宋史卷一百七十七 食良貨志第一百三十 食貨上五(役法上)
役法の淵源と太祖・太宗期の制度
- 役は民から出るもので州県には常数があった。宋は前代の制を承け、衙前に官物を主らせ、里正・戸長・郷書手に賦税の課督を、耆長・弓手・壮丁に盗賊の逐捕を、承符・人力・手力・散従官に使令を担わせ、県は曹司から押録まで、州は曹司から孔目官・雑職・虞候・揀搯等まで郷戸等第で差役を定めた。京の百司補吏は役に差し支えないことを条件とし、建隆中には諸司台省寺監・諸軍・諸使が州県の課役戸を占有すること、州県が道路居民を遞夫として役すことを禁じ、諸州職官の私占役戸も禁じた。京西転運使程能は州戸を九等に分け上四等に役を課し余五等は免じる案を出し、貧富の升降に応じ裁定された。淳化五年、諸県で第一等戸を里正、第二等戸を戸長とし、名目を冒用しないことが命じられた。
- 大中祥符五年、提点刑獄府界叚惟幾が中牟県から夫二百人を発して馬監倉を修めた際、羣牧制置使が廐卒に代えたことを機に、大興作でなければ丁夫を調発しない旨が禁令化された。承平が続くと姦偽が生じ、命官・形勢の家が田を無限に占有して復役の特権を得る一方、応役の戸は繁数の課役に困窮し、田を偽券で形勢の家に売り仮佃戸を名乗って徭役を逃れる弊が広がった。乾興初、限田法が立てられ形勢が他戸の田を挟む場合は三分の一を告発者に与える制度とされたが、州県の徭役はなお広がった。太常博士范諷は知広済軍として軍地方四十里・戸口一県未満なのに徭差が他郡と同等である不合理を訴え、転運司は反対したが裁減が命じられた。
里正衙前の弊と韓琦・范仲淹の改革論
- 民は避役のため僧籍に竄名する者が多く(趙州では千余人)、詔で落髪・出家した者のみ免役とし、慶暦中には京東西・河北・陝西・河東で裁減役人・不足分の廂兵充当が命じられ、転運司に差徭賦歛の条析、裁減の均等化(郷村・坊郭の均差)が命じられた。范仲淹執政期には河南諸県の役蕃廃止を試みたが未幾に復した。荊湖転運使王逵は民に銭を輸させ免役とし緡銭三十万を進めて奨詔を得たが、他路も倣って掊克を競うことになった。皇祐中、里正・押司録事が代わった後に輸銭免役する者を違制律で処罰する詔が出され、鄉戸を長名衙前とすることも禁じられた。
- 知并州韓琦は上疏し、里正衙前の苦しみ(孀母改嫁・親族分居・棄田・非命求死などで役を逃れる実態、被差の疎密や貲力高下の不均衡の例:甲鄉十五戸で三百万銭・十五年一周、乙鄉五戸で五十万銭・五年一周)を挙げ、里正衙前の廃止と転運司による見役人数の額の設定、五等簿に基づく鄉戸衙前・戸長の選任、二年一易の制を提案し、京畿・河北・河東・陝西・京東西の転運司も賛同した。知制誥韓絳・蔡襄は江南福建の里正衙前の弊を論じ、絳は郷戸五則の法、襄は産銭による役重軽定を提案、至和中に絳・襄と三司が参定し、呉幾・蔡稟を江東西に派遣して長吏・転運使と協議、五則法(貲産を五等に分け、それぞれの役の軽重を定める)が淮南・江南両浙・荊湖福建に及んだ。以後、諸路転運司開封府界に衙前重役の是正を求め、寛恤民力司の巡使も派遣され、力役負担は二万三千六百二十二人分軽減された。
- 治平四年、農本重視の詔が下り、力役煩雑な制度の中外への諮問が命じられた。先んじて三司使韓絳は、京東の父子二丁が衙前役を避けるため父が自縊し、江南で祖母・母を嫁がせ析居して役を逃れる事例、田を鬻いで戸等を下げる事例などを報告し、力役の偏重を博く諮って改める必要を説いた。役法改革の議論はここから本格化した。
熙寧改革――免役法の創設
- 熙寧元年、知諫院呉充は衙前が最重の鄉役であり、民が重役を避けて土地を耕さず戸等を上げないよう骨肉を分散させる弊、上戸減少・中下戸増加の傾向、生資不足による工商転業・盗賊化を指摘し、鄉役利害の早期是正を求めた。帝は内蔵庫の奏で衙前が千里輸金七銭のため庫吏に足止めされる事例を知り、制置条例司に役法制定を命じた。熙寧二年、劉彛・謝卿材・侯叔献・程顥・盧秉・王汝翼・曾伉・王広廉の八人が諸路の農田水利・税賦科率・徭役を調査した。条例司検詳文字蘇轍は「役人を用いるのは士人を官吏に用いるのと同じ」とし、両税外に庸銭一科を立てて戸の高低を問わず出銭させる案に反対して罷免された。条例司は「民に出銭させ雇役するのは先王が民財を取って庶人在官者を養う意に適う」として詔諭を発し、衙前は買撲酒税坊塲の官収銭で酬い、旧来の重難役は投名衙前の酬奨とし、承符散従等の重役は法を改めて弊を除き、無役だった有産業者にも助役の出銭を課すとした。司農寺は「新法は村鄉の貧しい者を優遇し、仕宦兼并の豪右から取るため、豪右の姦計を防ぐ効果がある」として一、二州から先行実施を提案した。
- 提点府界公事趙子幾の上奏を受け、判寺鄧綰・曾布が畿内の制度を詳細化した。鄉戸は資産により五等(鄉戸は四等以上、坊郭は六等以上が出銭)に分け、上等分居者は所析に応じ降等、官戸・女戸・寺観・未成丁は半減とし、集めた銭で三等以上の税戸に代役させた(開封県の例:戸二万二千六百余・歳銭一万二千九百緡のうち一万二百を祿とし二千七百を凶荒欠閣に備える)。戸等の査定は坊郭三年・鄉村五年ごとに見直され、故意の高低査定は違制論とされた。募法では三人相保で衙前を保証し弓手は武芸試験、典吏は書計試験を課した。開封府では衙前八百三十人・鄉役数千が罷され、天下に頒布された。当役戸の出銭は「免役銭」、坊郭等第戸・単丁女戸・寺観・品官の家が出す銭は「助役銭」と呼ばれ、雇直に応じて二割増しの「免役寛剰銭」も徴収された(増加は二割を超えないことと定められた)。熙寧三年、集賢校理呂恵卿が司農寺同判となり、林旦・曾布が事務を主管した。熙寧四年、許州衙前幹公使庫を軍校が担うこととし、月給食銭三千を支給、諸路に及んだ。
- 両浙提点刑獄王庭光・提挙常平張靚は助役銭を七十万まで集め、御史中丞楊繪は靚らの科配(一戸最大三百千)を批判、東明県民数百人が超昇等第を訴え王安石私邸に突入する事件も起きた。楊繪はさらに司農寺が旧則によらず独自に助役銭等第を立てたこと(酸棗県の升戸失実等)を指摘し、帝も王安石に確認したが安石は籍の対照を主張した。中書の孫迪・張景温が不願出銭の民を重役で困らせようとした際も楊繪が異論を唱えたが、監察御史劉摯は保甲の擾乱に続き役銭均出令が人情を驚かせているとして「新法十害」を陳べ、上戸の役の軽減・下戸への負担転嫁、歳の豊凶と役人定数の不一致、鄉戸に代わる雇人の不熟練・盗用の恐れ、坊郭助銭の困難などを列挙した。安石は義に基づく制法を主張して取り合わず、提点趙子幾は知東明県賈蕃の対応を咎めて自ら鞫問、楊繪はこれを安石の意を迎えた不当な処罰と論じ、劉摯も同調して子幾の罪を糺すよう求めたが、詔で楊繪は知鄭州、摯は監察御史裏行から監衡州鹽倉へ左遷、察訪使が諸路を巡って役書の完成を促し、助役を免役と改称した。
- 熙寧七年、利路の助役銭額をめぐり転運使李瑜(四十万)と判官鮮于侁(二十万で足りるとの主張)が対立し、帝は侁の議を是とし、侍御史鄧綰の弾劾で瑜・提点刑獄周約は責任を問われ侁が副使に抜擢された。免役法は天下に頒布され、内外胥吏の俸禄にも倉法が適用された(京師吏禄は元四千緡から八年に二十八万余緡へ)。京西の知長葛県楽京、知湖陽県劉䝉は助役法への異論から罷免・自弾劾、権江西提刑金君卿は募人による費用削減の功で奨諭された。京東の免役銭は秋料起催とし、詳細は監司に検討させ熙寧七年から実施、永興秦鳳では冗役の併省で二割の寛剰を水旱備蓄とした。役銭千ごとに頭子五銭を別途徴収する制度、募人による諸路公人制度(弓箭手法に倣い田を給す)も整備されたが、衢州西安県の例(緡銭十二万で一県分を賄う)から他路への拡大は財政負担が大きく改法が図られた。参知政事呂恵卿とその弟和卿は「手実法」(田産を中価で自己申告させ、隠匿は告発者に三分の一を賞する)を提案したが、告訐の増加が批判され熙寧八年に恵卿の失脚とともに廃止された。同年、荊湖両路の役銭過重が二年間減額され、諸路の寛剰役銭・買撲坊塲銭は募役に使わず毎年羨余として上申する制に改められたが、侍御史周尹は倉法の厳格さゆえに応募者が減り朝廷への聚歛の疑いを招いていると指摘し、寛剰は二分に抑えるべきと論じた。
- 熙寧七年時点で天下の免役銭収入は千四十一万四千五百五十三貫石匹両(うち金銀銭斛匹帛千四十一万四千三百五十二・絲綿二百一両)、支出は金銀銭斛六百四十八万七千六百八十八、応在銀錢斛匹帛二百六十九万三千二十、見在八十七万九千二百六十七であった。熙寧十年、知彭州呂陶は施行四年で本州四県の寛剰銭が四万八千七百余貫に達し天下では六、七百万貫にのぼると試算し、泉貨流通阻害・農商への弊害を訴え免除・上限設定を求めたが容れられなかった。王安石去位後、呉充が相となり沈括は差徭併用を献策、御史知雑蔡確の非難で括は知宣州に左遷、浙東西の役銭算定基準(田税・物力の互紐)が整備された。元豊二年、坊郭戸の免役優遇が過大として鄉戸法に揃えられ、提挙広西常平劉誼は広西一路の身丁税・田米・役銭の三重負担を指摘して監司吏の給与削減による負担軽減を求めた。元豊三年、司農寺丞呉雍は淮浙役書の整理で冗員千三百余人・緡銭近二十九万を削減した実績を報告し、他路への展開が図られた。元豊七年、天下の免役緡銭は千八百七十二万九千三百(塲務銭五百五万九千、穀帛九十七万六百五十七)で熙寧期の三分の一増となった。
免役法の功罪と哲宗初の差役復帰
- 神宗が免役法を主導した動機は差役・衙前の重い負担を憂えたことにあったが、雇直を均しく敷いても取り立ては免れず、雇直の額を定めず寛剰二分を吏禄・水旱に充てる方針が持続したため群議が絶えなかった。安石はこれを固持し弊を防ぎきれなかった一方、聚歛を図る小人がこれに乗じて増取を図る例もあった。哲宗が即位し宣仁后が垂簾聴政すると、門下侍郎司馬光は差役による破産は主に鄉戸衙前に限られ、長名衙前は重難役をこなすほど優輕塲務で富むことも多いと指摘、下等戸・単丁女戸・品官僧道にまで一律課税する免役法の不合理、監司守令の羨余搾取、青苗・免役の現銭要求が凶年の農民を苦しめる実態を挙げ、免役銭の全廃と旧制(差役)復帰、寛剰の州県常平本銭化を求めた。ただし富者が安住し貧者が差役に苦しむ懸念から早期の見直しを主張した。役書の修定が始まり、耆戸長・壮丁は募人供役、保正甲頭承帖人は廃止と定められた。
- 元祐元年、侍御史劉摯は坊塲官収による年数百万緡の収入で衙前雇募は十分賄えると指摘し、散従・承符・弓手・手力・耆戸長・壮丁は祖宗の差法で第一等戸から順に任じるべきと論じた。監察御史王巌叟は衙前大役に本等相助法(百家で年十人を出し九十家が助力する輪番制)を提案。殿中侍御史劉次莊は雇募三等以上戸への応募がない実情を踏まえ明確な差法を求め、戸部は戸長雇募の困難・四等以下戸への役銭超過負担を報告した。中書舎人蘇軾は先帝の免役法本旨(寛剰二分限度)が有司の過剰運用で膨張した経緯を説き、給田募役法の五利(弓箭手制度に倣う)を論じたが半年で罷められた経緯も述べた。王巌叟は五利に対し六弊・七弊(弓箭手との実態の乖離、応募者の逃亡、上等戸の忌避と下等戸への負担転嫁等)を反論し、上官均も五不可を陳べて軾の議は退けられた。
- 司馬光は改めて免役の五害(上戸の負担増加、下戸への新規負担、賄賂の温床化、農民の現銭調達難、提挙常平倉司の寛剰追求)を列挙し、免役銭の全廃と旧法(差役)への復帰、衙前の重難役への配慮として官戸・寺観・単丁女戸の屋産・田収に応じた助役銭徴収を提案、監司守令の裁量による柔軟な運用(州県から転運司・戸部への上申の階梯)も示した。知樞密院章惇はこの奏を疎略と批判し、尚書左丞呂公著は惇の態度を「命令大体を顧みない」と非難、右正言王覿も惇の変心を指摘、詔で韓維・范純仁らに詳定が命じられた。王覿はさらに旧数の再利用の困難を指摘し見額での定差を提案。知開封府蔡京は五日で旧役人数を復し、右司諫蘇轍はこれを性急な措置として非難した。司馬光の差役議に対し中書舎人范百禄は「免役法の弊は募役自体でなく吏の羨余搾取にあった」として単純な減額案を提示したが光は従わず、州県吏の受賄処罰の重刑化にも百禄は反対して撤回させた。
- 蘇轍は差役復行に関わる五項の課題(衙前の坊塲銭充当と鄉戸差役廃止の徹底、坊郭役銭の適正化、旧役人数の是正、雇法の継続、州県胥吏の雇銭確保)を具体的に論じ、坊塲銭の年収四百二十余万貫(三分の一減じても二百八十余万)で衙前費用(百五十余万緡)を賄えると試算した。左正言孫諤は元豊(雇役、多くの役人・重い雇直)と元祐(差役、少ない役人・軽い雇直)の折衷を求めたが、翰林学士蔡京はこれを「元祐を元豊より優れるとする姦言」と非難し、諤は正言を罷められ知広徳軍に左遷された。以後、詳定所による役法所の議論を経て、衙前は坊塲河渡銭による雇募を基本とし不足時のみ差役、他の役人も雇募を主としつつ不足時に差役という併用制度が確立し、崇寧・大観・政和・宣和と細部の是正が繰り返された。
- 建炎初、雇役は一時罷められたが、その後の討論を経て参政李固は「常平法は漢の耿寿昌に本づくもので王安石ゆえに廃すべきでない」と高宗に説き、官戸役銭・保甲庸銭の運用も継続された。役は物力の升降と連動するため、紹興以来、推割・推排の制(典売典業の税賦・物力の一括計算、三年ごとの査定)が整備されたが、査定が細物にまで及ぶ弊もあり質庫・房廊等以外の雑物計上は制限された。保正長の五家一保・十大保一都保の制、品官の限田免役規定(一品五十頃~九品五頃、封贈官子孫も同様)、太学生・得解者への募人充役許可、単丁女戸・孤幼戸の免差役、義士田の売買禁止と老疾承襲の規定なども定められた。高宗は河朔で閭閻の苦を親見しており、県令の不得人により一充役で破家に至る実情を憂え、乾道五年の松陽県義役はこうした背景から広まり十一年に諸路に及んだ。