給も担わせることとした。呂嘉問が提挙となり内庫銭100万緡・京東路銭87万緡を本銭とした。三司は兼併家の利益独占を防ぐ市易条を求めたが王安石はこれを削除させた。
- 7月、榷貨務を市易西務、市易務を東務とし、在京商税院・雑買務・雑売場を隷属させた。鎮洮軍にも市易司を置き銭帛50万を賜ったが、市易の過度な干渉(氷や梳など細事にまで及ぶ)への批判が起こり、帝が安石に問うと安石は事実を弁解した。以後、諸州の上供物資(藨席黄蘆等60色)も市易務が計直買い上げる制に拡大した。熙寧6年、杭州市易務の利病を検討させ、市易上界の内帑への償還銭20万緡を新たな本銭とし、夔州路転運司には度僧牒500で黔州に市易司を設置。詳定所は諸行に免行銭を課し禄吏費に充てる案を建議、都提挙市易司を新設して諸州市易務を統括させた。
- 熙寧7年、成都市易務の設置をめぐり、馬京が「かつて榷市が王小波の乱を招いた」と警告したが安石は「保市易は乱を招かない」と主張、結局実施され、後に廃止された。3月、権三司使の曽布・翰林学士の呂恵卿に市易事の究明を命じ、布は呂嘉問の過度な利息徴収と兼併行為を指摘したが安石は反論、恵卿と布に共同調査させた。布は行人の訴えと恵卿の姦欺を上奏し「市易の虐は間架税・除陌銭に等しい」と批判。嘉問の茶・塩・紗の投機的取引も問題視された。4月、布は薛向の茶儈への不当処罰も指摘し、帝は憂慮したが安石は恵卿の関与を擁護、事態は紛糾した。
- 帝は「市易は平準の法として民のためのはずが、かえって中下の民を苦しめている」と述べ、法の補正を求めた。馮京は開封祥符県の高利貸的な貸付の弊害を指摘。布と恵卿の対立が続くなか、恵卿が政事に参与すると調査を促し、章惇・曽孝寛に軍器監で布の調査結果を精査させたが、戸部の集計と食い違い、まもなく布は罷免され嘉問と共に地方に出された。魏継宗も罷免。市易の設置には布自身も関与しており、後に嘉問を急に糾弾したのは恵卿との旧怨によるものであった。市易は制度としては存続。
- 熙寧8年、章惇は内蔵銭500万緡を借りて市易司が四路で入中を行う策を建議(実際は200万緡)。呂嘉問が市易提挙に復し、鳳翔・大名・真定府・永興・安肅軍・秦・瀛・定・越・真州にも市易司を設置。9月、市易息銭・市例銭の総収は133万2千余緡と報告された。熙寧10年、上界本銭を700万緡と定め、不足は歳収息で補い、内帑への償還は歳20万緡とした。元豊元年、都提挙の王居卿は貸付に金帛等の抵当を許可(利息毎月1割2厘以内)、貿易目的の投資には期限と業績連動の賞罰を設定。
- 元豊2年、熙河路の李憲は蕃賈の私市による他路への税逃れを問題視し、秦・熙河・岷州・通遠軍の5市易務に牙儈を招致させた。元豊3年、免行月納銭の100未満を免除(対象8654人)。9月、王居卿は市易法の三形態(結保貸請・契要金銀抵当・貿遷物貨)のうち保貸法のみが機能していると報告し、貸付総額を200万緡以内に制限、新規は抵当・貿遷法に限定。元豊4年、経制熙河路の収息は初年41万4626緡、翌年68万4099緡に達した。都提挙の賈青の建議で新旧城外内に4抵当を設置。元豊5年、市易務の負債は3年均分、限内の罰息を免除。開封の負債訴訟について王安礼が罰息免除を建議し帝も同意した。
- 元豊5年8月、饒州景徳鎮に瓷窯博易務を設置。元豊6年、蘭州に市易務を増設。元豊7年、市易下界を榷貨務に改め、諸州の旬ごとの物価報告制度を整備、抵当による市易収息を2分以内とした。5路各10万緡・他路各5万緡を本銭とした。元豊8年、諸鎮砦の市易抵当を廃止、8月には利益の薄い抵当を除き州県市易を全廃した。元祐元年、市易・坊場の浄利銭で官本を超えた分の返済を免除。紹聖4年、三省は熙寧の市易創設の意図が元祐で見失われたとして市易務を復活(利息2分以内、貸付は行わない)。元符3年、市易務を平準務に改称。
- 平準務は官吏費が多く民を騒がせるとして崇寧元年に廃止方針が示され、戸部奏で他司による流用を禁止、崇寧2年に南北両務として再編。崇寧5年、収息が官吏用度を除き千緡以上の郡県は専任官、五百緡以上は場務兼領とした。建炎2年、市易は費用に見合わないとして廃止、収益は左蔵庫に移管(抵当庫は存続)。紹興元年、免行銭・行戸への強制買付を禁止。紹興4年、両浙転運司が婺州に献上炭の特殊な色合いを求めたことを守臣の王居仁が諫め、高宗は「暖を取れば足りる」として取りやめさせた。
- 紹興13年、雷・化・高・融・宜・廉・邕・欽・賀・貴州の免行銭を免除。紹興14年、開州の2県の免行銭を半減。紹興15年、諸路の過剰徴収を擅増税賦法で処罰。紹興17年、免行銭を3分の1免除。紹興19年、南郊赦で免行銭の未納分を全免、以後も恒例化。紹興25年、免行銭を廃止し下行買物での小商人への害を禁止。淳熙元年、市令司を廃止、臨安府とその属県の交易儈保銭を半減。淳熙7年、諸路州県の交易儈保銭も5分の1減。嘉定2年、輦轂之下(都)での買物代金の即日支払いを義務化。嘉定嘉熙3年、官価による買物が実勢の2~3割にしかならず、遷延・胥卒の中間搾取による弊害を臣僚が訴え、官価強制を禁じ実勢価格での取引を命じた。
均輸法
- 均輸の法は天下の貨を通じ、軽重・歛散を制御して交易の便を図る目的であった。熙寧2年(1069年)、制置三司条例司は、諸路の上供に定数があり豊年でも増やせず凶年でも減らせず、遠方は倍以上の輸送費を負担する一方、都では半値で売却する弊があり、富商が利を占めていると指摘。発運使は六路の賦入を統括し茶塩礬酒税を管掌するので、資金を与えて中都の需給を見極め物資を安価な地から調達させれば費用を節減できると建議。詔で発運使の薛向が均輸平準事を領し、内蔵銭500万緡・上供米300万石を賜った。当初は擾民を懸念する声が多かったが、向は官属を自ら選び(劉忱・衞琪・孫珪・張穆之・陳倩)、六路の歳計と中都の需給見積りを整えた。
- 侍御史の劉琦・銭顗は「向は小人で貨泉を利用し変易を任され、商賈の利を奪うだけだ」と批判し貶謫された。条例司検詳文字の蘇轍は、漢武帝期の桑弘羊の均輸策(買賤売貴)を引き「法術が正しくなければ吏が姦を為し民が病む」と警鐘を鳴らし、今回はそれ以上に害が大きいと論じたが、轍も去官となった。知諫院の范純仁は「向は憸巧刻薄で発運使に相応しくない」と批判し諫職を罷免され、諫官の李常も反対、権開封府推官の蘇軾も「均輸は結局商賈と利を争うだけで、官の買値は高く売値は安くなり、商賈の得べき利を奪えない」と論じ、500万緡の支出は回収不能になると警告した。
- しかし帝は安石の説に傾き、薛向は天章閣待制に進み、太常少卿の羅拯を副使とし、手詔で「政事は理財が急務、卿を東南賦入の消息盈虚に任じる」と激励した。だが均輸法は結局完成に至らなかった。
互市・市舶法
- 互市は漢初の南越との関市に始まり、後漢の烏桓・北匈奴・鮮卑、北魏の南陲、隋唐の西北開元令、後唐、高麗・回鶻・黒水など各国の交易慣行を継承した。宋初は周制を継ぎ江南と通市し、乾徳2年(964年)、商旅の渡江を禁じ、建安・漢陽・蘄口に3榷署を置いて交易を統制。開宝3年、建安榷署を揚州に移し、江南の旧榷署は茶貨のみ扱った。開宝4年、広州に市舶司を設置、後に杭・明州にも設置。大食・古邏・闍婆・占城・勃泥・麻逸・三佛齊など諸蕃と、金銀緡銭・鉛錫・雑色帛・瓷器で香薬・犀象・珊瑚・琥珀・珠琲・鑌鉄・鼊皮・瑇瑁・瑪瑙・車渠・水精・蕃布・烏樠蘇木等を交易した。太宗の代、京師にも榷署を置き、広州・交阯・両浙・泉州の官庫以外での貴重品の私売を禁じ、後に珠貝玳瑁犀象鑌鉄鼊皮珊瑚瑪瑙乳香以外の薬は民間交易も許可した。
- 雍熙中、内侍8人を4路に派遣し海南諸蕃商人を招致、市舶司の官券を経ない密貿易は没収とした。淳熙2年、広州市舶は榷貨以外の良品を半分だけ買い上げる制とし、10隻ごとに1隻分を先取りする方式で歳約50余万斤を得た。太平興国初、私貿易は価百銭以上で処罰(15貫以上は黥面・流刑・海島送)。淳化5年、4貫以上は徒1年、20貫以上は黥面・配役に強化。天聖以来、象犀珠玉香薬等が府庫に満ち、余剰を金帛芻粟に交換して財政を助けた。皇祐中の総歳入(象犀珠玉香薬類)は53万余、治平中はさらに10万増加。
- 熙寧5年、発運使の薛向に泉州への市舶司設置(舶商の利益は東南の重要な財源との認識)を検討させ、熙寧7年、風で漂着した舶船を近地の市舶司で処理する制度を整備。広州市舶の課入不足(歳20万緡)は市易司の干渉が原因とされ、提挙司に調査させた。市易務の呂邈が舶司の蕃商物を横領した事件も摘発。熙寧9年、集賢殿修撰の程師孟は杭明州市舶を廃し広州に一本化する案を建議、三司と協議させた。同年、杭明広の3市舶司の収入は銭糧銀香薬等54万170余(単位混在)、支出23万8千余であった。
- 元豊2年、高麗渡航商人で貲産5千緡以上の者を明州が名簿登録・保結させる法を整備(私販禁止だが根絶できないため通商を公認しつつ規制)。元豊3年、広州市舶の条約を整備し、広東(転運使孫迴)・広西(陳倩)・両浙(副使周直孺)・福建(判官王子京)に分担させ、広東帥臣の市舶兼領を廃止。元豊5年、広西漕臣の呉潜は雷化州と瓊島(海南)の距離が広州市舶司まで5千里に及ぶことから、瓊州瀕海の土着商人には広州への引取得を免除する案を建議。知密州の范鍔は板橋(密州)が二広福建淮浙・京東河北河東の商賈の集散地であるとして、本州に市舶司、板橋鎮に抽觧務の設置を建議。
- 元豊6年、都転運使の呉居厚に検討させ、元祐3年、鍔らは広南福建淮浙の商人が京東河北河東へ運ぶ物資に象犀乳香等の禁榷品の隠匿が絶えないとして板橋市舶法の実施を再提案し、密州板橋市舶司が置かれた(前年には泉州にも市舶司増設)。海路で外国へ赴く商人には物貨の名数・行先を報告させ、兵器の携行を禁じ官許券を発行、無許可の海路航行や高麗・新羅・登莱州境への渡航には徒刑以上の罰を科した。崇寧元年、杭明市舶司を旧額で復活。崇寧3年、蕃商の他郡渡航には舶司の券を必要とした。広南舶司の申請により、大食等諸国商人が広州以外の福建両浙へ渡航する際は広南舶司が防船兵仗を給し、諸国への赴任と同様の手続きとした。広南舶司の物貨取引は利息2分以内とされた。政和3年、知州通判・舶司使臣らの蕃商香薬禁物の直接取引を禁止。宣和元年、秀州の青龍江浦開修に伴い舶船が集まったため監官を再設置(政和中に華亭県に置かれた後、江浦の埋没で一時廃されていた)。宣和4年、蕃国進奉物は現地の舶司が売却し京師への輸送を禁じた。
契丹・西夏との互市
- 契丹とは太祖の代、辺境での市易を認めたが官署はなかった。太平興国2年、鎮・易・雄・覇・滄州に榷務を設置し、香薬犀象・茶を輦送して交易したが、范陽の戦役以後は一時通商を停止。雍熙3年、河北商民との貿易を禁じた(累年の軍事行動で民が疲弊していたため)。端拱元年(988年)、太宗は「幽薊の民も我が赤子」として辺境の互市を許す詔を出したが、まもなく再禁止(北界商旅の内地侵入者は捕斬)。淳化2年、雄・霸州・静戎軍・代州鴈門砦に榷署を置き旧制に戻し、蘇木を追加したが後に廃止。咸平5年、契丹の再開請求は「翻覆(裏切り)を懸念」して当初拒否したが、知雄州の何承矩の建議で雄州に置くことを許した。咸平6年、廃止。
- 景徳初、和平回復に伴い新城での貿易を許可。景徳2年、雄・霸州・安肅軍に3榷場を設置、都官員外郎の孔揆らを派遣して物価を協議、広信軍にも場を増設。景徳3年、九経書疏以外の書籍の榷場持ち出しを禁止。官の交易品には繒帛漆器秔糯を追加し、銀銭布羊馬橐駝で歳4十余万を得た。天聖中、知雄州の張昭遠が入中金銭の増額を求めたが、仁宗は「先朝の互市は有無を通じるためであり利を計るためではない」として認めなかった。仁宗英宗の代を通じ契丹との和平は保たれ互市は続いた。熙寧8年、市易司が象犀珠を榷場交易に投入。熙寧9年、化外人との私貿易への罰則法を制定。河北四榷場は治平4年以来三司の催轄司に属したが、私販の増加により専管とした。元豊元年、書籍の北界持ち出し禁止を再確認。
- 西夏とは景徳4年、保安軍に榷場を設置し繒帛羅綺で駝馬牛羊玉氈毯甘草を、香薬瓷漆器薑桂等で蜜蠟麝臍毛褐羱羚角硇砂柴胡蓯蓉紅花翎毛を交易(官の取引以外は民間交易を許可)。天聖中、陝西に榷場を2か所、并代路にも設置。元昊の反乱で互市を断ち保安軍榷場を廃止、并辺の主兵官と属羌の交易も禁止。元昊の帰順後、慶暦6年、保安・鎮戎二軍に場を再設置したが放牧地不足で保安軍を順寧砦に移設、蕃商が来なくなった。嘉祐初、屈野河地の侵耕をめぐり知并州の龎籍は互市停止による圧力策を建議、実行された。治平4年、河東経略司が和市再開を求めたが、慶州大順城攻撃を受け一時停止、後に復活。以後も断続的に禁止・再開を繰り返した。
- 楚蜀南粤の蛮獠溪峒や西州沿辺の羌戎とも通市を許した。熙寧3年、王韶が秦鳳路古渭砦に市易司を設置、熙寧6年、蘭州に増設し、熙河蘭湟慶渭延等州にも折博務を、湖北路・沅錦黔江口・蜀の黎雅州にも博易場を設置。重和元年、燕瑛の建議で交趾(ベトナム)人との貿易を継続、欽廉州に駅を設けて交人が博買する制とした。建炎4年、大食国の進珠玉に対し、高宗は「大観宣和の川茶が馬でなく珠玉に費やされ武備が疎かになった」ことを戒め、受領を控えさせた。同年6月、宜州の朱砂歳市2万両を廃止。紹興3年、邕州の大理国朝貢申請に対し馬売買のみ許可し朝貢は認めなかった。紹興4年、川陝の永興軍威茂州に博易場を設置、広西買馬司を邕管に移設。紹興6年、大理国の象馬献上に対し馬の代価のみ支払い象は受領せず。
- 紹興12年、盱眙軍に榷場を設置し北商と交易、淮西京西陝西にも同様の榷場を設置。紹興19年、国信所博易を廃止。紹興26年、廉州の貢珠(廉州近海の珠池)を廃止(蜑丁が採取に苦しみ大魚の害も受けていたため)。紹興29年、盱眙軍榷場のみ存続し他は廃止。乾道元年、襄陽鄧城鎮・寿春花靨鎮・光州光山県中渡市に榷場を設置。乾道5年、提轄官を廃止。淳熙2年、溪峒縁辺州県にも博易場を設置。淳熙7年、黎州での塞外諸戎の珠玉密貿易を廃し、商賈百姓の自由な収買に委ねた。建炎元年、市舶での無用な奢侈品(篤耨香・環・瑪瑙・猫児眼睛等)の博買を禁じ、宣賜品(象笏犀帯)以外の輸出も制限した(1婆蘭=300斤、独檣船1000婆蘭、牛頭船333婆蘭、木舶はさらにその3分の1)。
- 隆興2年、臣僚は熙寧の市舶創設以来の抽解(輸入税)の緩やかさが失われ、犀角象歯の抽解が10分の2、博買がさらに4分に達し、舶戸は麁色雑貨のみ買うようになったとして、10分の1に減らし博買を廃するよう求めた。乾道2年、両浙路提挙を廃し守倅・知県・監官の共同管理・転運司の督導に改めた。乾道3年、風水災害で破船した場合の抽解免除を規定。乾道7年、現任官の商人への資金貸付や蕃商への不法な買付けを禁じた。旧法では細色綱(龍脳珠等)は5千両、麁色綱(犀象紫礦乳檀香等)は1万斤を1綱とし、綱ごとに衙前1名を派遣、大観以後は象犀紫礦も細色に格上げされ32綱に細分化されて経費が増大した。乾道7年、広南の麁色香薬は綱ごとに2万斤・加耗600斤とし水脚銭を定めた。淳熙2年、福建広南市舶の麁細物貨を各5万斤で全綱とした。
- 南渡後、三路(福建広南両浙)の市舶収入は少なくなかったが、金銀銅鉄の海運での紛失と特に銅銭の流出が甚だしく、法禁を厳しくしても姦巧はますます巧妙化し、商人は利に走り官吏は賄賂を受けて黙認するため、その弊は絶えることがなかった。