宋史卷一百四十四 儀衞志第九十七 儀衞二

宮中導從

  • 宮中で天子に付き従う行列の制度は、唐以前には見られない。五代・後漢の乾祐年間(948-950年)に初めて置かれ、輦を担ぐ主輦16人・足を捧げる者1人・扇を持つ者4人・踏み台を持つ者1人(いずれも文綾の袍・銀葉弓脚幞頭)、尚宮1人・寳省1人(高鬟・紫衣)、書省2人(紫衣・弓脚幞頭)、新婦2人(高鬟・青粧)、大將2人(紫衣・弓脚幞頭)、紅絲拂を執る童子2人(高鬟髻・青衣)、犀盤を執る者2人(帶鬅頭・黄衫)、翟尾を執る者2人(帶鬅頭・黄衫)、雞冠2人(紫衣)が金の灌器・唾壺を分けて執り、女冠2人(紫衣)が香爐・香盤を執って左右に分かれ、次第に前導した。
  • 太宗の太平興国初年(976年)、玉輦の担ぎ手を24人増やし、高脚幞頭に改め、輦頭1人(紫繡装・金塗銀の仗を持ち督領)、珠玉七寶の翠毛華樹を奉る者2人、金寶山を奉る者2人、龍腦合を奉る者2人(いずれも高脚幞頭)、拂翟を執る者4人(鬅頭・黄繡装、旧は綾装だったが紫衣の者は銷金・繡に改めた)、さらに司簿1人・内省1人・司儀1人・司給1人を増し、左右に分かれて前導し、あわせて17行となった。正旦・冬至の御殿・郊廟の祭祀のたびに歩輦で長春殿へ出入りするときに用いた。輦に乗る作法は右足を屈し左足を垂れて几に寄りかかるという唐の制であった。真宗の代に四面内官の周衛を加え、大中祥符3年(1010年)に図を描かせて宰相に示した。

行幸儀衞

  • 宋初の三度の親祭では礼典に基づく大がかりな儀仗を用いたが、車駕が普段近くへ出るときは常従のみで行った。殿前司の随駕馬隊は、諸班直・内殿前指揮使が全員随行し、左班76人(うち24人が駕前左側で引駕、52人が2隊に分かれて馬で随行)、右班77人(うち24人が駕前右側で引駕、53人が駕後で2隊に分かれ随行、27人が第1隊26人、第2隊)、内殿直54人・散員64人・散指揮64人・散都頭54人・散祗候54人・金鎗54人・茶酒班祗應の殿侍157人・東第二班長入祗候の殿侍18人・駕後の動樂31人・馬隊弩手(東西あわせて)85人・招箭班35人・散直107人・鈞容直320人・御龍直142人・御龍骨朶子直220人(全員が随行)・御龍弓箭直133人・御龍弩直133人・寛衣天武指揮216人(それぞれ都虞候・指揮使などの員僚を持つ)。馬隊を用いない場合は、内殿直・散員・散指揮・散都頭・散祗候・金鎗などの直を減らし、東西班の馬隊弩手も85人に減らし、他は同様とした。
  • 皇城司随駕の人数は、崇政殿祇応の親従が4指揮・計252人で骨朶を執って禁衛にあたり、崇政殿門外の快行祇応の親従は第四指揮54人、車駕導従の両壁に随行する親従・親事官は計96人で駕前に先行し、行幸先で行宮司として門の警固・清掃にあたった(それぞれ正副都頭・節級・十將を置く)。
  • 尚書兵部が供する黄麾仗内の法物には、䍐罼各1、五色の繡氅子(龍頭竿に掛ける)第1青繡孔雀氅、第2緋繡鳳氅、第3青繡孔雀氅、第4皁繡鵝氅、第5白繡鵝氅、第6黄繡雞氅がある。六軍儀仗司が供する儀仗法物には、獅子旗4口(門旗を兼ね、2口を各1人が執り左右に分け、2口を各10人が撦を執り左右に分け、撦を執る者は弓箭を執る)がある。
  • 左金吾引駕仗が供する牙門旗14口のうち10口は5門を開き、毎門2口・各1人が執り2人が夾む計30人が騎で夾んで弓箭を執り、監門校尉20人(毎門4人、儀刀を帯び騎乗)。うち2口は前部甲第七隊の前、2口は前部黄麾第一隊の前、2口は後部黄麾第一隊の前、2口は後歩甲第一隊の前、2口は後歩甲第七隊の前に配し、4口は2門を開き毎門2口・毎口1人が執り2人が夾む計12人・監門校尉6人(儀刀を帯び騎乗)。うち2口は兵部班劔儀刀隊の後、2口は真武隊の前に配す。右金吾引駕仗も同様に牙門旗14口を供し、制度は左仗と同じ。
  • 仁宗の康定元年(1040年)、参知政事の宋庠が上奏し「車駕の行幸は郊廟の大礼ではなく、鹵簿を仰々しく並べる場ではないので、常日の導従は駕頭を前に、繖扇を後に擁するのみでよい。しかるに礼典が定める公卿奉引の盛儀のごとく、侍従から百司の官属、下は厮役に至るまで雑然と行列し、歩輦の後にはただ親事官百余人が檛を執って殿し、これを『禁衛諸班』と呼んでいる。勁騎は乗輿からずいぶん離れ、士庶の見物人はこぞって随行者を追い、道を挟んで馳せ走り、喧しく呼び立てても禁じられない。通過する旗亭・市楼は簾を垂れて士民を隠さず、高みから見下ろして憚る様子もなく、邏司・街使も咎めず放置しており、威令が弛み、旄頭が先導し清道して行く慎みが失われている。黄帝ほどの神功盛徳をもってしても師兵を借りて営衛し防微したのだから、漢魏以降には大駕・小駕の儀があり、唐には殿中諸衛・黄麾等仗の名数次第がそれぞれ定められていた。国朝は五代の荒廃を受け継ぎ、簡略に流れ、鳴鑾游豫のたびに戈戟旌旗の制度を廃してしまい、儀衛は薄く藩鎮同然になっている。これは制度が失われ改作を憚った咎であるから、博学の近臣に前代の儀注・鹵簿令を考究させ、乗輿が常時出入りする儀を三駕の諸仗と比較し、その中ほどを取って儀物をやや増し、法禁を厳しくして尊極を示し、未然を防ぎ、因循を改めるべきである」と述べた。詔により太常礼院と両制が旧儀を参照しつつ新制を定めるよう命じられ、両制と礼官が協議し、ほぼ小駕の制度に準じて次のように定めた。
  • 青道馬を加え、䍐罼・旗・氅などの品を添え、常行の禁衛儀とした。清道馬100匹を加え、いずれも器械を帯びさせ5行に分け1行20人とし(殿前司に命じ諸班から差し出させる)、䍐罼合1(左右に分け騎乗)、牙門旗を前後各4(左右に分け騎乗)、緋繡鳳氅24(左右に分け騎乗、殿前司に諸班から差し出させる)、雉扇12(左右に分け、親從官から差し出す)、以上新たに162人を加えた。
  • 天武官はもと216人が空行だったが哥舒を執らせて一重を加え、親從官はもと145人だったが155人を加えて計300人で一重とし、殿前指揮使はもと48人だったが152人を加えて計200人とし、近上の諸班と兼ねて差し出し騎乗で一重とした(もとの人数に加えたもの:もと409人、新たに307人を加え計716人)。
  • 駕前の殿前指揮使・親從官は二重をなし、左右相対してそれぞれ2丈ほどの門を2つ開き、毎門に員2人を差し押さえて、第一門は通事舎人と相対し、第二門は閤門使と相対する。臣僚が迎駕して起居するときは中道で起居を待たせ、終われば左右の門から出す。その他の諸色人は牙門旗の前・道傍で起居させ、禁衛の中には入れない(毎門外の重には殿前指揮使に旗2面を執らせて門の目印とし、転光錯綵旗と合わせて計五重、いずれも後方で団転する)。百司祇應の人で禁衛内に職掌を持たない者、随駕の臣僚で禁衛に随従すべき人数を超える者は、殿前指揮使の外の左右前後を歩かせる。
  • 前の牙門旗より後、後の牙門旗より前は禁衛の中とし、みだりに入ることを禁じる。中書・枢密院の臣僚は従の第三重の寛衣天武の内を騎行し、その他の随駕文武臣僚は従の第四重の殿前指揮使の内を、官位により左右に分かれて騎行する。車駕の通行先に楼閣があれば簾を垂らして視界を遮らせず、士庶が高みから見下ろすのを禁じ、街の両側に立って見物させるが、道を挟んで喧しく馳せ走ることを禁じる(前の牙門旗より前、後の牙門旗より後はこの限りでない)。車駕が皇城の門・宣徳門・左右掖門・東華門・拱宸門を出ていない、あるいはすでに行幸先に着いた場合は自ずと門禁があり牙門旗の約束を用いない。車駕がすでに道にあり前の牙門旗が行っても後の牙門旗が未行のときは、閑雑な通行人を止める以外、随駕の臣僚・官司の人らは常例どおり次第に随従・行馬の位置に赴いてよい。
  • 前の牙門旗は清道馬の後ろ約10歩、後の牙門旗は駕の後ろの殿前指揮使の後ろに位置する。街巷が広い所では儀衛は新しい図に従って並べ、狭い街巷では禁衛は親從官二重・御龍直二重・雉扇のみを輦に随わせ、殿前指揮使・天武官は駕の前後に分かれて随行し、広い所に至れば乗輿は徐行して儀仗を旧に復す。駕が園苑・宮觀・寺院・臣僚の邸宅へ行くときは清道馬・儀仗・殿前指揮使・天武官はそれ以上入らず外に排立し、随駕の臣僚・諸司の人は常例どおり随従して駕の巡行を待つ。臣僚の邸宅が通行できない路地にあれば、儀仗・殿前指揮使らは路地口に排立して通行人を止め、他は通常どおりとする。詳定・閲習が終わったが「新制は厳密すぎて違反者が多く出るのではないか」との意見があり、実施されなかった。
  • 嘉祐6年(1061年)、先に睦親宅への行幸で駕頭を抱えていた内臣が落馬し駕頭を壊したため、太常礼院・閤門・整肅禁衛所が「今後、車駕の出御には閤門祗候と内臣各2員が駕頭の左右で扇筤を分け持ち、後を編攔させ、皇城司の親從官20人にこれに随行させる」よう請い、許された。
  • 哲宗の紹聖2年(1095年)、車駕行幸の儀衛について詔があり、駕後の東西班殿侍馬2隊を駕前の編攔に発し、両壁に分かれて前引行門の前を行かせ、随身の器械には別に銀骨朶を給し、駕後馬隊の殿前指揮使馬は100人を4隊に分け、不足分は人数に応じて均等に差配し、さらに人員6人を別に差し、内殿直・散員・散指揮・散都頭・散祗候をあわせて104人に増やして4隊に分け隊ごとに人員各4人とし、金槍班は1隊増やして78人とし人員3人、弩手班は2隊増やして東西班殿侍馬2隊が空けた分に充て、禁衛の御龍直・弓箭直・弩直・長行にもそれぞれ銀骨朶を加給し、禁衛の外に編攔天武の人員長行あわせて200人を増員し、行き届いた古参の人を選んで充てた。出入りは宣徳門外で止め、行在所に至れば行宮門外南で止まる。
  • 渡江後、乗輿の出入りには当初儀がなく、高宗が韋太后を郊外で迎えるにあたり常行の儀仗を製し、黄麾仗2265人を用いた。孝宗朝、徳壽宮では1000人を減らし、殿前司629人・皇城の在内廵検司391人・崇政殿449人、あわせて1469人を用いた。四孟(四季の初め)に景霊宮に詣でるときは殿前司875人・皇城の在内廵検司528人・崇政殿521人、あわせて1924人を用いた。
  • 淳熙9年(1182年)正月、詔により「駕が出るときは後殿に坐して宰執・百官が儀衛らとともに後殿に赴いて起居し、殿上で登輦し後殿門を出て、駕が還れば祥曦殿門から入る」と定められた。

太上皇儀衞

  • 隆興元年(1163年)、孝宗の即位にあたり有司に徳壽宮の輿輦儀衛を討論させた。先立つ紹興32年(1162年)6月、上皇(高宗)の日常の朝殿には御龍直43人を差して仗を執り排立させ、繖扇を設け鞭を鳴らし、宰執が退朝すればそのまま徳壽宮に赴いて起居することが詔されたが、上皇はこれを受けず、詔は再度出された。有司は「漢の未央宮・唐の興慶宮でもその車輦儀衛は記録に載らないが、今、父が堯、子が舜のごとく、事親の典礼として古今にない備えを興すべきであり、当に義を起こして尊崇を極め万世の法とすべきである」と上言した。
  • そこで宰執・百官が徳壽宮に詣でて起居するときは、禁衛所が後殿坐の儀に依り禁衛297人を排列し、行幸には禁衛所が行門・禁衛諸班直・天武親從宮・繖扇・鳴鞭・燭罩などあわせて500人を差し随行扈従することと定めた。前引70人(内訳:行宮殿前・崇政殿の親從10人、都下親從20人、快行親從20人、殿前指揮使20人)、中道60人(編排禁衛行子10人、御龍直の執従物30人、天武10人)、従政殿親從の攔前10人、禁衛の圍子四重400人(第一重は崇政殿親從100人、第二重は御龍直・骨朶直・弓箭直30人と東西班70人、第三重は執燭罩の都下親從100人、第四重は内殿直10人・散員散指揮散都頭散祗候金鎗銀鎗班各10人)、後從の殿前指揮使20人。

后妃儀衞

皇太后儀衞

  • 乾興元年(1022年)、仁宗が即位し章献太后が政治に参与するにあたり侍衛が盛んになり、礼儀院の上奏により皇太后が乗る輿の名を「大安輦」と定めた。
  • 天聖元年(1023年)、有司が言う。皇太后の車駕の出御には護衛を設け、御龍直(都虞候1・都頭2・副都頭1・長行50人と十將以下)、骨朶子直(都虞候1・都頭2・副都頭2・十將と長行80人)、弓箭直(指揮使1・都頭2・副都頭2・十將と長行50人)、弩直(指揮使1・都頭2・副都頭2・十將と長行50人)、殿前指揮使の両班(左班は都虞候1・都知1・行門3・長行20人が器械を帯び、右班も同様)、皇城司禁衛200人、寛衣天武200人、供御輦官62人、寛衣天武100人、その他諸司祇應・鳴鞭・侍衛は乗輿に準ずる、と定められた。
  • 英宗即位の年(1063年)、太常礼院が「再度詳定した皇太后出入儀衛は、御龍直(都頭2・長行25人)、骨朶子直(都頭2・長行40人)、弓箭直(都頭2・長行25人)、弩直(都頭2・長行25人)、殿前指揮使両班(各都知1・行門各2・長行各10人、器械を帯びる)、皇城司禁衛100人、寛衣天武150人、打燈籠子親事官80人、入内都知・御藥院官各1員、内東門司使臣2員、御輦院短鐙・教駿・攏馬親事官・入内院子・諸司・入内内侍省の祇應内品は人数不定」と定め、詔により嘉祐8年(1063年)の例に依らせた。
  • 治平元年(1064年)、太皇太后の出入りは鳴鞭のみを行わず、他の儀衛は章献明肅(劉太后)の故事に依ると詔された。
  • 治平4年(1067年)、神宗が嗣位し、太皇太后の儀範はすでに定まっているので皇太后の儀衛を新たに定め、御龍直・骨朶子直に都虞候・都頭・副都頭各1人と十將・長行あわせて各30人を差し、弓箭直・弩直に指揮使・都頭・副都頭各1人と十將・長行あわせて各20人を差し、皇城司親從官100人が骨朶を執り、寛衣天武官150人が圍子を務め、行宮司人員100人・入内院子50人が圍子を務め、皇城司親事官80人が打燈籠・短鐙馬・攏馬を務め、親從官・金銅車・㯶車・随車子・祗應人・擎襜子・供御輦官・執擎従物などは供御次供御及び都輦直等の人数不定とし、都知1員・御藥院使臣2員・内東門司使臣2員・内酒坊・御厨・法酒庫・儀鸞司・乳酪院・翰林司・翰林院・車子院・御膳・素厨・化成殿・果子庫はいずれも従い、出るときは新城門から出て、器械を帯びた内臣を添え差した。
  • 哲宗即位の元祐元年(1086年)、詔により太皇太后の出入り儀衛は章献明肅皇后の故事に依り、考えがたい部分は慈聖光献皇后の例に依ることとされた。ほどなくまた詔があり、太皇太后の出入り儀衛に御龍骨朶子直36人・御龍弓箭直45人・御龍弩直45人・皇城司禁衛50人・馬隊350人・東西班茶酒班殿侍あわせて100人を加え、快行を20人に増やし、軍頭引見司監官2員はともに承局等子を率いて随駕の例に依り祇應し、鈞容直・動樂殿侍は開樂の際に候して旨を取った。仁宗・英宗・哲宗の時代、太后が朝に臨み簾を垂れる儀従もまた華美を崇めず、ただ「儀衛」とのみ言い「鹵簿」の名を用いなかった。
  • 渡江後はいっそう簡素になり、車は輦を用いず輿を用い、あとは繖扇のみとなった。紹興年間に太母(韋太后)を迎え奉る際は精一杯礼を備えたが、それでも「太后は天性朴素で、過度な装飾は憚る」とし、儀従の器物はただ塗金とし、前に黄羅の繖扇2・緋黄繡の雉扇6・紅黄緋金の拂扇2・黄羅の暖扇2を用いた。景霊宮・太廟へ朝謁するときは禁衛の諸班直・天武・親從500人を用い、その前引・中道・圍子は皇帝の儀衛と同じくして、規模をやや省いた。

皇太妃出入儀衞

  • 哲宗の紹聖元年(1094年)、三省・枢密院が皇太妃出入儀衛を増崇するよう上言した。龍鳳扇20、侍従官は入内省都知あるいは押班1員、内侍省都知あるいは押班1員、皇城司・御藥院・内東門司各1員、帶御器械の内侍8員、引喝内侍1員、殿前指揮使32人(内、人員2人)、御龍直33人、骨朶子直33人、弓箭直23人、弩直23人、天武官154人、皇城司禁衛100人、入内院子50人、行宮司100人、輦宮供御62人・次供御49人・下都58人、燭籠70、諸司の御燎子・茶牀・快行親從4人。
  • 礼部・太常寺がまた言う。元祐3年(1088年)詔で皇太妃の繖は紅黄羅を用いると定められ、参議の結果、皇太后の出入りは紅黄を兼用しており、皇太妃だけが黄を用いるのは差を設ける趣旨に反するので紅黄を兼用すべきとし、太皇太后の出入りは紅のみを用いることとした。
  • 徽宗の崇寧元年(1102年)、臣僚が「元符皇后は先帝の皇后であるから、その典礼は極めて尊崇すべきである」と言い、聖瑞皇太妃(朱太妃)の制に準じて出入りは宣徳正門を経ることとし、龍鳳扇を20増やし、御龍直12人・御龍骨朶子直17人・御龍弓箭直12人・御龍弩直22人・殿前指揮13人・皇城司禁衛20人・快行親從官4人が燭を執り、皇城司親從官の金銅車・㯶車は随時に定数を供し、行幸に藥架1坐・勾當官吏人2員・封題1員・藥童3人・擡檠藥架輦官11人・秤庫子親事官を人数に応じ量って差し祇應した。
  • 崇寧2年(1103年)、臣僚がまた「元符皇后は元符年間に立太子の策を予定した勲があり、神宗・哲宗の志を継いだのだから」と言い、礼部太常寺は聖瑞皇太妃の例に準じ、侍従官は入内内侍省都知あるいは押班1員、皇城・御藥・内東門司の官各1員、御輦院輪官・随従諸司の御燎子・茶牀、帶御器械内侍10人・引喝内侍1人、輿は龍鳳繖・紅黄兼用で出入りは宣徳東門を経る(今は宣徳正門を経ることとする)、龍鳳扇20柄(今は30柄に増やす)、輦官供御62人・次供御49人・都下58人、御龍直33人(今は45人に増やす)、御龍骨朶子直33人(今は50人に増やす)、御龍弓箭直33人(今は45人に増やす)、御龍弩直23人(今は45人に増やす)、殿前指揮32人(今は45人に増やす)、内臣2人、皇城司禁衛100人(今は120人に増やす)、天武官154人、行宮司100人、入内院子50人、快行親從官4人(今は8人に増やす)が燭を執り、皇城司親從官の金銅車・㯶車は随時内中の批出により要る数を供し、行幸に藥架1坐・勾當官1員・吏人2員・封題1員・藥童3人・擡檠藥架輦官11人・秤庫子親事官を量って差し祇應する、と上奏し、許された。

皇后儀衞

  • 東都の政和禮には鹵簿があったが、他の代には鹵簿の名はなく、ただ「儀衛」とだけ呼ばれた。中興後、皇太后がすでに簡素を尊んだこともあり、皇后の儀衛はいっそう簡素にした。出入りして宮廟に朝謁するときは、応奉御輦官1員・人吏3人・供応63人(内、人員15人、頭帽・紫羅四䙆單衫・金塗銀の柘枝腰帶)、肩擎輦官48人(幞頭・緋羅單衫・金塗海㨗腰帶・紫羅表夾三襜・緋羅看帶)、次供応14人(内、人員1人は服が上と同じだが海㨗帶、輦官13人は肩擎官と同じ服だが行獅帶)、都下54人(内、人員1人は帽・服が前と同じ、輦官53人は上の輦官と同じ服だが雲鶴帶)を用いた。