宋史巻一百五十七 選舉志第一百十 選舉三(學校試・律學等試附)
太学・国子監の制度概要
- すべての学校は国子監に隷属する。国子生は京朝七品以上の子孫からなり、はじめ定員はなかったが後に二百人を定額とした。太学生は八品以下の子弟や庶人の俊異な者からなり、三舎法(外舎・内舎・上舎)実施後は外舎生二千人、内舎生三百人、上舎生百人を定めた。
- 入学は所属州の証明書で試補し、外舎の斎長が学生の行(規矩の遵守)と芸(経義の学習)を毎月記録した。私試は孟月に経義、仲月に論、季月に策を課し、公試は初場経義・次場論策とし、上舎試は省試法に準じた。内舎の行芸と業績で上舎上等・中等・下等(優否の組み合わせによる)を判定した。
- 元祐年間、広文館生二千四百人を置き四方の遊学の士を待った。崇寧年間、辟雍を郊外に建て、州郡から辟雍へ、辟雍から太学へと昇進する三舎考選法を天下に及ぼした。
太祖・仁宗朝の学校
- 開宝八年(975年)、国子監生徒がかねて七十人しかいなかったのを、在京の進士・諸科講席の者を補充することとした。景徳年間、文武升朝官の嫡親の附学・取解を認めた。
- 仁宗即位初、兖州に学田を賜り、藩輔にも立学を許した。慶暦四年(1044年)、詔を発して「学者が声病章句に拘束され豪傑の士が伸びない」弊を憂い、州県に学校を建て、教授を任命するよう命じた。
- 天章閣侍講王洗は、国子監の科場が品官子弟に千余人もの試験を許しながら実質的な学習の場になっていない実情を指摘し、在学満五百日(既に貢挙経験者は百日)でなければ秋試を受けられない制を建てたが、後に諫官余靖の反対で聴読日数の制限は廃止された。
- 四門学(八品から庶人の子弟まで)を置き、年一回の試補・学官の鎖宿彌封による考校を行ったが、まもなく廃絶した。
- 安定の胡瑗が蘇州・湖州で二十余年教授し、経義治事の斎を立てて実学を敦くした。皇祐末、国子監直講に召され、後に天章閣侍講を兼ねた。諸生が千里を厭わず慕い来たり、有司は湖学の法を太学に取り入れるよう請うた。
- 神宗は儒学に意を尽くし、京師から郡県まで学校を整え、成績優秀者を上舎に昇進させ発解・礼部試を免じて出身を賜う制度を専らこれによらせた。太学生は慶暦に内舎生二百人を置き、熙寧初にさらに百人を増やして九百人とした。熙寧四年(1071年)、錫慶院・朝集院西廡に講堂四棟を建設した。
- 神宗は「経を談ずる者が人ごとに説が異なるのは道徳が一致しないため」として王安石に経義を著させ、熙寧八年(1075年)に書・詩・周礼義(三経新義)を学官に頒布した。
- 元豊二年(1079年)、学令を頒布し、太学に八十斎(各三十人収容)を置き、外舎生二千人・内舎生三百人・上舎生百人を定めた。月一回の私試、年一回の公試、間歳の内舎生補試、上舎生補試(彌封謄録あり)を実施した。
- 国子生の実態が形骸化していたことを受け、清要官の親戚の聴読を許す代わりに開封府の解額をすべて太学に帰属させた。
哲宗朝以降の三舎法の変遷
- 元祐七年(1092年)、広文館生の制度を整理し、開封府の元の解額百人による自試を認めた。紹聖元年(1094年)、広文館を廃してその額を開封府・国子監に戻した。
- 紹聖初年、監察御史郭知章は「元豊法に戻し、上舎中上等者に礼部試免除の恩を復すべき」と提言し、三学の補外舎生を年四回試とする制も定めた。上等即注官者は年二人まで、礼部試免除者は年五人まで、解試免除者は年二十人までとする制限も設けられた。
- 紹聖三年(1096年)、在籍生の再試制度を厳格化し、元豊初制に戻した。蔡京が内外の学制を修訂し天下に頒布した。
- 元符元年(1098年)、命官の国子生補入を年四十人までとし、二礼(周礼・礼記)優遇枠を全額の半分とした。元符二年(1099年)、諸州に三舎法を施行し、州は上舎一人・内舎二人を年に貢することとした。
- 崇寧元年(1102年)、天下の州県に学校を置き、州は教授二員、県にも小学を置くこととした。開封府は留五十五額を除き諸州に貢額を配分し、外官の子弟親戚も入学を許した。
- 蔡京は将作少監李誡に城南門外に辟雍(外学)を建てさせ、太学は上舎・内舎生を、辟雍は外舎生(三千人)を収容する体制とし、国子祭酒がこれを統括した。三舎生はすべて昇貢によるものとし、国子監の補試を廃止した。
- 政和年間、小学生近千人を十斎に分け、八歳から十二歳までの誦経量により内舎に補する制度を新設。宣和元年(1119年)、州県学の三舎法を廃止して太学のみに限定し、開封府・諸路は科挙に戻した。
- 靖康元年(1126年)、崇寧以来党派化した経義(元祐派対新経派)の弊が指摘され、王安石の説の可否をめぐる論争(楊時が邪説と論難、諸生が反発)の末、貢挙自体が国事の危急により停止した。
南宋の太学
- 建炎初年、行在に国子監を置き博士二員・監生三十六人を配した。紹興八年(1138年)、葉綝が建学を上書したが兵事のため保留され、紹興十三年(1143年)ようやく太学を建て、祭酒・司業各一員、博士三員を置き、上舎生三十員・内舎生百員・外舎生五百七十員の養士制を定めた。
- 二十七年(1157年)、春季放補・省試年の孟夏改試などを定制化。孝宗が初めて剏行した「待補国子」制度(清要官の期親子弟が別号考校で受験)も整備された。
- 淳熙年間、諸生に射を課し、公私試の成績と合算する制度も加えられた。
- 内舎生の校定を優・平の二等とし、優等再試の「両優釈褐」(試験を経ず任官)制度も存続。光宗紹熙三年(1192年)、吏部尚書趙汝愚らが「庠序が伝舎のようになり、師儒が路人のように見なされている」ことを憂い、混補法の復活を建議したが実現しなかった。
- 寧宗慶元・嘉定年間、混補が実施され、外舎生を千四百員に増員した。嘉定十四年(1221年)、待補百人取三人の比率を定めた。理宗朝には百取六人の制に戻り、紹定二年(1229年)、待補生の偽冒防止のため保官による字跡照合を導入した。
- 理宗淳祐年間から度宗咸淳年間にかけ、両学の補試の管理、寛額措置(士子の多さに応じた考官増員)などが行われた。度宗咸淳二年(1266年)、太学に幸し先聖を拝した際、三学生に免省・升甲などの恩沢を広く与えた。
律学
- 国初、律学博士を置き法律を授けた。熙寧六年(1073年)、国子監に律学を設け教授四員を置き、命官・挙人がそれぞれ学ぶことができた。挙人は命官二人の保任を経て入学し、断案(刑名を挙げて判決文を作る)または律令大義を試された。
- 元豊六年(1083年)、国子司業朱服の建言により、命官の公試優等者は吏部試法により授官し、太学生で律学を兼修し公試第一等の者は私試第二等に準ずる扱いとした。
- 建炎三年(1129年)、明法新科進士の推薦受験を許した。紹興元年(1131年)、刑法科を復活し、断案の合格分数(五十五通を十分に換算)による等級付けを整えた。趙鼎は「古は刑を以て教を弼く、崇奨すべき」と述べ、高宗も「刑名の学は久しく廃れており、これを厚遇しなければ絶えてしまう」として復活を支持した。
- 淳熙七年(1180年)、祕書郎李巘が「古の儒者は儒術で獄を決した。今は断案・律義の形式的な合格が優先され、法官が経書を知らない弊がある」として経義と法律の併修を提言、孝宗もこれに同意した。
- 慶元三年(1197年)、経義試を一時廃止、五年に復活。嘉定二年(1209年)以降、法科の弊(経義偏重、考官が法律を軽視する風潮、案題の煩雑化による深い検討の欠如、法科合格者による情実の弊)が繰り返し議論され、六場制(断案五場・律義一場)への改革が行われた後、経義一場を復活させる調整も続いた。
- 理宗淳祐三年(1243年)、刑部が試験管理を厳格化し、大理丞クラスの経験者を試験官とし、覆試を課す制度を整えた。度宗咸淳元年・八年(1265・1272年)にも選試の法を申厳した。
宗学
- 諸王の尊属は自邸に小学を立て、八歳から十四歳までの子孫が入学し一日二十字を誦した。熙寧十年(1077年)、宗子試法を立て、袒免親以内は鎖庁試、それ以外は国子監・礼部で別途採点し十取五とした。
- 崇寧初年、疏属(皇族の遠縁)は二十五歳で経義・律義を礼部で試し、進士榜に付して三班奉職などに任じた。両京に敦宗院を置き大小学教授を配した。
- 大観三・四年(1109・1110年)、宗子の上舎昇進と殿試の関係を整理した。紹興十四年(1144年)、臨安に宗学を建て、生員百人(大学生五十人・小学生四十人)とした。
- 孝宗登極時、服属の遠近を問わず文解経験のある宗子に廷試直行を許し、経義・詩賦・論の量試による推恩制度(合格第一名は承節郎、他は承信郎など)を整えた。四川は安撫制置司で附試した。
- 乾道年間以降、宗室の鎖庁試の待遇(京官進一秩など)と、寒畯(一般士人)との公平性の問題が繰り返し議論され、待遇を元資改授に抑える調整が行われた。
- 端平元年(1234年)、宗子の解試における身元照合の厳格化。淳祐二年(1242年)、内小学を建て教授二員を配した。景定年間(1263年頃)まで細かな制度整備が続いた。
武舉
- 咸平年間(1000年頃)、両制館閣が入官資格を検討したが実施に至らなかった。仁宗朝、武学を一時設置したが中断。天聖八年(1030年)、初めて武挙を親試し、十二人を騎射と策により選抜した。
- 神宗熙寧五年(1072年)、樞密院の建言で武成王廟に武学を建て、韓縝を判学、郭固を同判とし、生員百人を額とした。文武の兵法に通じた者を教授とし、諸家兵法・歴代用兵の成敗を学ばせた。試中の三班使臣・経略司教隊差使は三年無過で大使臣に昇進できた。
- 歩射・馬射の合格基準(一石三斗、八斗など)や、上舎生(毋過三十人)・内舎生の等級を細かく規定。王安石は「武挙が墨義(文章の暗記)に流れることは実戦の役に立たない」として策・武芸重視の方針を支持した。
- 元豊元年(1078年)、大小使臣の弓馬藝業出官法を等級別(一石・八斗・六斗の歩射基準など)に細かく規定し、崇寧年間には諸州に武学を置き文武両道の人材登用を進めた。
- 政和・宣和年間、武学の州県設置・廃止が繰り返され、建炎三年(1129年)、武挙人を兵部が弓馬を検査し淮南転運司で七書義・兵機策を試す体制とした。
- 紹興五年(1135年)、高宗が集英殿で武挙進士を親策し、翌日騎射策を試した。紹興十六年(1146年)、武学を再建し、博士・学諭を置き、内外三舎の制を整えた。
- 隆興年間、殿中侍御史胡沂が「武挙及第者が本来の軍事的用途に配されず榷酤(酒税徴収)などの雑務に回されている」実情を批判し、軍職での実践的登用を求めた。乾道年間、この提言をめぐり洪适が「武挙人が文墨で進むのは軍中に相応しくない」と慎重論を述べた。
- 淳熙年間、武挙第一人を秉義郎堂除諸司計議官とするなど文科に準じた恩例を整え、武挙国子額も新設した。淳熙七年(1180年)、武挙絶倫及第者の従軍法を定め、光宗紹熙元年(1190年)、武臣の文資転換制度を一時廃止・復活させた。
- 理宗紹定・淳祐年間、辺境情勢を受け解額を増加。度宗咸淳六年(1270年)、武挙進士・待補の取放比率を定めて志望者の増加に対応した。
算学
- 崇寧三年(1104年)、算学を建て生員二百十人を額とし、命官・庶人を問わず入学を許した。九章・周髀・仮設疑数を算問とし、海島・孫子・五曹・張丘建・夏侯算法及び暦算三式・天文書を本科とした。三舎法は太学に準じ、通仕郎・登仕郎・将仕郎を推恩の等級とした。
- 大観四年(1110年)、算学生を太史局に、書学生を翰林書藝局に、画学生を翰林図画局に、医学生を太医局にそれぞれ帰属させた。
- 紹興初年、太史局が試補・草沢人の募集を実施。淳熙元年(1174年)、局生の子弟に崇天・宣明・大衍の三暦を試した。理宗淳祐十二年(1252年)、祕書省が試験管理を祕書省の統括下に戻すよう申し立て、旧制の厳格な試法を復活させた。
書学
- 篆・隷・草の三体を習わせ、説文・字説・爾雅・博雅・方言を明らかにし、論語・孟子の義も兼修させた。篆は古文・大小二篆、隷は二王(王羲之・王献之)・欧陽詢・虞世南・顔真卿・柳公権の書、草は張芝の九体を規範とした。
- 書の評価基準は「方円肥痩が適中し、鋒を蔵し画に勁があり気清く韻高く古雅で俗でない」ものを上、「一体を得た」ものを中、「形は似るが意を得ない」ものを下とした。三舎の補試・昇降・推恩は算学に準じたが、推恩は一等低く扱われた。
画学
- 画学の科目は仏道・人物・山水・鳥獣・花竹・屋木の六種で、説文・爾雅・方言・釈名を教授し、画意への理解を問う問答形式を採った。士流(大経または小経を兼修)と雑流(小経または律を学ぶ)に分けて斎を分けた。
- 評価は「前人を模倣せず、物の情態・形色が自然で筆韻が高簡」なものを工とし、三舎の試補・昇降・推恩は前法に準じたが、雑流の授官は三班借職以下の三等に限られた。
医学
- もと太常寺に隷属していたが、神宗の代に提挙判局官・教授を置き、生員三百人を方脈科・鍼科・瘍科の三科に分けた。方脈科は素問・難経・脈経を大経、巣氏病源・龍樹論・千金翼方を小経とし、鍼瘍科は脈経を除き三部鍼灸経を加えた。
- 崇寧年間、国子監に隷属を変え博士・正録各四員を置き、上舎四十人・内舎六十人・外舎二十人とした。第一場は三経大義五道、第二場は方脈または鍼瘍の専門大義、第三場は仮令治病法三道を試し、高等合格者は尚薬局医師以下に任じ、他は本学博士・正録や外州医学教授とした。
- 紹興年間、医学を再建。乾道三年(1167年)、局を廃し御医を存置。淳熙十五年(1188年)、内外白身医士の登用手順(脈義試・経義三場・翰林医学の等級)を定め、紹熙二年(1191年)、太医局の銓試を旧格に復した。
補道職(道教の職試)
- もと試験はなかったが、元豊三年(1080年)、初めて道徳経・霊宝度人経・南華真経などから出題する試験を設け、斎醮の科儀祝読も試すようになった。政和年間、州県学に道徒のための斎を置き、蔡攸が選試道職の法を上奏した。
- 黄帝内経・道徳経を大経、荘子・列子を小経とし、諸州の幹官が道経に精通した者を訪ね審査した。志士道職に補し褐服を賜う制度も整い、藝能に優れた者には推恩、州守貳には教習の考課責任を課した。
- 宋瑀という者が道徒から内舎に転じ、神霄玉清万寿宮に文を献じて志士に特擢された例など、勧誘の重みがうかがえる。宣和二年(1120年)、この学は廃止された。