宋史卷一百七十四 食貨志第一百二十七 食貨上二(方田賦稅)

方田法の沿革(神宗期)

  • 神宗は田賦の不均を憂い、熙寧五年に方田法を定めた。東西南北各千歩・四十一頃六十六畝百六十歩を一方とし、毎年九月に県の令佐が土地の陂原平沢や土色(赤・淤・黒・壚)に応じて肥瘠を五等に分け税則を定める。翌年三月まで示して異論がなければ戸帖・荘帳を交付し地符とした。旧来の端数切り上げの慣行を禁じ、瘠鹵・山林・陂塘・溝路・墳墓には課税しなかった。まず京東路の済州鉅野尉王曼を指教官として試行し、諸路に及ぼした。
  • 熙寧六年には土色を五等よりさらに細分し、七年には京東十七州に方田官を置き三年任期で実施、災傷三分以上の県は一時停止する運用とした。元豊五年、開封府は課税不均の是正のため段階的な方田実施を求め十年計画とし、八年には帝が官吏の擾民を知り方田法を停止した。この時点で方田を終えていた田は二百四十八万四千三百四十九頃であった。
  • 崇寧三年、宰臣蔡京らは神宗の方田法の意義(帳簿で歩畝が隠せず、戸帖で升合が漏れない)を説き再興を提案、京西北路から試行された。四年には指教官・点検官の増員、五年にはいったん停止、大観二年に再開、四年に税賦を旧来の未方田の則に戻し、方田官吏の不正(不食の山にまで課税する等)を是正する詔も出された。
  • 政和三年、河北西路提挙常平司は土色の等級と実際の税負担の不均衡(下等田がかえって重課になる矛盾)を指摘し等級の再編を提案、諸路に及ぼされた。宣和元年には方量官が実地を踏まず胥吏任せにして著しい誤差(面積が十分の一以下に縮小される等)が生じている実態が虔州の例で告発され、宣和二年についに方田は罷められた。以後、方田による訴訟は旧額のまま扱うこととし、民の逃亡・帰業に伴う逋欠税租は除放された。

賦稅の総説

  • 唐の建中初め、租庸調から両税法に変わり夏秋二季の納期が定められたが、五代に至り先取り・増額の弊が極まった。宋の歳賦は公田の賦(官田を民に耕させ租を収める)・民田の賦・城郭の賦(宅税・地税)・丁口の賦(身丁銭米)・雑変の賦(牛革・蚕塩等)の五種、歳賦の物は穀・帛・金鉄・物産の四類に分かれる。穀は粟・稲・麦・黍・穄・菽・雑子の七品、帛は羅・綾・絹・紗・絁・紬・雑折・糸線・綿・布葛の十品、金鉄は金・銀・鉄鑞・銅鉄銭の四品、物産は六畜・歯革翎毛・茶塩・竹木麻草蒭菜・果薬油紙薪炭漆蝋・雑物の六品である。
  • 輸送先に余剰と不足があれば近きを彼へ遠きを此へ移す「支移」、常に納める物と一時的に必要な物とを交換する「折変」があり、いずれも民の便を図る建前だったが、実際にはしばしば民の負担増につながった。

賦稅――太祖・太宗期

  • 五代以来、州県は現に耕作されている田のみを基準に租を取っていたため吏の姦計で税が不均等になり百姓の田が荒れていた。太祖は民の開墾を許し州県による検括を禁じ、見佃の田のみを課税対象とした。京畿の倉庾・諸道の租調収受に増羨のあった官吏は罪を得、逆に民の租を過剰に取った官吏は棄市に処されることもあった。
  • 諸州が税を徴収した後、県吏が里胥に厚く取り立てさせる弊があったため、建炎四年に納入の単位を厳格化し零細な端数徴収を禁じた(底本ではこの記事が太祖期の記述の中に置かれている)。夏税の徴収に県尉・弓手を巡邏させる制は擾民として停止し、郷耆・壮丁による防援に改めた。
  • 二税の納期は地域ごとに定められ(開封府等七十州は夏税五月十五日起納七月末日限、河北・河東は八月五日限、潁州等・淮南・江南・両浙・福建・広南・荆湖・川陝は七月十五日限、秋税は九月一日起納十二月十五日限)、江南・両浙・荆湖・広南・福建は霜降を待って十月から収租した。逋租には保を取って督促し禁錮はしなかった。
  • 咸平三年、陳靖を京畿均田使とし元額に基づく課税・逃戸の別籍管理を行わせた。咸平六年には広南西路転運使馮溉の廉横賔白州における厳しい検括を真宗が「遠方の民は徭賦を省くべき」として停止させた。大中祥符初年、連年豊作で河北諸路の税賦を本州軍での納入に統一し、二年には戸口招徠の褒賞制度を整えたが、これを悪用して客戸を主戸に見せかける不正(賦税は増えない)もあり四年に禁止した。
  • 雍熙初年、荆湖等路の身丁銭を老幼・廃疾者に免除し、両浙・福建・荆湖・広南の旧来の身丁銭(歳四十五万余貫)も除いた。雍熙九年、支移の重複を禁じ穀物の相互折輸を許した。至道末の歳入総額は七千八十九万三千、天禧五年には六千四百五十三万に減少した。丁謂は「二十分の一税・三十分の一税の地もある」と述べ、宋の取り立てが前代より薄かったことを示す一方、田制が立たず隠田・兼併が横行したため税収は伸び悩んだ。

賦稅――仁宗期

  • 仁宗は即位の初め畿県の田賦を寛くし、河中府・同華州の支移を免じようとしたが、西辺の軍食を支えるため支移を完全には廃せず量を減らすにとどめた。福州の官荘(王氏旧領千余頃)は太平興国以来民に耕させ賦を輸させていたが、発運使方仲荀の建策で三十五万余緡で売却、代金の三分の一を減じ三年で完納させたが果たせぬ者が多く十二万八千余緡を蠲免した。
  • 天聖年間、貝州の析居(分家)に対する加税(罰税)を他州にない慣行として除いた。雑変・沿納と呼ばれる煩雑な付加税は明道年間に整理統合され粗細二色に簡素化された。景祐元年、御史韓瀆の建言で「実行簿」(催科の実態を記す帳簿)の再閏年ごとの作成が復活した。
  • 慶暦年間、州県賦役の煩を諸路に上申させ二府で蠲減を合議、諫官王素・欧陽脩の建言を受け孫琳・郭諮が千歩方田法で洺州肥郷県の民田を均税したが、逃田が多く朝廷も労を重んじ以後の拡大は見送られた。陝西・河東の支移増徴(地里脚銭)は皇祐年間に停止された。皇祐中、広西の布匹折銭の価格を有司が擅に切り下げていた不正を糺し旧に復した。開封諸県の田賦も旧額の十分の三に減じた。
  • 湖広・閩浙の丁身銭米は大中祥符間に丁銭が免じられたが米はそのまま残り、天聖中に婺・秀二州の丁銭が除かれ、皇祐三年には郴・永州・桂陽監の丁米を最下数で固定し歳十余万石減じ、嘉祐四年にはさらに無業者を全免・有業者を半減する措置がとられた。
  • 郭諮の均税法が廃されて以後、皇祐中の墾田は景徳より四十一万七千余頃増えたが歳入穀は逆に七十一万八千余石減るという逆転現象が生じた。田京・蔡挺による滄州・博州の均税は民に不便として旧に復され、嘉祐五年の再均税も高本の反対で一部にとどまった。景徳中の賦入総額四千九百十六万九千九百に対し皇祐中は四百四十一万八千六百六十五増、治平中はさらに一千四百一千七万九千三百六十四増となった。

賦稅――神宗期

  • 神宗は湖広の丁米を熙寧四年に周之純を遣わし是正させ、元豊三年には支移折税の実施月日を中書に報告させた。海南四州軍では税籍の残欠により誤って他戸に税が転嫁される弊があり、朱初平らの体量安撫により旧額を存しつつ丁税米を銭納に改め自糴で対応させた。
  • 権発三司戸部判官李琮による江浙・淮南の逃絶税役の根究では四十万余の逃戸、九十二万余の正税・積負が摘発されたが、その苛烈さで三路の民が大いに苦しみ、唐州でも民賦が増され民情が動揺した。御史翟恩は趙尚寛・高賦の唐州における低税率(百畝で四畝課税)が招民の要因だったのに、転運司が税を五倍に引き上げたため再び流亡を招く恐れを指摘した。

賦稅――哲宗期

  • 哲宗嗣位、宣仁太后の聴政のもと積欠の寛減が図られた。開封の催徴法を巡り王巌叟と鄒令張文仲の議論の末、十分の一ずつ五年十料で納める法に落ち着いた。陝西の支移脚銭を巡る紛争は提刑司の裁定で戸等ごとの支移距離(一・二等三百里、三・四等二百里、五等百里)に整理され、河東の助軍糧草支移も三百里を上限とした。
  • 紹聖年間、折変(貨幣と現物の交換)の基準が時価による変動を許容する方向で整理され、崇寧二年には諸路の豊作を受け増価折納の法が広まった。

賦稅――徽宗期

  • 大観二年、支移折変を先富後貧・近きより遠きに及ぼす順で行う原則を定め、七月には納期遅延を厳罰化した。四年には五年以上・戸口不存の逋賦を悉く蠲免した。京西では崇寧中に支移が新設され脚費が正税と同額に近い重い負担となり民が牛を売って対応するほどだったため議者が弊害を論じた。政和元年、地里脚銭が斗未満の場合は免除する規定を設けた。
  • 戸口の実数把握は諸路で不備が多く(蔡攸らの徳・覇二州の調査では三戸四口という実態が判明)、租税の均等化も進まなかった。この頃、中官楊戩が汝州の稲田を掌る「稲田務」を設け、後に「公田」と改称、京西一帯で初期の劵歩畝を超える民田にまで公田銭を課す事態となり、政和末の営繕所も併せて西城所に統合され山東・河朔の天荒逃田や河堤退灘も課税対象に組み込まれた。重和元年、豊作地の物を輸送させ不足地の物を求める支移の運用が、豪民・賕吏によって歉作地から豊作地へ逆用され利益を独占し、貧下戸には支移・脚費の負担が重くのしかかる弊害が指摘された。
  • 宣和年間、州県の主吏の催科怠慢が問題化し転運司に督察させ、浙西の逃田・天荒草田・葑茭蕩・湖濼退灘も租を課して募集した。西蜀の折科の弊(三百銭の税を絹一疋・草十囲で折り本来二十銭のところ二十三千に膨らむ等)や東蜀の逺倉支移による破産も議論されたが、抜本的な是正には至らなかった。唐鄧襄汝等州の新墾田の税率は元祐・大観・政和と改廃を繰り返した。欽宗立、旧税の加耗(抛桩明耗・暗桩暗耗・頭子銭)を悉く罷めた。

賦稅――高宗期(南渡後)

  • 建炎元年五月、二税を旧法どおりとし百姓の欠租・応天府夏税を蠲じ、被虜の家の夏秋租税・科配を免じた。紹興元年、軍期による科率の乱用を防ぐ式を頒布し、八月には大観税額の三分の一を減じた。浙西の科斂の害(鬻田・棄逃を招く)を論じる声を受け漕司に究実を命じ、二年には知紹興府陳汝錫が科率違詔で漳州に左遷された。四年、建盗范汝為平定を機に本路の二税・夏科役銭を蠲じた。
  • 六年、江浙の来年夏税紬絹の半分を米に折納させ、七年には駐蹕・所過州県の紹興五年以前の欠税を蠲じ、新復州軍の官田租外の正税免除、九年には新復州軍の税租・土貢・大礼銀絹・差徭を三年ないし五年免除した。十三年、淮東宣撫使韓世忠の建言で賜田・私産の未輸税を官に帰した。十五年、輸官物に四鈔(戸鈔・県鈔・監鈔・住鈔)の制を整え偽冒を防いだ。
  • 二十三年、知池州黄子游が青陽県の重税(南唐宋斉丘の食邑ゆえ畝三斗)の由来を指摘し二分半減じた。両浙の州県では綿紬税絹・茶絹・雑銭米の六色をすべて市価で折銭したうえ別途米麦を科す二重取りが横行し、京西・湖南でも土戸銭・絁銭・醋息銭・麯引銭など雑多な名目が課され、荆南では戦乱で人口が激減したのに旧額のままの歳輸十二万が積もり二十余万緡の逋欠となり、秦檜再相後は諸路に暗増民税七八分が密諭され餓死者が続出した。
  • 二十六年、承議郎魯沖が宜興県を例に漕計の窠名(丁塩・坊場課利銭等)の歳入と大軍銭・上供銭等の歳支の不均衡(歳入一万五千に対し歳支三万四千)を訴え、令が催科に追われ寛恤を行えぬ実態を指摘した。吏部侍郎許興古も知県闕員の多さがこの財賦督迫にあると論じ、詔によって献羨余の禁止・積欠の蠲免が行われた。二十九年、江西の盗賊多発を受け紹興二十七年以前の積欠官銭三百九十七万余緡等を除いた。三十二年六月、孝宗受禅の赦で紹興三十年以前の官司債負・房賃租賦・和買役銭等を除き、土貢の名目による漁奪も禁じ、州県の秋苗加耗の不正も重典で臨むこととした。

賦稅――孝宗・光宗期

  • 常州宜興県の無税産百姓への墓戸鹽銭課税は経界の際に正税に組み込まれ、隆興元年に晋陵・武進・無錫と同一基準に統一された。乾道二年、贛州守趙公稱が寛剰銭で民の夏税を代納し、温台処徽の物帛折銀も許された。三年、臨安府新城県の進際税賦を半減し、七年には輸苗の受納官に対する連座制(犯人と同罪の一等減)を定めた。
  • 淳熙三年、湖北の広占官田に対する量輸常賦の妥当性を巡る議論があり、開墾誘致を優先し実税化を急がぬ方針が採られた。四年、屡赦による蠲免が州県で名目を変えて骨抜きにされる弊を正すため漕司に除籍を徹底させ、五年には物価下落時に正色(現物)納入を強制しないよう定め、六年には諫議大夫謝廓然が科斂の責を郡守に帰す詔を得た。七年、南康軍知事朱熹は二税収入が軍費に食われ別途の巧取が横行する実態を憂え、兵籍の精査と屯田拡大による州郡の負担軽減を説いた。十一年、旱傷の検放をめぐり寧国府の実態を漕司に確認させた。
  • 紹熙元年、絹の折銭・折銀による民の損失を憂う臣僚の言を容れ多取・多折を罰する詔を出し、秘書監楊万里は「舊は一斛を一斛で輸せしが今は二斛を一斛で輸す」など負担増を数え上げ、蜀の額外の重税にも言及した。二年、養民の道は郡守県令の抚循にあるとの詔を出した。慶元二年、浙江東西の夏税和買紬絹を紹興十六年の詔旨(絹三分折銭七分本色、紬八分折銭二分本色)どおり折納させた。嘉熙二年、蠲賦の詔が吏胥・攬戸に横取りされ実効を欠く弊を正すため、漢代の故事に倣い今年の恵政を明年の減租として先に予告する方式を提案し採用された。

賦稅――寧宗・理宗期

  • 淳祐八年、監察御史陳求魯は預借(税の前借り)が繰り返され民に累代の負担を残す実態を憂い、州郡併省・県令の任期延長・経界の是正等四策を提言した。咸淳十年、侍御史陳堅らは邸第・戚畹・御前寺観の田が名目を巧んで二税を免れ州県が民を鞭撻して穴埋めしている実態を厳しく批判し、常賦への釐正を求めた。

契税(鈔旁定帖銭)

  • 建炎二年、鈔旁定帖銭(田宅の契約手数料)の制を復し提刑司の管轄とした。紹興二年、契約書偽造を軍法で処し、五年には諸州の勘合銭・鈔旁定帖銭の徴収基準を定めた。十有一月、調度不足を補うため戸帖(田宅の数を申告させ代価を輸させる)を出売し、坊郭・郷村の等級ごとに額を定めた。三十一年、四川総領王之望の建言で田宅契税銭の徴収を総領所直轄とし、嫁資・遺嘱・葬地の契約にも課税し年間四百六十七万余引の収入を得た。乾道五年、戸部尚書曽懐は四川で数百万緡、婺州で三十余万緡の徴収実績を挙げ他路にも徹底を求め、白契(無届の契約)の摘発と告発奨励の法を整えた。淳熙六年、舟・驢・駞馬の契税を勅令所が新設しようとしたが帝は後世に及ぶことを恐れ削除させた。

四川の財賦

  • 建炎三年、張浚が同主管川秦茶馬の趙開を随軍転運使とし四川財賦を総領させた。四年、常平司坊場銭・激賞絹・零細絹估銭・布估銭・常平司積年本息(青苗銭の系譜)・対糴米などの新税目を次々に起こし、先朝の常賦に加え歳増二千六十八万緡に達し、蜀の民はここに至って疲弊し始めた。
  • 紹興五年、席益・趙開の後任間で軍期銭の扱いを巡り対立、六年に李迨が代わり、都官員外郎馮康国は祖宗以来の正税・折科の均衡が近年の改変で崩れたと指摘し旧制への復帰を求めた。七年、贍軍銭糧を四路の漕臣が分担する制に改め、九年の和議成立後も金四千両・銀二十万両の激賞庫拠出は蜀からの調達だった。
  • 十一年、趙開が没し、その後任たちは開の経画を大きく変えられぬまま茶塩・榷酤・零細絹布の重税が蜀の常賦として定着した。剛中・李璆・符行中・王之望・蕭振・李文会・王剛中と歴代の制置使・総領が減免と督責を繰り返し、乾道以後も蠲欠・折科是正の詔が断続的に出され、淳熙十六年には四川の湖広総領所への綱運を三年免除する等の措置が続いた。紹熙・嘉定年間にも州県ごとの水害・兵事に応じた蠲免が重ねられ、蜀の財政は南宋を通じ辺防と表裏一体の重い負担であり続けた。