宋史卷一百八十四 食貨志第一百三十七 食貨下六(茶下)

天聖~嘉祐:貼射法から通商法への転換(東南茶)

  • 天聖3年(1025年)8月、翰林侍講学士の孫奭らに茶政の利害を検討させた。孫奭らは、十三場に売れ残った茶が613万余斤に達していると報告。貼射法(商人が直接園戸から質の良い茶を買い付ける制度)では良質な茶はすべて商人の手に渡り、官に入るのは粗悪品ばかりで売れない。歳課を納められない園戸は商人同様に利息を課され、貧弱な園戸は困窮し、姦人が貼射を名目に強制売買して官の利を侵している、と指摘した。
  • 10月、貼射法を廃止し、官が本銭を出して茶を買い上げる旧法に復した。孫奭らはさらに商人優遇策(京師で海州・荊南茶を売る者は代金を7万7千に、真州等四務十三場の茶を売る者は代金を10万に減額)を求め、これにより河北の入中(辺境供給の代価)は三説法(銭・布帛・茶での支給)に戻り、東南の緡銭給付は京師榷貨務の銭で償うこととなった。
  • 李諮らは天聖2年の増減数の食い違いを指摘され、張士遜らに調査させた。夷簡(李諮)は、天聖初め環慶等路の兵糧不足で京師の府庫が乏しかったが、変法後は京師の蓄銭が増え辺境の軍需も滞らなくなったと弁明した。三司の数字は照合が難しく、士遜らは処罰・降格された。天聖4年、太湖等九場の逋息銭13万緡が免除された。
  • 孫奭らの改制後、茶法は次第に壊れ、景祐年間、三司使の孫居中は天聖3年変法以来の河北入中虚估の弊害が乾興以前に戻ったと述べ、見銭法の復活を求めた。景祐3年、河北転運使の楊偕も三説法の十二害・見銭法の十二利を論じ、諮と参知政事の蔡齊らに合議させた。3月、諮らは河北入中虚估を廃し、実銭で芻粟(飼料・穀物)を償い、天聖元年の制に戻すことを求めた。北商が京師で券を換金する際に交引鋪の保証と三司の符験を要した従来手続きも簡略化した。
  • 諮らは入銭額を天聖3年基準から千余減じ、入中の増額も天聖元年基準に300加えることとした。天聖4年に許した陝西入中(1銭10万ごとに東南で茶10万1千を給する)は商人が争って券を求め京師での納銭が滞ったため、これを禁じた。天聖9年~景祐2年の5年間で河北入中の虚費は緡銭568万に及んだといい、旧法復帰にあたっては予め商人・権貴に周知するよう求めた。
  • その後も上書する者が変法の弊害を訴え、宝元元年(1038年)、御史中丞張観らに議させた。景祐3年基準からさらに減額し、京師での納銭は6万5千、河北入中は6万4千となった。康定元年(1040年)、三司使葉清臣は河北穀価の下落を機に三説法の募集拡大を提案し、東南鹽で京師の実銭を代替した。慶暦2年(1042年)も同様の募集を行い、慶暦8年、三司塩鉄判官董沔が三説法復活を求め、榷貨務の緡銭収支の悪化(慶暦7年収819万・支276万)を理由に茶塩香薬の四説法が始まった。三説・四説が並行し、茶法は再び乱れ、芻粟の代価は虚估が8割を占め、京師で茶の実質価格が額面の3割程度まで下落。三司は貼買法(券額10万を市価3千の6千と評価し直し、さらに4万4千を追加して5万で茶を渡す)を試みたが効果薄く、皇祐2年(1050年)、知定州の韓琦らが弊害を訴えた。三司の集計では改法以来、穀228万余石・芻56万余圍を得るのに緡銭195万余を要し、茶塩香薬でも1295万余を費やしたが、榷貨務の歳課は500万緡に満たず、券の実質価値は下落する一方であった。
  • 見銭法復活の詔(嘉祐以前の景祐3年約束に基づく)が下され、内蔵庫から100万の銭帛を三司に賜った。しかし京師の蓄銭は乏しく、商人は券を持ちながら換金できず、蓄財家に安値で売り渡していた。范鎮の反対で内蔵庫による安値買い上げ策は撤回された。至和3年(1056年)、河北提挙糴便糧草の薛向が並辺17州軍の歳計(粟180万石=銭160万緡、豆65万石、芻370万圍)を見積り、租賦分50万を除いた残りを商人入中に委ねる案を提示し、京輦の銭帛で河北の和糴を行う策も楊察により実施された(絹40万匹=緡銭70万等)。数年後、輦運の煩雑さが問題となり、韓絳らが改めて審議した結果、輦運費は官給、税絹の見銭折変は停止、芻豆の虚估は改めるなど微修正にとどまり、茶法は辺境糴買から切り離され、通商論が起こった。
  • 私茶・臘茶の禁は厳しく、告発には賞が与えられたが、規制が細かいほど違反も増え、園戸は困窮し破産・逃亡する者が絶えなかった。至和年間の歳市茶量は淮南422万余斤・江南375万余斤・両浙23万余斤・荊湖206万余斤・福建79万余斤(天聖末50万斤から増額)で、歳収167万2千余緡にとどまり、官の得るところはわずかだった。景祐中、葉清臣は上疏し、榷茶の利益は薄く園戸を苦しめるばかりで、通商にすれば税収だけで数倍になると論じた(景祐元年、天下の戸1029万6565・丁2620万5441を基に試算し、榷茶の利は90余万緡にとどまるが通商税なら170余万緡、口賦を加えれば210余万緡になるとした)。嘉祐年間、著作佐郎の何鬲、三班奉職の王嘉麟、淮南転運副使の沈立らも通商論を上書し、富弼・韓琦・曾公亮ら執政も賛同、嘉祐3年9月、韓絳・陳升之・呂景初に議させた。10月、三司は茶課の実収不振(嘉祐2年128万、実質86万+虚数39万)を報告し、通商への転換を提案。嘉祐4年2月の詔で、唐代建中以来200年続いた茶禁を廃し(臘茶のみ禁を存続)、旧三司歳課を茶戸に均等賦課する租銭制(緡銭68万余→半減し33万8千余、租銭と呼ぶ)を定めた。
  • 学士の劉敞・欧陽修はこの新法を批判した。敞は、かつて官から銭を受けていた百姓が今は官に銭を納める側に転じ、利害が逆転したと論じ、修も「一利五害」と評した。治平中の統計では臘茶48万9千余斤・散茶25万5千余斤、茶戸租銭32万9855緡、儲本銭47万4321緡、内外総入茶税銭49万8600緡であった。

熙寧~崇寧:四川茶の榷茶化

  • 熙寧4年(1071年)、神宗と大臣らが往時の茶法の弊害を論じ、王韶が開湟(河湟開拓)策を建議、経略を委ねられた。熙寧7年、三司幹当公事の李杞が四川に入り、秦鳳・煕河での買茶・博馬を計画。王韶は西方の異民族が茶を強く求めていると述べ、水陸で茶を運び、銀10万両・帛2万5千・度僧牒500を投じ、著作佐郎の蒲宗閔が事務を分担した。もと蜀の茶園は民の両税地で、五穀を植えず茶のみを産し、税は銭・紬絹・綿・草に折変されていた(総額30万)。李杞の経営で歳増息40万となったが禁榷を強化した結果、輸送の際に目方を偽り価格を圧迫する弊害が起きた。
  • 熙寧8年、李杞は病により去り、その後は彭州・漢州で歳々布10万匹を購入して脚費を布息で補う策や、都官郎中劉佐による解塩10万席の交易案などが試みられたが、いずれも積滞し、蒲宗閔は茶息を三割徴収して官場に全売させる強硬策(私交易は徒刑・没収)をとり、蜀茶は完全に官の統制下に入った。熙寧10年、知彭州の呂陶は、川峡の産茶量は東南の十分の一にも及ばぬのに禁地とされ体制を損なっていると批判、劉佐・李杞・蒲宗閔らの三割息強要を非難した。詔により息を一割に減じ、佐は罷免、国子博士の李稷が代わった。陶も罪を得た。
  • 李稷は三司判官を兼ね、州郡に越権を許さぬ体制を敷き、茶価の中値を定めて課額・賞罰を設定、三路三十六場の使臣を無制限に置き、園戸の黄花秋葉茶採造を厳禁した。蒲宗閔も同様に権限強化を求め、両者とも利を貪り苛烈を極めた。熙寧10年冬から茶法を推行し、元豊元年(1078年)秋までの1年で課利・旧界息税は76万7060余緡に達し、帝は李稷を重用しようとしたが、元豊5年、李稷は永楽城で戦死し、陸師閔が代わった。
  • 師閔によれば、李稷の5年間で百費を除いた純益は428万余緡に達したといい、帝は田10頃を賜った。師閔の榨取はさらに厳しく、階州・文州の茶法の不統一を利用して文龍二州の禁榷化を建議、羨余茶を陝西で売却する博売都茶場を成都府に設置した。羣牧判官の郭茂恂が茶馬連携を建議し、師閔が買馬司の茶場兼領を求めたが、のち茶馬分離となり、都大提挙茶場は転運使と同格、管幹は転運判官と同格に位置づけられた。李杞以来、熙寧7年~元豊8年の間に、蜀道の茶場は41、京西路金州は6場、陝西の売茶場は332に達し、税息は李稷代で50万、師閔代で100万に増えた。
  • 元祐元年(1086年)、侍御史の劉摯は上疏し、蜀茶は数十州の民の生計であるのに茶司が全て官買し、園戸の負担が過重で、逃亡・自殺する者が相次ぎ、その害は隣保にも及んでいると訴えた。右司諫の蘇轍も呂陶の茶法改革(長引による民の自由販売、緡ごとに長引銭100)を継続すべきと述べ、孫迴・李稷の時代の苛政(銭800で茶40斤を私買しただけで徒1年・賞3万という過酷な処罰)を批判し、陸師閔の不法を弾劾した。詔により師閔は罷免。師閔の専断的な茶事管轄も見直され、蒲宗孟も李稷への迎合を理由に罷免された。
  • 明年、熙河・秦鳳・涇原三路の茶は官が引き続き計画し、永興・鄜延・環慶は通商とされた。7年、成都等路茶事司は300万緡を額とした。紹聖元年(1094年)、陸師閔が都大提挙成都等路茶事に復し、陝西も再び禁榷に戻った。師閔は龍州を禁茶地とし、茶法はすべて元豊の旧条に従うとした。師閔の復任後は以前ほど苛烈ではなかった。

神宗哲宗朝の東南諸路茶税

  • 神宗・哲宗朝、東南諸路の茶には大きな改革はなかった。熙寧8年、都提挙市易司の歳買商茶額は300万斤とされた。元祐5年、六路茶税租銭の制度が立てられ、諸州通判・転運司が月々・年末に集計比較した。元祐7年、茶は提刑司税務に隷属し雑税に混入させないこととした。紹聖4年、戸部は商旅茶税の分限(治平の条制で5分)を守るよう命じ、元祐中に期限を延長していた慣行(茶税歳計70万緡、10年間未検察)を改め、内外に官を派遣して1年で検算させた。

崇寧の茶法改革(蔡京)

  • 崇寧元年(1102年)、右僕射の蔡京は、祖宗以来の禁榷法による歳収純益はかつて320余万貫(盛時は500余万緡)に達したが、慶暦以後は法制が壊れて私販が横行し、通商法に転じてから40余年で利源を失ったと論じた。荊湖・江淮・両浙・福建の七路は禁榷を復活して官買とし、産茶州郡には場を置いて商人・園戸の私易を禁じる一方、園戸には租税を旧来通り折変させ、産茶州軍の民には場に出して息を輸し短引で近隣に販売することを許し、それ以外は榷貨務で金銀緡銭を納めて長引を受け指定州軍で売る制とした。買茶本銭は度牒・末塩鈔等と諸色封樁銭・坊場常平余銭合計300万緡を財源とし、諸路に措置官を置いて実施させた。措置茶事官は湖南(潭州)・湖北(荊南)・淮南(揚州)・両浙(蘇州)・江東(江寧府)・江西(洪州)に設置され、蘄州・寿州(霍山・開順)・光州(光山・固始)・舒州・黄州(麻城)・廬州(舒城)・常州(宜興)・湖州・睦州・婺州・処州・蘇州・杭州・越州(上虞・余姚・諸暨・新昌・剡県)・衢州・台州・温州(平陽)に場が置かれた。制度は細目に及び、崇寧4年、蔡京は再び改革し官営場を廃して商旅が各地州県・京師で長短引を受け園戸から直接買い付ける制に改め、抽盤(検査)を経て輸息後に販売する仕組みとした。

大観~政和の茶法変遷(合同場法)

  • 大観元年(1107年)、提挙茶事司に各路の茶の品質・価格差を勘案させ、短引の期限を距離に応じ三等に分けることとした。同13年(誤伝、実際は数年経過)には七路一歳の息が125万1900余緡、榷貨務の再歳収が118万5千余緡に達したが、蔡京の専断で私奉に流用され、盗販も横行した。政和2年(1112年)、大幅な茶法改定を行い、長引再行者は緡銭100(陝西向けはさらに20増)、短引は緡銭20で茶25斤とし、私造引には四川の銭引法に準じた罰則を設けた。籠篰(茶を詰める容器)は官製とし、封印を厳格化。長短引の斤数不正には新規購入を義務づける「合同場法」を定め、産茶州軍に場を置き、都茶場が簿冊を管理した。違反への罰則(徒刑・流刑・賞銭百万)も細かく定められた。重和元年(1118年)、客販の輸税検査による扰民が問題となり一時免除されたが、まもなく復した。
  • 茶塩の法は蔡京の主導で頻繁に改変され、民は混乱した。園戸の登録制、斤数制限、新旧引の切り替えなど細則が次々に変更され、陝西は蜀茶から東南茶取扱いへ転換(崇寧2年)、政和年間には没官茶の処分方法も二転三転した。邠州通判の張益謙は、陝西が非産茶地なのに10年間額面を上回る増収を求められ続け、県が課役に苦しみ商人に不当な高値を強いていると訴えたが容れられなかった。茶法改定以来、政和6年までの収息は1000万緡、茶の増産は1281万5100余斤に達したが、方臘の乱を機に比較(業績評価)は一時停止された。靖康元年(1126年)、川茶が客茶の地を侵す場合の罪の軽重を定める詔が出された。

福建建州の臘茶

  • 熙寧5年(1072年)、福建茶の陳積を理由に、京東西・淮南・陝西・河東での禁榷を続け、他路は通商とした。元豊7年、福建転運副使の王子京は、建州臘茶はもと榷法があったが熙寧に通商に転じて以来、客茶が良質で官の得る常茶税は微々たるものになったと述べ、榷法復活を建議(建州の歳出茶は300万斤下、南剣州も20余万斤)。官買のうえ場で厳しく告賞を設け、豊国監銭10万緡を本銭とする案が採用され、王子京(福建)・許懋(両浙)・杜偉(江東)・朱彦博(江西)・高鏄(広東)が提挙となったが、子京は民への割当てを免れなかった。哲宗即位後、御史の安惇が子京の抑配を弾劾し、罷免。福建の禁榷州軍は旧に戻して残りは通商とした。崇寧2年、建州・剣州の茶額70余万斤に対し本銭不足のため度牒400を追加給付。重和元年、福建末茶の斤重が改定された。

水磨茶(元豊~政和)

  • 元豊中、汴河堤岸都提挙の宋用臣が水磨(茶を挽く水車設備)の設置を建議し、京師の茶戸が私に末茶を挽くことを禁じ、官設の水磨で挽かせた。元豊末の歳得息は20万に満たず商旅が苦しんだ。元祐初、罷止が議されたが戸部侍郎の李定が反対し存続。紹聖初、章惇らが復活を主導し、孫迴が提挙、汴河堤岸を兼領した。紹聖4年、場官の銭景逢は息16万余緡、呂安中は21万余緡を得た。元符元年、私末茶・雑和茶の摘発規定が定められた。崇寧2年、提挙京城茶場所の奏によれば紹聖の復興以来歳収26万余緡、崇寧4年には長葛等の水磨を260余所増設。政和元年、京城所は商旅の茶を京住売りとする者は江から汴へ入れることを許した。政和4年、収息400万貫余に達し、旧の3倍となり、月ごとの上納(月進)が始まった。

南宋:建炎以降の東南茶法

  • 高宗建炎初、真州で鈔を印刷し東南の茶塩を売り出した。当時の東南産茶地は浙東西・江東西・湖南北・福建・淮南・広東西の10路66県242か所に及び、霅川顧渚の紫笋、毗陵の陽羨、紹興の日鋳、婺源の謝源、隆興の黄龍双井などが絶品とされた。建炎3年、行在に都茶場を置き合同場18を廃止、洪・江・興国・潭・建の5州だけに場を1つずつ残した。食茶の小引を捕らえる法は私塩の捕法に準じた。紹興21年、秦檜らが茶塩法を完成させ上奏した。孝宗隆興2年、淮東宣諭の銭端礼は商販の長引茶の水路・陸路の輸送範囲や、淮北榷場での翻引銭の規定を定めた。乾道2年、戸部は淮北榷場での折博について翻引銭・通貨儈息銭を規定、乾道8年に減額。淳熙2年、長短茶引を統合改定した。光宗紹熙初、漳州守臣の朱熹は属邑の科茶(過剰徴収)7000余緡を免除するよう上奏、戸部は会子(紙幣)での納入を認めた。寧宗嘉泰4年、知隆興府の韓邈は、隆興府では分寧県のみが産茶地なのに豪民が他県にも茶租を強要している弊害を訴え、非産茶県での擅認茶租を禁じた。
  • 建寧の臘茶は北苑のものが第一とされ、社前・火前・雨前の等級があり、太平興国以来精巧化が進み胯式(型)も多様化した。歳貢の片茶は21万6千斤に及んだが、建炎年間の兵乱(葉濃・楊勍の乱)で園丁が離散し一時中止。紹興2年、未納の大龍鳳茶1728斤を免除、紹興5年、大龍鳳・京鋌茶を半減。紹興12年、榷場開設により臘茶を榷場本銭とし、上供の龍鳳・京鋌茶の製作費・包装費は漕司が担当することとなった。

南宋:四川の茶馬貿易(趙開の隔槽法)

  • 蜀茶のうち品質の劣るものは南方産の下位に位置づけられたが、広漢の趙坡、合州の水南、峨眉の白牙、雅安の蒙頂は地元で珍重された。産量は少なく江南・建州には及ばない。もと榷禁はなかったが熙寧年間に提挙司を置き歳課30万を収め、元豊中には累増して100万に達した。建炎元年、成都転運判官の趙開は榷茶買馬の五害を指摘し、嘉祐の故事に倣って榷茶を廃すよう建議、開自身が川秦茶馬を主管することとなった。建炎2年、開は成都で大改革を行い、蔡京の都茶場法に倣い、園戸が茶百斤を一大引として引を発行(除外10斤)、合同場を置いて出入りを監督し、私商の禁を強化、茶市を開いて交易を通じさせた。引銭は春70・夏50、市利頭子銭は別途とされ、通過税は1銭ずつ課された。以後引息銭は105万緡に達した。乾道末年、青羌の乱を機に細馬購入名目の増税(歳30万)が課された。
  • 淳熙6年以降、園戸の重額銭16万・引息銭16万が減じられ、紹熙初、楊輔が使となり、成都府・利州路23場で歳産茶2102万斤、博馬物帛の歳収249万3千余緡、朝廷は113万緡を総領所に隷して軍需に充てる制度を確立した。乾道以後の実際の分配は1~20万緡にとどまり、淳熙10年に50万緡を基準とした。熙豊以来、茶司の官権は他司を凌駕していた。元豊、川秦茶場開設時、園戸は二税に加え土産税・隆安県の追加課税を負担、建炎元年に額として固定され、寧宗慶元初にようやく廃止された。慶元6年、四川産茶地には経総制頭子銭5041道余、租銭3140道余が課された。
  • 宋初、蜀茶により互市を原・渭・徳順の三郡に置き蕃夷の馬と交易した。熙寧年間、熙河・南渡以来の文・黎・珍・敘・南平・長寧・階・和の8場も加わり、盧甘蕃馬は歳1回、洮州蕃馬は月1~2回、畳州蕃馬は半年~3か月に1回来場し、いずれも良馬であった。紹興24年、黎州・雅州碉門・霊犀砦の易馬場を復活。乾道初、川秦8場の馬額は9千余匹、淳熙以来は1万2994匹を額としたが、以後この額に達したことはなかった。