宋史卷一百四十八 儀衞志第一百一 儀衞六(鹵簿儀服)

鹵簿の各種儀仗・器物

  • 漢の鹵簿では象が最前列に置かれた。晋が呉を平定した後、南越が馴象を献上し、大車を作りこれに駕して黄門鼓吹数十人を乗せ、越人に騎らせて橋梁を試させた故事がある。宋の鹵簿では象を先頭に置き、木蓮花座・金蕉盤・紫羅繍襜・絡脳を設け、胸から尻にかけて銅鈴・杏葉・紅犛牛毛の払拭を飾った。象ごとに南越の兵1人が背に跨り4人が引き、いずれも花脚幞頭・繍の窄衣・銀帯を着けた。太宗の太平興国6年(981年)、両荘養象所の上奏により南郊で象10頭を引駕させることが詔された。開宝9年(976年)の南郊では象は六引の前にのみ配され、鹵簿使がこれを管掌することが詔された。

  • 旗はいずれも錯采で作り、漆竿・鎞首・纛頭には錦帯を巻き、脚には火焔の形を付ける。白澤・攝提・金鸞・金鳳・獅子・苣文・天下太平・君王万歳・仙童・螣蛇・神龜、及び歩甲前後隊・後馬隊三隊・六軍儀仗内の旗は、いずれも赤を用い、日月及び合璧連珠・風雨雷電・五星・二十八宿・祥雲の旗は青、北斗は黒、五岳・四瀆・五方四神・十二辰・五龍・五鳳・龍虎君はそれぞれ方色を用い、天王は赤黄二色、排攔は黄紫赤三色を用いる。
  • 元豊3年(1080年)、詳定郊廟奉祀礼文所は「鹵簿に用いる二十八宿・五星・攝提旗は、有司が方士の説を採って人形に描いているが礼に典拠がない。改めて各々その天文の象そのものを描くべき」と上言し、これに従った。元祐7年(1092年)、太常寺も同様に「二十八宿旗・五星攝提旗は鹵簿図によれば人形や牛虎の頭・婦人・小児の類を描いているが礼に典拠がなく、元豊3年の礼文所の上言のとおり改製すべきところ、有司が旧儀を踏襲したまま改めていない。今こそ改造すべき」と上言し、これに従った。
  • 元符2年(1099年)、徽宗が即位し兵部侍郎の黄裳は「南郊大駕の諸旗の名物は典故による制号のほか、その時々の瑞祥に取材した名も多い。近ごろ元符年間に璽が茅山の上で授けられ、日輪に重輪が現れ、太上老君の眉間から紅光が発し、武夷君廟に仙鶴が現れたことがある。旗号として寳符・重輪・祥光・瑞鶴と名付けたい」と述べ、これに従った。
  • 政和4年(1114年)、礼制局は「鹵簿の大黄龍負圖旗には八卦が描かれているが、九一三七二四六八五の数に改め描くべきであり、仙童・網子・大神の三旗は典拠がないので除去すべき」と上言し、これに従った。大観3年(1109年)、西京頴陽県の大慶観聖祖殿の東に嘉禾と芝草が並び生え、嘉禾は一本に四穂、芝草は葉が円く重なって生じたことから、芝禾並秀旗が製された。またこの年2月、日の上に青赤黄の戴気が生じ、後に日の下に青赤黄の承気が生じたことから、日有戴承旗が製された。また元符2年に武夷君廟に仙鶴が現れたこと、政和2年(1112年)に延福宮の輔臣宴で群鶴が西北から来て睿謨殿上を旋回し、大晟楽が奏されると翔鶴がしばしば現れたことから瑞鶴旗が製された。政和8年(1118年)、礼部侍郎の張邦昌は「太祖の時代、甘露が江陵に十日降り、瑞麦が濮陽で六岐に穂を実らせ、金鸚鵡を壠坻で得、玉兎を鄆で得、馴象が至って五嶺が平定され、瓊管が族して白鹿が出たことがあり、いずれも旗章として製し陳ねるよう命じられた」と述べ、崇寧・大観以来今日までの中外の瑞応のうち殊に優れたものをことごとく取り上げ旗物を増製し、上は天の恵みを承け下は民の瞻仰を促すべきと請い、これに従った。宋は制がもとより盛んであったが、中興後はもっぱら簡約を旨とし、旧制を参用しながらも因革が少なくなかった。
  • 太常の旗は青質の夹羅で日月星のみを繍い龍を描かず、下に網鬚があり「茀」と呼び、竿頭には龍首を作り青い結綬を銜え青い旄緌を12垂らし「旒」と呼ぶ。蓋は幅の下に斿がなく竿首に旒を垂らすのは、古の旄・羽を竿首に注ぐ遺制を取ったものである。竿は椆木を用い剖竹で護り膠で藻玉の飾りを施す。玉輅にはこれを建てる。大旂は黄質9幅、幅ごとに升龍1を繍い側幅2、下に黄糸網緌9を垂らす。金輅にはこれを建てる。大赤は朱質7幅、幅ごとに鳥隼2を繍い側幅も同様、下に朱糸網緌7を垂らす。象輅にはこれを建てる。大白は素質5幅、幅ごとに熊1・虎1を繍い側幅も同様、下に浅黄糸網緌5を垂らす。革輅にはこれを建てる。大麾は皁質4幅、幅ごとに五采の龜蛇1を繍い側幅は龜2を繍い、下に皁糸網緌4を垂らす。木輅にはこれを建てる。
  • 黄龍負圖旗は建隆初年に創られ大きな架があり190人でこれを維持したが、今は70人で足りる。君王万歳・天下太平・日月・五星・北斗・招揺・青龍・朱雀・白虎・玄武など10旗はいずれも17人でこれを維持する。祥瑞旗8は紹興25年(1155年)に制されたもので、この年ちょうど郊祀にあたり太廟に霊芝が9茎生え、贛州が太平瑞木を、道州が連理木を、遂寧府が嘉禾を、鎮江府が瑞瓜を、南安軍が双蓮花を、厳州兠率寺・信州玉山が芝草を、黎州が甘露を進めたので、礼部侍郎の王珉らが華旗に描き盛美を記すよう請うた。

五牛旗

  • 方色に依り、いずれも小輿の上に木を刻んで牛を作り背に旗を挿し、錯采で牛を描く。旗竿の上に小盤があり盤衣及び輿衣にもまた牛の形を繍い、輿士各4人が繍の五色牛衣を着る。太祖の代に詔してこれを用いさせた。神宗の熙寧7年(1074年)、太常寺が「大駕鹵簿の羊車は本来前代の宮中で乗る乗り物であり、五牛旗はいにしえの五時の副車である。木牛に旗を戴せ人に輿がせるのは本来の制度を失っているので省くべき」と上言し、これに従った。

牙門旗

  • 古は天子が出るとき大牙を建てた。今の制では赤質・錯采で神人の象を描く。中道の前後にそれぞれ一門、左右道に五門を置く。門ごとに二旗を用いるのは、周の制に旗を樹て門を表し天子五門の制に取ったものである。

駕頭

  • 一名「寳床」といい、正衙の法坐である。香木で作り四足に山をあしらい龍を巻く。坐面は藤で雲龍を織り、四囲に錯采で走龍の形を繍い、微かに曲げて上に緋羅の繍褥を加え、緋羅の繍帕で包む。車駕が出るたびに老練な内臣が馬上でこれを擁して前駆となす。用いないときは朱匣に韜う。

  • 幡はもと「幟」で、翻る様子を「幡幡」という。告止・傳教・信幡があり、いずれも絳帛の錯采で文字を作り、上に朱緑の小蓋があり四角に羅の文佩を垂れ龍頭竿に繋ぐ。字は錯采で下に、告止は双鳳、傳教は双白虎、信幡は双龍を表す。また絳引幡があり制はほぼ同じだが五色間暈で文字がなく両角に佩を垂れる。中興以後は六角の蓋に珠佩を垂れ下に横木板を施し碾玉文を作る。三幡もまた錯采の篆書で告止・傳教・信幡と記す。

  • 制は節に似て五層をなし袋で韜い四神を繍って方色に随わせ、朱漆の柄を用いる。曲礼の「行前朱雀而後玄武、左青龍而右白虎」の義を取ったもの。王公に給する幢は黒漆の柄・紫綾の袋を用いる。中興以後は生色の袋を用いる。

皁纛

  • 本来後魏の纛頭の制で、唐の衛尉の器用の一つであり旄頭の遺象である。制は旗に似るが文采がなく鎞首・六脚を去る。後の志によれば今の制は皁辺・皁斿で斿は火焔の形をなし、金吾仗がこれを管掌する。纛ごとに1人が持ち1人がこれを支え、乗輿が行くときは鹵簿の左右にそれぞれ6を陳ねる。

絳麾

  • 幢に似るが三層のみで紫羅の囊で蒙う。王公の麾は紫綾の袋を用いる。

黄麾

  • 古には黄朱纁の三色があり指揮のためのものであった。漢の鹵簿には前黄麾護駕御史があった。宋の制では絳帛で幡のように作り錯采で「黄麾」の字を成し下に交龍を繍い朱漆竿・金龍首、上に朱緑の小蓋を垂らす。神宗の元豊2年(1079年)、詳定朝会御殿儀注所は「周礼によれば木輅は大麾を建て田猟に用いる。鄭氏は大麾は九旗の中に含まれず正色でいえば黒であるとする。礼記には有虞氏の旂、夏后氏の緌とあり、鄭氏は緌とは旄牛の尾を竿首に注ぐことで、いわゆる大麾であるという。書経には『王右秉白旄以麾』とあり、孔穎達は虞代はただ旄を注ぐのみで夏代に至って初めて旒縿を加えたという。西京雑記には漢の大駕に前黄麾があると、崔豹『古今注』には麾は指麾するもので乗輿には黄、諸公は朱、刺史二千石は纁とある。開元礼儀纂には唐太宗が夏后氏の前制に法り中方の正色を取り大麾の色を黄としたとある。今の礼にある黄麾はその制12幅、開宝通礼義纂には黄は中央の色であり、この仗が最も車輅に近いことから象を応じ中道に達し四方を含み光大を取るのだとある。今の鹵簿の黄麾は、夏の制で言えば形が旗に似ておらず、漢の制で言えば色がまた黄でない。大麾を一つ制し竿首に旄を注ぐことで夏后氏の制に法り、色を正黄として漢制を用い、12幅を旗とすることで唐制を取り、一旒とすることで今の龍墀旗の制を取るべきである。元会の陳仗衛では当御廂の前に大黄麾一を建て標識とし、当御廂の後には黄麾幡二を見せ、大黄麾・黄麾旛の制度を上に併せるべきである」と上言した。神宗は「黄麾の制度は前志を考詳しても終始疑わしい。今、鑿って作り大庭に植え中外がこぞって瞻る地に置いては博聞多識の者に譏られるかもしれない。しばらく措いて更に討求を待つべきであり、黄麾は旧のままとせよ」と批した。

  • 本来は鳥毛を集めて作られた。唐には六色があり孔雀・大小鵞毛・鶏毛の制があった。後の志によれば今の制には青・緋・皁・白・黄の五色があり、上に朱蓋、下に帯を垂らし帯には禽羽を繍い末端に金鈴を綴る。青は孔雀を繍い五角の蓋、緋は鳳を繍い六角の蓋、皁は鵞を繍い六角の蓋、白も鵞を繍い四角の蓋、黄は雞を用い四角の蓋とする。角ごとに垂佩を綴り、朱竿の上に戟のような横木の龍首を掲げこれに繋ぐ。

金莭

  • 隋の制である。黒漆の竿の上に円盤を施し8層に紅絲の払を綴り、黄繍龍の袋でこれを籠める。王公以下いずれも節を持つが制は金節と同じ。

  • 碧油で韜う。古は帛を張って雨を避ける制であった。今は方繖・大繖があり、いずれも赤質・紫表・朱裏で四角に銅螭首を付ける。六引内のものはやや小さい。哲宗の元祐7年(1092年)、太常寺は「開元礼では大駕は八角紫繖、王公以下は四角青繖とあるが、今の鹵簿図には紫繖しか記されておらず青繖の記述がない」と述べ、詔により改めて用いさせた。紹興13年(1143年)、郊祀を控え繖扇などは旧制のとおり珠飾を用いないよう詔された。

  • 本来黄帝の時代の雲気が花の姿をなしたことから作られたという。宋には花盖・導盖があり、いずれも赤質で繖に似て円く瀝水に花龍を繍う。また曲盖がありやや小さく、乗輿にのみ用いるが臣下には親王あるいは賜与された者が青繒に瑞草を繍って用いる。

睥睨

  • 華盖に似てやや小さい。

扇筤

  • 緋羅繍扇2・緋羅繍曲盖1で、いずれも内臣が馬上でこれを執る。駕頭は細仗の前に、扇筤は乗輿の後にあり、大駕・法駕・鸞駕の常出にはいずれもこれを用いる。

  • 円径4尺2寸、柄の長さ8尺3寸、黄茸に龍を繍い金塗銅の飾りを用いる。扇には朱団・雉尾の四等があり、朱団は雲鳳あるいは雑花を繍い黒漆柄に金銅の飾りを用いる。雉尾は方形に雉尾の姿を繍い三等あり、大雉扇は長さ5尺2寸・幅3尺7寸、中扇・小扇はそれぞれ2寸ずつ減じ、下方上殺の形で緋羅に雉尾の姿を繍い中に双孔雀・雑花を配し、下に黒漆の横木の長柄を施し金塗銅で飾る。乗輿の出入りには必ず前に持たせて障蔽する。朔望の朝賀・冊礼を行うとき、皇帝が御坐に登るときは必ず扇を合わせ、坐に着いたら扇を去り、礼が終わり駕が退くときはまた扇を索める。これは天子の昇降俯仰を衆人にすべて見せることは粛穆の容にそぐわないので、必ず扇を合わせて障蔽するという意である。

䍐罼

  • 畢宿・昴宿は天階を象るので前引とされる。いずれも赤質・金銅の飾り、朱縢に結網、金の獣面の䍐は方形で上に二螭首があり紅糸の払を銜える。罼は円形で扇に似る。

香鐙

  • 唐の制である。朱漆の案に緋繍の花龍衣を掛け、上に金塗の香炉・燭台の長竿2を設け、輿士8人が担う。金塗銀の火鐐・香匙が副える。

大角

  • 黒漆に龍を画き紫繍龍の袋を用いる。

長鳴・次鳴・大小横吹

  • 五色の衣旛は緋の掌に交龍を画く。楽令によれば三品以上は緋の掌に蹲豹を画く。

犦矟

  • 犦は撃つ音である。一説に象牛が闘いを好むことに因み字が牛に従うという。唐では金吾将軍がこれを執った。宋の制では節に似て袋があり上に碧油を加え、常には朝堂に置かれる。車駕の鹵簿が出るときは8枚を前導とし、さらに4枚を大将を夾んで「衛司犦矟」と称する。

  • 長矛である。木の刃で黒質、雲気を画く。また細矟があり制は同じだがやや小さい。

  • 枝を持つ兵器である。木を刃とし赤質、雲気を画き上に交龍を垂らし五色帯を掌り帯の末に銅鈴を綴る。鈒戟は掌がなく小横木があり「鈒」は挿すことで、もとは車の傍に挿す制である。また小戟があり鈒戟と同じである。

  • 叉・戟の類である。殳は刃がなく黒く両端を短く飾り、叉は青く両端を飾りいずれも中は白く雲気を画き、それぞれ朱糸の払を綴る。

  • 矛である。唐の羽林が執った制と同じで矛に似るが鉄の刃で上に朱糸の払を綴る。

儀鍠

  • 鉞の類である。秦漢にすでにあり唐は儀仗として用いた。木を刻んで斧の形とし青く塗り柄は黄、上に小錦幡・五色帯を綴る。

班劔

  • もとは漢の朝服帯劔であり、晋が木でこれに代え「象劔」とも呼んだ。装飾の斑斕たる意を取る。鞘は黄質・紫班文で金銅の飾り、紫糸の絛・帉錔を用いる。

御刀

  • 晋宋以来のものである。黒鞘・金花銀飾り、靶□は紫糸の絛・帉錔。また儀刀は制が同じでいずれも銀で飾り、王公にもこれを給する。

刀盾

  • 刀はもとの容刀であり、盾は旁排で1人がこれを分持する。刀は木で作り鞘がなく環があり紫糸の絛・帉錔を用いる。盾は赤質で異獣を画き、また朱縢絡盾は制がすべて同じだが緑縢のみ緑質で特に持たれる。

幰弩

  • 漢の京尹・司隷が前駆で弓を持ち窺う者を射た制である。宋の制では弩ごとに矢2を加え靫があり雲気を画く。仗内の弩はいずれも同じである。

弓箭

  • 弓ごとに矢2を加え靫があり幰弩と同じである。

車輻棒

  • 車輪の輻の形をしている。宋の制では朱漆8稜・白幹を用いる。

哥舒

  • 黒漆の棒である。制は車輻に同じで金銅釘で飾る。

鐙杖

  • 黒漆の弩柄である。金銅で鐙及びその末端を飾り紫糸の絛で繋ぐ。

鳴鞭

  • 唐及び五代にあった。周官の条狼氏が鞭を執って趨く者を辟けた遺法である。内侍2人がこれを執り、鞭鞘は紅糸を用い蝋を漬ける。行幸には前駆でこれを鳴らし、大祀の礼が終わり還宮するときも用い、視朝・宴会には殿庭で用いる。

誕馬

  • 散馬である。金塗銀の閙装鞍勒のようなもので、乗輿には紅繍の韉6鞘を用い、王公以下は紫繍及び剜花の韉を用いる。哲宗の元祐7年(1092年)、太常寺は「誕馬は鹵簿図によれば旧はいずれも鞍韉を施していたが景祐5年(1038年)に去られ、先に納后の誕馬にはなお鞍韉を施したが、今後は除去し鹵簿図のとおり纓轡・緋屜を用いるべき」と述べた。

御馬鞍勒

  • 金・玉・水晶・金塗の四等があり、閙装・䩞鞢・促結を坐龍・碾鈒・鏤塵沙・面平・面窪・面方団・寸節・卷荷の校具とし、いずれも6鞘を垂らし金銀で鞍橋・銜・鐙・朱黄糸の絛・轡・鞦を裹み、緋黄の織繍あるいは素の圜韉・□(底本欠字)襆は金銀の綫で織るか緋黄の絁を用い、鞭は紫竹に紅黄糸の鞘、纓は紅黄犛牛尾を用い金で缺を作る。毎日の馬5匹は供奉官が用い玉及び金塗の□(底本欠字)襆はいずれも素、行幸には14匹を用い真金・水晶の飾りを加える。太宗の至道2年(996年)、詔により先には御馬に織成の帊で鞍勒を覆っていたが以後は広絹に代えさせた。

馬珂

  • 銅面・鵰翎・鼻払・攀胸の上に銅本葉・紅糸の払を綴り、また胸前・腹下にはいずれも攀があり銅鈴を綴り、後には跋塵・錦包尾があり、鹵簿中で金吾衛将軍の導駕者だけがこれを有する。

甲騎具装

  • 甲は人の鎧、具装は馬の鎧である。甲は布を裏とし黄絁で表し青緑で甲文を画き、紅錦褖・青絁の下裙、絳韋の絡、金銅鉠は長短で膝に至り前膺は人面二つで背から連なる膺は錦で纏う。螣蛇の具装は常馬の甲と同じで珂払を前膺及び後鞦に加える。

毬杖

  • 金塗銀裹で供奉官が騎ってこれを執り左右に分かれ前導する。大礼には100人を用い花脚幞頭・紫繍䙆袍襖を着け、常出には30人を用い公服でいずれも騎って導く。

雞竿

  • 竿に付けて鶏の形とし金で首を飾り絳旛を銜え綵盤で承け絳索で維ぎ長竿に掲げ、衛士を募って先登し鶏を得ることを争わせ、官が纈襖子を給するか絳旛を取るのみとする。大礼が終わり麗正門で赦を行うときにこれを設ける。その意味は鶏が巽神であり巽は号令を主るので号令を宣するとき象り、陽が事を用いるとき鶏が鳴くので陽澤を布くときに象ったという説と、天鶏星が動けば赦があるとされ王者が天鶏を度としたことに因み「金鶏」と呼ぶという説があり、六朝にすでにあったとも西京に起こったともいう。南渡後は紹興13年(1143年)から始まった。

大駕鹵簿巾服の制

  • 金吾上将軍・将軍・六統軍・千牛中郎将は花脚幞頭・抹額・紫繍袍を着け牙刀を佩び珂馬に乗る。
  • 諸衛の大将軍・将軍・中郎将・折衝・果毅・散手翊衛は平巾幘・紫繍袍・大口袴・錦螣蛇・銀帯を着け横刀を佩び弓箭を執る。
  • 千牛将軍は平巾幘・紫繍袍・大口袴・銀帯・鞾靿を着け横刀を佩び弓箭を執る。珂馬の千牛は花脚幞頭・緋繍袍・抹額・大口袴・銀帯・鞾靿を着ける。
  • 前馬隊内の折衝及び矟を執る者は錦帽・緋繍袍・銀帯を着け、監門校尉・六軍押仗は幞頭・紫繍裲襠を着け、隊正は平巾幘・緋繍袍・大口袴を着ける。
  • 諸衛の主率・都尉・引駕騎・持鈒隊内の校尉・旅帥、衛司殳仗・犦矟を執る者、金吾十六騎、班劔儀刀隊・親勲翊衛で大角を執る者は、いずれも平巾幘・緋繍裲襠・大口袴を着け横刀を佩び弓箭を執る。
  • 金吾の押牙は金鵞帽・紫繍袍・銀帯・儀刀を着け、金吾の纛を持つ者は烏紗帽・皁衣袴鞵韈を着け、金吾の押纛は幞頭・皁繍衫・大口袴・銀帯・烏皮鞾を着け、金吾犦矟を執る者は錦袍帽・臂韝・銀帯・烏皮鞾を着ける。
  • 清游隊の佽飛で副仗の矟を執る者は甲騎具装・錦臂韝を着け横刀を佩び弓箭を執り白袴を着ける。朱雀隊で旗及び牙門旗・絳引旛・黄麾旛を執る者は、いずれも緋繍衫・抹額・大口袴・銀帯を着ける。
  • 殳仗を執る前後の歩隊・真武隊で旗を執る者、前後部黄麾で日月合璧等旗・青龍白虎隊・金吾細仗内の旗を執る者は、いずれも五色繍袍・抹額・行縢・銀帯を着ける。白竿棒を執る人は銀褐捍腰を加える。龍旗を執る者及び前馬隊内で旗を執る人は、五色繍袍・銀帯・行縢・大口袴を着け弓箭を執る。龍旗の副竿を執る人は錦帽・五色繍袍・大口袴・銀帯を着け弩を執り弓箭を持つ人は錦帽・青繍袍・銀帯を着ける。前後歩隊の人は五色鍪甲・錦臂韝・鞵韈袴・銀帯を着ける。
  • 朱雀隊内で弓箭・弩・矟を執る者、虞候佽飛で長寿幢を執る者、寳輿・法物を執る人はいずれも平巾幘・緋繍袍・大口袴・銀帯を着ける。援寳で絳麾・真武幢义を執る人はいずれも武弁・紫繍衫を着ける。持鈒隊・殿中黄麾・繖扇・腰輿・香鐙・華盖・指南・進賢等の車駕士や相風・鐘漏等の輿の輿士はいずれも武弁・緋繍衫を着ける。
  • 羊車を駕す童子は垂耳髻・青頭□・青繍大袖衫袴・勒帛・青耳履を着ける。引駕の龍墀旗・六軍旗を執る者は錦帽・五色繍衫・錦臂韝・銀帯を着け、旗を夾んで引く者及び哥舒・鐙仗を執る者は帖金帽を着けるが他は同上である。花鳳・飛黄・吉利旗を執る者は銀褐繍衣・抹額・銀帯を着ける。夾轂隊は五色質の鍪鎧・錦臂韝・白行縢・紫帯・鞵韈を着け、驍衛翊衛三隊は平巾幘・緋繍袍・大口袴・錦螣蛇を着ける。
  • 五輅・副輅・耕根車の駕士は平巾幘・青繍衫・青履韈を着け、教馬官は幞頭・紅繍抹額・紫繍衫・白袴・銀帯を着ける。掌輦・主輦は武弁・黄繍衫・紫繍誕帯を着け、御馬を攏る者は帖金帽・紫繍大袖衫・銀帯を着ける。真武幢を執る者は武弁・皁繍衫・紫繍誕帯を着け、五牛旗の輿士は武弁・五色繍衫・大口袴・銀帯を着ける。掩後隊は黒鍪甲・錦臂韝・行縢を着け、皷吹令丞は緑袴褶冠・銀褐裙・金銅革帯・緋白大帯・履韈を着ける。太常寺の府史・典事・司天令史は幞頭・緑衫・黄半臂を着ける。
  • 太常主師の掆皷・金鉦・莭皷の人は平巾幘・緋繍袍・大口袴・抹帯・錦螣蛇を着け、歌・拱宸管・簫・笳・笛は螣蛇なしとする。太常の大皷・長鳴・小皷・中鳴は黄雷花袍袴・抹額・袜帯を着け、太常の鐃・大横吹は緋苣文袍袴・抹額・袜帯を着け、太常の羽葆皷・小横吹は青苣文袍袴・抹額・袜帯を着ける。排列官・令史・府史は黒介幘・緋衫・白袴・白勒帛を着け、司辰・典事・漏刻生は青袴褶冠・革帯を着ける。
  • 殿中少監・奉御・供奉排列官、引駕仗内の排列承直官・大将、金吾引駕・押仗・押旗は幞頭・紫公服・烏皮鞾を着け、尚輦奉御・直長・乗黄令丞・千牛長史・進馬の四色官は幞頭・緑公服・白袴・金銅帯・烏皮鞾を着け、殿中職掌で繖扇を執る人は幞頭・碧襴・金銅帯・烏皮鞾を着ける(旧は黄衣を用いたが太平興国6年(981年)に内侍省とともに碧に改めた)。
  • 繍文について、金吾衛は辟邪、左右衛は瑞馬、驍衛は雕虎、屯衛は赤豹、武衛は瑞鷹、領軍衛は白澤、監門衛は獅子、千牛衛は犀牛、六軍は孔雀、楽工は鸞、耕根車駕士は鳳・嘉禾を用い、進賢車は瑞麟、明遠車は対鳳、羊車は瑞羊、指南車は孔雀、記里皷は黄鉞車の対鵞、白鷺車は翔鷺、鸞旗車は瑞鸞、崇徳車は辟邪、皮軒車は虎、属車は雲鶴、豹尾車は立豹、相風烏輿は烏、五牛旗は五色牛を用い、それ以外はすべて寳相花を用いる。

六引内使服の制

  • 清道官は武弁・緋繍衫・革帯を着け、幰・駕車輻棒を持つ者は平巾赤幘・緋繍衫・赤袴・銀帯を着け、青衣は平巾青幘・青袴褶を着け、戟・繖扇・刀盾を持つ者は黄繍衫・抹額・行縢・銀帯を着け、旛盖を持つ者は繍衫・抹額・大口袴・銀帯を着ける。内、告止旛・曲盖は緋、傳教旛・信旛・絳引旛は黄を用いる。誕馬の轡・儀刀・麾幢・莭を執り矟を夾み大角を執る者は平巾幘・緋繍衫・大口袴・銀帯を着ける。大駕鹵簿内で轡を執る者はいずれも錦絡衫帽を着け、弓箭・矟を持つ者は武弁・緋繍衫・白袴を着け、駕士は錦帽・繍戎服・大袍・銀帯を着け弓箭は青、矟は紫を用いる。掆皷を持つ者は平巾幘・緋繍対鳳袍・大口袴・白袜帯・錦螣蛇を着け、鐃吹部内は平巾幘・緋繍袍・白袜帯・白袴を着け、他はすべて大駕前後部と同じである。
  • 繍衣の文様は、清道は雲鶴、幰弩は辟邪、車輻は白澤、駕士のうち司徒は瑞馬、牧は隼、御史大夫は獬豸、兵部尚書は虎、太常卿は鳳、県令は雉、楽工は鸞を用い、それ以外はすべて寳相花を用いる。
  • 太祖の建隆4年(963年)、范質が議した。開元礼によれば武官が大仗に陪立するとき螣蛇裲襠を加えるが、これは袖がなく身のみを覆い胳膊の下を覆うもので肩から領にかけて臂膊を覆う幅は共に1尺2寸である。また『釈文』玉篇によれば、相伝によれば当胸を一つ、当背を一つとして「両当」と呼ぶという。今、裲襠の制を詳しく調べると、その領が胳膊を覆う部分は一つが左膊に、一つが右膊に当たるので「起膊」と呼ばれる。両説をともに存し取捨して用いるべきであり、裲襠を作るには当胸・当背の制を用いるべきである、と。
  • 宣和元年(1119年)、礼制局は「皷吹令丞の冠は別名『袴褶冠』というが、今の鹵簿ではすでに袴褶冠の名を除いており今の名にそぐわない。旧記のとおり『三礼図』の委貌冠の制に依るべき」と上言し、これに従った。