宋史卷一百五十五 選舉志第一百八 選舉一(科目上)

選挙志の趣旨

  • 官吏登用の制度は、『書経』舜典の考課の法、『周礼』の郷三物・太宰の三歳計から始まる。歴代を通じて、入仕には貢挙(科挙)、任官には銓選、在職には考課の法があった。
  • 貢挙を論じる者は文芸より徳行を、銓選を論じる者は年功と推薦のそれぞれの利弊を、考課を論じる者は吏文中心の弊と縁故による弊を、常に論争してきた。
  • 宋初は唐制を継いで貢挙は進士・制科を重んじ、銓選は挙削・改官・磨勘・転秩を、考課は官給の暦紙による勤務評定を重んじた。三百余年、名臣・碩学・清廉な吏はみなここから出た。
  • 本志は旧史の記載を、科目・学校試・銓法・補廕・保任・考課の六門に整理して編纂した。
  • 宋の科目には進士・諸科・武挙のほか制科・童子挙があり、進士が最も人材を輩出した。神宗が諸科を廃し経義・詩賦で進士を取るようになって以降、その法が続いた。仁宗が郡県に学校設立を命じてより、熙寧以来その制度が整い、学校が天下に広まった。

太祖朝の科挙整備

  • 礼部貢挙には進士・九経・五経・開元礼・三史・三礼・三伝・学究・明経・明法などの科があり、いずれも秋に解試、冬に礼部で集め、春に考試して及第者を尚書省に掲示した。
  • 進士の試験は詩・賦・論各一首、策五道、帖論語十帖、春秋または礼記の墨義十条など、科目ごとに細かく規定されていた。
  • 挙人が試験に応じることを「鎖庁試」といい、大逆罪人の緦麻以上の親族、不孝・不悌の者、商人・異類・還俗の僧道の徒は応じることができなかった。
  • 太祖は知挙官が権貴に頼って人を推薦する「公薦」の弊害を禁じた。乾徳元年(963年)、九経科で一度落第すると再挙できない旧制を改め、諸科同様に再試を許す詔を出した。
  • 同年、周の顕徳の制に倣い、諸州貢挙条法と殿罰の式(成績不良者の受験資格停止年数)を定めた。
  • 建隆から乾徳にかけて、宰相陶穀の子陶邴が上第に登ったことを太祖が咎め、以後、食禄の家の子弟が及第した場合は礼部が姓名を報告し、別に儒臣に覆試させる制度を設けた。
  • 開宝三年(970年)、礼部に貢挙・十五挙以上で終場まで応じた者百六人に本科出身を賜る「特奏名」の恩例を初めて設けた。
  • 開宝五年(972年)、礼部が進士・諸科合格者二十八人を上奏し、太祖自ら講武殿で対面した。翌開宝六年、翰林学士李昉が知貢挙となり宋凖以下十一人を選んだが、進士武済川・三伝劉睿の質が劣ることを太祖が見抜いて黜落し、さらに落第者三百六十人を召見して百九十五人を再試させ、御殿にて別に詩賦を試させて進士二十六人・五経四人ほかを賜及第とした。これにより殿試が常制となった。
  • 太祖は「昔の科名は権勢の家に占められたが、朕が親臨試して弊を革めた」と語った。同年、太宗(当時の晋王)が親試で王嗣宗を第一、王式を第四と定め、以後御試と省試の順位に差が生じるようになった。
  • 江南未平定の頃、林松・雷説ら試不中格の者も江南から帰順したことで三伝出身を賜った例がある。

太宗朝の科挙拡大

  • 太宗は「俊彦を博く求め、十のうち五取れなくとも一二取れれば治世の助けになる」と述べた。
  • 太平興国二年(977年)、御殿で覆試し、呂蒙正以下百九人を採り、翌々日には諸科二百人を及第とし、さらに十挙以上十五挙までの進士・諸科百八十余人にも出身を賜った。九経科七人は不中格でも老齢を憐れみ三伝出身相当を賜与。合計五百余人に袍・笏を賜い開宝寺で宴を催した。
  • 太平興国三年(978年)、廷試を秋に行った例外的な措置があったが、翌年の親征北漢のため中止となり、以後は一年おき、または二年おきの貢挙となった。
  • 太平興国五年(980年)、現任官のまま進士に及第した顔明遠・劉昌言・張観・楽史の四人を近藩の掌書記に特授。また百篇の詩を一日で作ると称した趙昌国を試したが出来が悪く、科自体が久しく廃れていたことから特に及第を賜った。
  • 太平興国八年(983年)、進士・諸科に律義十道の試を始め、進士は帖経を免除。翌年は逆に諸科のみ試律とし進士は帖経を復活、進士を三甲に分けるようになった。瓊林苑での賜宴もこの頃始まった。
  • 雍熙二年(985年)、廷試で初めて唱名及第の制を始め、第一等は節度推官に任じた。端拱初年、礼部試の後に再試で救済する制度ができ、数百人が官を得た。
  • 端拱元年(988年)、貢院の経費を尚書祠部支給に改め倍増し、御厨・儀鸞司の供帳を廃止。知貢挙の宋白らが貢院の諸規則(都榜、御史台官の監門、印紙給付など)を定めた。
  • 淳化元年(990年)、諸道の貢士は一万七千余人に達した。蘇易簡が知貢挙のとき、糊名(氏名を隠す)考校を導入し、以後の慣例となった。

太宗朝後期の制度整備

  • 淳化年間、学究の尚書・周易を一科にまとめ、本経の試義十道などの規則を細かく定めた。淳化末に貢挙は一時停止された。
  • 真宗即位後、貢挙が復活し、高句麗から初めて一人が貢士となった。国子監・開封府の貢士と挙送官が姻戚関係にある場合、両司が相互に試験する制度も設けられた。
  • 咸平三年(1000年)、陳堯咨ら百四十人を親試し、特奏名も九百余人に及んだ。特奏名は、地方で挙げられながら礼部で何度も落第した者の年数・挙数を積算して差等をつける制度で、この頃から本格的に運用された。河北の進士・諸科三百五十人にも及第・同出身を賜り、落第して武芸を志願する者五百余人にも装銭を給した。
  • 従来、及第者は初め任官に別途選考が必要だったが、この頃から出身を賜った者は選考免除(守選のみ)となり、藝の及ばない者にも同出身が広く賜られるようになった。試巻は封印院で糊名・謄写され、覆考所で複校された。館閣・台省官が挙人に請託した場合は密告を義務づけ、諸王・公主・近臣が親族のために科名を求めることも禁じられた。
  • 景徳四年(1007年)、考校の程式を礼部貢院に定めて頒布。他州に戸籍を移して受験する不正を厳しく取り締まり、州の長官が推薦人を審査する制度を整えた。
  • 親試進士の条制も定められ、姓名を隠した試巻を封彌官が管理し、考官・覆考官の二重審査の後、編排官が同異を確認する厳密な手続きが確立した。合格等級は五等(学識優長詞理精純の第一等から文理踈淺の第五等まで)に分けられ、上二等が「及第」、三等が「出身」、四五等が「同出身」とされた。

仁宗朝前期

  • 天聖初年(1023年頃)、宋興六十二年で天下太平、進士・諸科の登第者から多くの名卿巨公が出た。しかし礼部で何度も落第する者への配慮から、学問を怠る風潮も生じ、詔を出して篤学を促した。
  • 晏殊は、唐の明経科が策問を併せて試したのに倣い、諸科にも策一篇を加えるよう提言したが、近臣の反対で実現しなかった。
  • 景祐初年(1034年頃)、地方の学問人口が増える一方で及第の枠が狭いことを憂い、南省での進士・諸科の合格率を「十取其二」と定め、高齢者や既に殿試経験のある者への配慮も加えた。「別頭試」(親族が試験官の場合の別会場試験)の制度もこの頃整備された。
  • 賈昌朝の提言により、それまで文名で推薦を受ける「公巻」の慣行が、封彌・謄録法の整備により不要となり廃止された。
  • 宝元年間(1038-1040年頃)、李淑が真宗以来の進士試験の変遷(策・詩賦・帖経・雑文などの重視順序の変化)を仁宗に説明し、旧制の四場(策・論・賦及詩・帖経墨義)を一括採点する方式が提案された。
  • 知制誥富弼は、唐以来の親試(殿試)は武后に始まったもので必須ではないとして殿試廃止を提言し、一時廃止されたが、輿論の反対で復活した。
  • 范仲淹が参知政事となり、学校興隆を重視して州県立学を推進。三場(策・論・詩賦)を先後入れ替え、帖経墨義を廃止する改革を行ったが、范仲淹の失脚後、旧法に戻された。
  • 張方平は、文章の巧拙で人材を測ることの限界と、当時の学風の乱れ(賦八百字、論千余字に及ぶ冗長化)を批判し、旧規に戻すよう上奏した。
  • 礼部奏名を四百名を上限とする措置がとられ、知制誥王珪は唐代との比較を挙げてこの限定を支持した。また諸科の経義試験の充実も図られた。

嘉祐年間の改革(欧陽脩)

  • 嘉祐二年(1057年)、殿試に及ぶ者は黜落されない制度が始まった。当時、進士の文体が奇僻・鈎章棘句に流れていたため、欧陽脩が知貢挙としてこれを強く抑制し、挟書の禁も厳格化した。
  • 試榜発表後、それまで評判の高かった者が選に漏れたことに反発した軽薄な士人たちが欧陽脩を街頭で罵倒し、祭文を投じる事件まで起きたが、これにより文体は次第に是正された。
  • 王洙は、周礼講義の中で「三年に一度の大比」の古法に触れ、頻繁すぎる貢挙が却って人材を滞留させると論じ、間歳(一年おき)の貢挙とすることが提案・実施された。これにより主司はより精密に選考でき、不正も抑制された。
  • 間歳貢挙にあわせて、明経試法(両経・三経・五経の大義を問う)を新設し、出身は進士と同格としつつ説書挙は廃止した。高第の者が急に重用されすぎる弊も指摘され、制科の等級と進士の甲第を対応させる細かな規定が設けられた。
  • 仁宗朝十三挙の間に進士四千五百七十人、うち甲第三人は三十九人を数えたが、後に公卿に至った者は五人のみであった。

英宗朝

  • 英宗の代、間歳貢士法の不便が議論され、三歳に一度の貢挙とし、解額(合格者定員)を間歳前の四分の三とすることが定められた。明経諸科は進士の数を超えないものとされた。

神宗朝:王安石の新法

  • 神宗は経学に篤く、貢挙の弊、特に西北出身者が選に漏れやすい実情を憂い、王安石の意見を採り制度改革に着手した。王安石は「古の取士はみな学に基づく」として学校興建と明経諸科の廃止・進士額増加を主張した。
  • 詔により両制両省・待制以上・御史・三司・三館に議を求め、蘇軾が長文の反対意見を上奏した。蘇軾は「人を知る道は知人・責実にあり、法の巧拙にあるのではない」とし、また文章(策論・詩賦)の有用性についても「詩賦も策論も政事には等しく無用だが、祖宗以来の定法である」と述べ、楊億・孫復石介の例を引いて拙速な改革に反対した。神宗はこれを読んで一時得心したが、後日王安石に問うと、王安石は「人材が乏しいのは学術が一致しないためで、一道徳のためには学校を修め、貢挙法も変えねばならない」と反論した。
  • 結局、詩賦・帖経・墨義を廃止し、易・詩・書・周礼・礼記のうち一経を専攻させ、論語・孟子を兼修する新制が定められた。四場制(大経義・兼経大義十道、論一首、策三道)とし、諸科解額の十分の三を進士額に増やし、京東西・河北・河東の五路などで進士転向者に増加分の枠を割り当てた。
  • 新科明法を設け、律令・刑統の大義・断案を試す制度を新設し、進士に向かない者の受け皿とした。選人・任子にも律令の試験を課すようになった。
  • 熙寧三年(1070年)、親試進士に策のみを課す制度とし、字数を千字に限定。特奏名にも制策を課した。銀百両を賜う謝恩の儀礼も廃止し、期集費として銭三千を賜うことに改めた。
  • 元祐初年、蘇軾・孔文仲が知貢挙となり、特奏名の乱発(毎回八九百人規模)と恩沢の濫用を強く批判し、特奏名の合格基準(進士は四等以上、諸科は三等以上)を厳格化し、全額の半分を超えないよう定めた。

元祐年間(旧法復活)

  • 元祐年間、新法時代の政策が改められ、礼部は春秋博士の設置と一経専修を求め、尚書省は詩賦と経義の並行実施を求めた。新科明法出身者の吏部での位置づけをめぐる議論もあった。
  • 左僕射司馬光は「取士の道はまず徳行、次に文学、文学の中では経術を詞采より先とすべき」とし、神宗の経義・論策による取士自体は先王の令典に合致するが、王安石が一家の学(新経義)を天下の学官に強いたことは誤りであり、律令を学官が講じる必要はないと論じた。
  • 元祐四年(1089年)、経義・詩賦の両科を並立させ、律義の試験を廃止。詩賦進士は易・詩・書・周礼・礼記・春秋左伝から一経を選び、専経進士は大経・中経の組み合わせで二経を学ぶ規定とした。解額は両科で折半し、経義は全体解額の三分の一を超えないものとした。
  • 司馬光はまた「経明行脩科」の新設を提言し、朝廷官が推薦した人物の素行に責任を持たせる仕組みを作った。
  • 元祐六年(1091年)、通礼科(開元礼を学ぶ科、熙寧年間に一度廃止)を復活。禮部試の知挙官を四員に増員し、点検官二十人を新設した。
  • 元祐八年(1093年)、御試に詩・賦・論・策の三題を復活。太学生で詩賦を兼修しない者がわずか八十二人に留まっていたことを受け、翌年から詩賦習得者にも三題を再試し、専経者には策を課すこととした。
  • 神宗が古字学の廃絶を憂いて儒臣に探求させ、王安石がその成果を広めたが元祐年間は使用が禁じられていた。禁は解かれた。試題の重複防止のため、礼部が内外の試題を集めて台帳化する制度も設けられた。
  • 春秋科は一時廃止・復活を繰り返した。

紹聖以降・徽宗朝

  • 紹聖初年(1094年)、詩賦を廃して経義専修に戻し、廷対には策を課すこととした。徽宗が国郊に辟雍(学校)を設けて貢生を養い、崇寧三年(1104年)には天下の取士をすべて学校の升貢によるものとし、州郡の発解と礼部試を廃止した。
  • 大観四年(1110年)五月、星変を機に制度が改められ、侍御史毛注は「養士に額はあっても科挙が廃されれば学籍にない者が失職する」と天譴を懸念し、科挙の一部復活を献策、詔により実施された。
  • 場屋の文章が偶麗な対句に偏りすぎる弊も指摘され、これを是正する詔が出された。
  • 宣和三年(1121年)、三舎法を廃止し、開封府・諸路は科挙に戻したが、太学のみ三舎制を存続。宣和六年(1124年)、礼部試の進士が一万五千人に達し、特に百人の増額枠を設け、正奏名及第者は八百余人に及んだ。上書献頌による特別合格者も多数出て、宦官梁師成の一党にまで及第が及ぶなど、選挙の弊が甚だしくなった。
  • 崇寧・大観以降、上書献頌による及第者が急増し、正規の科挙以外の経路での任官が乱発された。