宋史巻一百五十六 選舉志第一百九 選舉二(科目下・舉遺逸附)
高宗建炎・紹興初年の科挙再興
- 建炎初年(1127年頃)、高宗が揚州に駐蹕した際、武備を重んじて士人が行在に来られない状況を憂い、諸道提刑・転運司に選官を命じて州軍に試験場を設け、河東路は京西転運司・国子監・開封府の人と共に留守司で受験させた。
- 建炎二年(1128年)、詩賦・経義取士の第一場を詩賦各一首または本経義三道・論語孟子義各一道、第二場を論一道、第三場・殿試を策三道と定め、紹聖以降廃されていた詩賦を復活。詩賦の私的伝習の禁も解いた。
- 下第進士の年齢・挙数に応じた廷試直行資格(四十歳以上六挙経御試・八挙経省試、五十歳以上四挙経御試・五挙経省試。河北・河東・陝西はそれぞれ一挙減)を定めた。
- この年秋、四方の士が行在に集まり、高宗自ら集英殿で策問し、正奏名李易以下四百五十一人を進士及第・進士出身・同学究出身・同出身に分けて任官(左宣教郎以下)。特奏名にも進士及第・同進士出身などを賜り、川陝河北京東の正奏名不赴者百三人にも即家賜第の恩を与えた。
- 廷試の順位を内侍が先に奏上する旧慣を高宗が「至公を旨とすべし」として廃止。
- 紹興元年(1131年)、四川宣撫処置使張浚が便宜により川陝挙人を現地で試験する体制を整え、また兵乱で解散した太学生・行在職事官の子弟のため国子監進士名義の応挙法を新設。京畿・京東西・河北・陝西・淮南から江南に移住した士人にも寓居地での附試を認めた。
- 兵火で焼失した貢籍の再整理、恩免解挙人の被災者救済策も講じられた。侍御史曽統は「詞賦のみで足り経は不要」と提言したが、左僕射呂頤浩が「経義・詞賦はいずれも人を取る手段、旧に従うべき」と反対し実現しなかった。
- 紹興二年(1132年)廷試で高宗は「直言を尊び諂佞を退ける」よう考官に命じ、張九成以下二百五十九人を及第とした。呂頤浩は詞に優れる凌景夏を第一に推したが、高宗は「忠佞の別を示すべき」として張九成を首選とした。
- 舊制では潜藩(皇帝即位前の任地)出身者の受験資格に制限があったが、高宗の旧封蜀国公にちなみ蜀州挙人が類省試を直接受けられる例外が定着した。
- 紹興五年(1135年)、南省で初めて進士を試し、有司に「絺繪章句の巧みさより淵源ある学問を尊ぶ」よう戒めた。御試では汪応辰を第一に推挙する際、沈遘・馮京の故事に倣い、当初の黄中第一を覆して定制とした。
- 御試の初考・覆考の等第決定手続き、詳定所の権限についても議論があり、隔二等以上の差が五人に及ぶ場合のみ奏禀を許す等の規定が整備された。
- 紹興六年(1136年)以降、避親(試験官との縁故者)の受験規則、平江府など戦乱地の減免措置、諒闇(喪中)による殿試中止時の措置(省試第一人を榜首とする)など、細かな例外規定が整えられていった。
- 紹興十三年(1143年)、国子司業高閎の建言により、本経語孟義・詩賦・子史論時務策を組み合わせた三場制を整備し、春秋義は正経から出題することとした。同文館試(居行在から千里以上の者への便宜)も創設された。
秦檜専権期とその是正
- 道学(程顥・程頤の学)が東南で盛んになり科挙文にも影響したが、秦檜が宰相となると諫官陳公輔らが道学を「偽学」として弾劾し、専門曲説として黜落する方針が取られた。
- 紹興二十一年(1151年)、御試の正奏名四百人・特奏名五百三十一人を輩出し、中興以来最も人材を得た年とされた。
- 秦檜の子秦熺は廷試で第一とされたが秦檜が謙って第二に降格させ、孫秦塤も省試・廷対で首選とされ、姻党曹冠らも高甲に列した。秦檜死後の紹興二十五年(1155年)、高宗はこの弊を懲らしめて覆試を命じ、秦塤の出身を奪い曹冠ら七人の階官を降格させた。
- 程・王(程頤・王安石)の学をめぐる宰相間の対立(趙鼎は程頤を、秦檜は王安石を支持)も、秦檜死後「一家の説に拘らず」との詔で緩和された。
- 紹興二十七年(1157年)、経義偏重による声律軽視を憂い、兼経の制を復活し、四科(詩・書・易・春秋の各経を主とする四つの組み合わせ)とした。蜀の士人への配慮として試期を延ばし、閻安中・梁介ら蜀士が高第を得て高宗を喜ばせた。
- 紹興二十九年(1159年)、孫道夫が四川類試の請託の弊を訴え、全員礼部試に赴かせるよう求めたが、国子監祭酒楊椿は「蜀は行在から万里、三峡・重湖を渡らせるのは酷」として監試強化に留めた。
- 紹興三十年(1160年)、四川類省試を朝廷差官によるものとし、類試第一人の恩数は殿試第三人に準じることとした。
- 紹興三十一年(1161年)、礼部侍郎金安節が熙寧・元豊以来の経義・詩賦の得失を論じ、両科(経義科・詩賦科)を永久に分立する制を確立した。
孝宗朝
- 隆興元年(1163年)、御試第一人を承事郎、以下順位に応じ任官を定めた。
- 乾道元年(1165年)、四川特奏名の等級別出身付与を定めた。
- 乾道二年(1166年)、登極恩による推恩を細かく規定。
- 乾道四年(1168年)、牒試法(親族による代理受験の抑制策)を整備。
- 乾道六年(1170年)、諸道試官の隔郡選差を制度化。
- 淳熙二年(1175年)、御試後に文士に弓射を課す制度を新設し、命中数により等第を分けた。
- 淳熙四年(1177年)、同文館試を廃止し、省試の簾外官にも避親法を適用。
- 淳熙五年(1178年)、階州・成州・西和州・鳳州の正奏名を五路人の例で一甲に昇格。
- 淳熙六年(1179年)、特奏名の敕納回数を定制化。
- 淳熙十一年(1184年)、廷試での見燭(暗くなってからの答案提出)を禁止し、遅延者を降黜。
- 淳熙十四年(1187年)、御試で王容を第三から第一に親擢。翰林学士洪邁が答案の字数規定(賦三百六十字、論五百字)に対し実際は数倍に及ぶ弊を指摘。
- 朱熹は詩賦を廃し諸経・子史・時務を年ごとに分けて試す私議を著したが、採用には至らなかった(易詩書・周礼儀礼二戴記・春秋三伝の三科を子午卯酉の年に分け、諸子・諸史も同様に分年する構想)。
- 紹熙元年(1190年)、按射不合格者への処分を規定。紹熙三年(1192年)、鎖庁及避親挙人の分場試験を開始。
寧宗朝
- 慶元二年(1196年)、韓侂胄が秦檜の先例に倣い道学を偽学として弾劾。知貢挙葉翥が語録類を用いる士人を排斥し、大学・州軍学の月試・季試を強化。
- 慶元四年(1198年)、経義の套類(雛形の使い回し)対策として出題方式を改めた。
- 嘉泰元年(1201年)、章良能が主司の三弊(詞賦を過度に抑制、春秋科を過度に優遇、国史実録の私蔵禁令の抜け穴)を指摘。
- 嘉泰四年(1204年)、漕司試の分院異題を定制化。開禧元年(1205年)、三場の優劣で総合評価する方式を定め、片言隻字による選抜を禁止。
- 開禧二年(1206年)、字画照合による替玉(替え玉受験)対策を強化。別頭場(避親者用会場)の規定も整理。
- 嘉定元年(1208年)、朝官の親属の廷対受験時は考校を免ずる制度化。嘉定十二年(1219年)、国子牒試の宗枝仮冒を禁止。嘉定十五年(1222年)、断章取義の出題を改めるよう祕書郎何澹が提言。
- 理宗朝、命題の不備・出典誤りが増え、士人が惑わされる「繆種流伝」の弊が指摘され、伝義・換巻・易号・巻子出外・謄録滅裂の五弊が問題化。
- 宝慶二年(1226年)、左諫議大夫朱端常が試院の門禁強化・封鐍匱の使用・謄録の厳格化など防弊策を上奏し、高宗(原文ママ、当時は理宗)これを採用。
- 紹定元年(1228年)、程文雷同(答案の使い回し)の弊を防ぐため、禮部が事前照合を強化。
- 淳祐年間、詞賦・経義の出題不明確による混乱、蜀士の試期延期問題などが議論され、四年廷試の期日を四月上旬に固定。
理宗朝後期・度宗朝
- 端平元年(1234年)以降、牒試の廃止と各種混試の整理、諸路解額の見直しが行われた。淳祐元年(1241年)、漕挙・胄挙を別院試験に戻した。
- 宝祐二年(1254年)、監察御史陳大方の提言により、進士の暦(印紙のような身分証明簿)制度を整え、偽冒防止を図った。
- 景定二年(1261年)、胄子(宗室・高官子弟)牒試の定員を宰執・侍従・卿監郎官などの階級ごとに細かく規定(宰執は緦麻以上親四十人、侍従台諫は小功以上親二十七人など)。
- 度宗即位初年、試院の継燭(夜通しの試験)を廃し三日連続試験に改め、咸淳九年(1273年)から解額を終場人数に応じて増減する方式を導入。度宗崩御の年(1274年)、廷試は完了せず、以後は館職の召試の制に倣って処理された。
- 新進士の期集(合格祝賀行事)は南渡後、礼部貢院で餐銭を賜り実施され、上位三人が同期の中から人材を自ら選ぶ慣行や、状元を年長・年少の代表がそれぞれ拝する儀礼が続いた。
制科(特科・賢良方正等)
- 制科は常科とは別に非常の才を待つもので、天子が親策する。宋では進士出身者が多く、召試館職や博学宏詞による者が主だった。
- 太祖朝、賢良方正能直言極諫・経学優深可為師法・詳閑吏理達於教化の三科を置き、対策三千言を課した。乾徳四年(966年)、士子の自薦を許したが、応じた者はわずかで対策も疎漏だった。
- 開宝八年(975年)、諸州に孝弟力田・奇才異行の推薦を命じたが、翰林学士李昉らの試験では大半が採るに足らず、濮州推薦の孝悌者三百七十人も武技を試すと失態を演じ、詔により本部の濫挙を問責した。
- 咸平四年(1001年)、両省五品以上・御史台・尚書省諸司四品以上に賢良方正の推薦を命じ、祕書丞李道ら七人が第四等に入った。
- 景徳二年(1005年)、博通墳典達於教化・才識兼茂明於体用・武足安辺洞明韜略運籌決勝・軍謀宏遠材任辺寄などの科を増設したが、程度の高い合格者は少なく、時の議者は太平の世に賢良を問う必要はないとしてこの科を廃した。吏部の宏詞・抜萃・平判等の科のみ存続した。
- 仁宗初年、制科を復活し、賢良方正能直言極諫科・博通墳典明於教化科・才識兼茂明於体用科・詳明吏理可使従政科・識洞韜略運籌帷幄科・軍謀宏遠材任辺寄科の六科を京朝官に、書判抜萃科・高蹈丘園科・沈淪草沢科・茂材異等科を布衣に対して整備した。
- 治平三年(1066年)、英宗が水害を機に「進賢の路が狭い」との歐陽脩の意見(進士高科・大臣薦挙・差遣例除の三路のうち二路が塞がっている)を受け、宰執に館職五人ずつの推薦を命じた。
- 神宗朝、進士の策試が制科と重複するとして一時制科を廃止し、館職試も詩賦を廃して策論に改めた。元祐元年(1086年)、制科を復活し策論を課した。
- 右正言劉安世は「館職は英傑の地であり吏事を課さず名節を養う場」であるべきとして、試験を経ずに貼職を得る近年の風潮を批判し、召試を経ない任命を禁じるよう求めた。
- 紹聖初年(1094年)、哲宗は「進士の策も時政を論じうる」として制科を廃し、代わりに宏詞科(詔誥・章表・箴銘・賦頌等の実務文書作成能力を試す)を新設。大観四年(1110年)、詞学兼茂科に改称、政和年間に定員を増やした。宣和年間、上舎試とあわせて実施された。
- 紹興元年(1131年)、館職試を復活。紹興二年(1132年)、賢良方正能直言極諫科を旧制どおり復活し、応詔者は策論五十篇を提出、祕閣で論六首を試し、五等に分けて第三等以上を親策する制度とした。
- 高宗はまた博学宏詞科を設け、制誥・詔表・露布・檄・箴銘・記賛頌など十二題から六題を選び三場で試す制度を整備した。理宗嘉熙三年(1239年)、試験が厳しすぎて志願者が減ったため簡略化し「詞学科」に改称した。淳祐初年(1241年)に一時廃止、景定二年(1261年)に嘉熙の制を復活させた。
学官試(教官の試験)
- 内外の学官は当初朝廷の特注によったが、後に国子監が旧試の成績優秀者を任用するようになった。熙寧八年(1075年)、教授試法を立て、大義五道を試した。
- 元豊七年(1084年)、教官不在の州では長吏が在任官の中から選び監学が審査する制とした。元祐年間、試法を廃止したが後に復活。
- 紹聖初年、制科・進士甲第上位者や太学上舎からの者は試験免除、他は経大義各一道を試して教官に任じた。政和二年(1112年)、合格率を三人に一人から十人に一人へ厳格化。
- 高宗初年、教官試を一時廃止したが後に復活。紹興十五年(1145年)、国子監丞文浩の提言で六経から二経・両題を出題する方式とした。四川制置司も類省試年に礼部の方式に倣って試験した。
童子科
- 十五歳以下で経を通じ詩賦を作れる童子を州が朝廷に推挙し、天子自ら試す。真宗景徳二年(1005年)、撫州の晏殊・大名府の姜盖が召試され、晏殊に進士出身、姜盖に同学究出身を賜った。晏殊は後に賦論を再試され秘書正字に任じられた。
- 仁宗即位から大観末までに出身を賜った童子はわずか二十人。建炎二年(1128年)、朱虎臣を召見し官・金帯を賜った例など、その後も断続的に実施された。
- 淳熙年間、王克勤が程文で内殿引見を受け孝宗に嘉され従事郎に補された。楊億・宋綬・晏殊・李淑ら童子出身の名宰相の先例が引かれ、選考基準の厳格化(六経・孝経・語孟の全誦に加え経義・詩賦の実作)が図られた。淳熙八年(1181年)、上中下三等に分けて推恩の差を設けた。
- 嘉定十四年(1221年)、毎年三人を国子監試・中書覆試を経て採用する制を永制とした。理宗以降この科は廃され、卓絶した文才の者のみ諸郡の推薦によることとなった。
舉遺逸(隠逸の推挙)
- 科目が整っても在野の才を尽くせないことを憂い、州郡に人材の捜索を命じ、公卿の推薦によった。治平の黄君俞、煕寧の王安国、元豊の程頤、元祐の陳師道、元符の徐積らはいずれもこの経路で卓越した人物として知られた。
- 熙寧三年(1070年)、諸路で行義により郷里に推重された者二十九人を太学に招き、劉蒙ら二十二人を舎人院で試して任官した。
- その後、応詔者に実質を欠く例が増え朝廷も軽視するようになったが、高宗は遺逸を重んじ、布衣譙定、処士尹焞(経筵に召された)らを招いた。王忠民の忠節、張志行の高尚、劉勉之・胡憲の力学により出身を賜り本郡の教授に任じた例や、処士号を与えて徐庭筠・蘇雲卿のような隠者の節を顕彰した例もある。
- 寧宗慶元年間、蔡元定が尤袤・楊万里の推薦を受けたが病を理由に固辞し、偽学の咎で配流先で没し、人々に惜しまれた。理宗・度宗以降は国勢が日々逼迫し、賢者は隠遁するのみで登用の例は聞かれなくなった。