宋史巻一百四十 樂志第九十三
樂十五(鼓吹上)
鼓吹の由来と沿革
- 鼓吹は軍楽である。かつて黄帝が涿鹿で戦功を挙げた際、岐伯に命じて凱歌を作らせ、威武を示し徳風を揚げ、兵士を励まし敵を威圧させたのに始まる。その曲には「靈夔競」「雕鶚爭」「石墜崖」「壯士怒」などの名がある。周官にいう「師(軍)が功を挙げれば凱歌を奏する」がこれにあたる。漢代には「朱鷺」など十八曲があり、短簫鐃歌は戦伐の事を述べ、黄門鼓吹は宴饗に用い、別に騎吹二曲がある。論者によれば殿庭に列するものを鼓吹、行進に従うものを騎吹という。魏晋以降もこの制を踏襲し、江左(東晋)で太常に鼓吹の楽が置かれ、梁は十二曲、陳は二十四曲、後周も十五曲を用いた。唐制では大駕・法駕・小駕、および一品以下にも鼓吹があった。
- 宋初は唐制を継承し、車駕の前後部に金鉦・節鼓・掆鼓・大鼓・小鼓・鐃鼓・羽葆鼓・中鳴・大横吹・小横吹・觱栗・桃皮觱栗・簫・笳・笛を用い、「導引」一曲を歌う。皇太子および一品から三品までも品階に応じた鼓吹を持つ。大駕は千五百三十人を用い、五引として司徒六十四人、開封牧・太常卿・御史大夫・兵部尚書各二十三人を配した。法駕は三分の一を減じて七百六十一人(開封牧・御史大夫各六十六人)、小駕は八百一十六人。
- 太常鼓吹署の楽工は少なく、大礼のたびに諸軍から徴用し、一品以下の喪葬にも諸軍から供給した。大礼で車駕が宿泊・斎戒する夜には「警場」を設け、千二百七十五人を用いて「奏嚴」を行い、近畿諸州や府県の楽工も動員して「六州」「十二時」を毎更三度奏した。大中祥符六年(1013年)、その煩雑さから追加徴集をやめ禁兵で常備することとしたが、七年(1014年)に親しく太廟を祀った際、登歌の最中に廟外の奏嚴が聞こえたため、以後は儀礼中は警を止め、終了後に復すこととした。祀りの前日には皇帝が青城門に出て奏嚴を観覧し、車駕が巡幸する際は行宮前で夜に奏し、人数は八百八十人に減じた(眞宗が聖祖を尊崇した際も別に儀衞と導引曲を設け、これに付す)。『兩朝志』によれば大駕千七百九十三人・法駕千三百五人・小駕千三十四人(先の数より多い)、鑾駕は九百二十五人、祖宗の御容や神主を祔廟する際の小鑾駕は三百二十五人、宗廟の謚冊には二百人を用いるとある。
- 天聖年間(1023~1032年)以降、皇帝の郊祀・親耕籍田、皇太后の恭謝宗廟にはすべて正宮の「導引」「六州」「十二時」に加え計四曲を用いた。景祐二年(1035年)、郊祀で導引の第二曲を減らし「奉禋歌」を増した。もと李照らが作った「警嚴曲」を「振容」と名付けようとしたが、帝がその意義を無しとして「奉禋」に改めた。以後、祫享太廟にも用い、大享明堂では黄鐘宮を用いて「合宮歌」を増した。山陵の導引は、章獻・章懿皇后には正平調、仁宗には黄鐘羽を用いて「昭陵歌」を増した。神主還宮には大石調を用いて「虞神歌」を増した。祖宗御容を宮観寺院に迎える際や神主祔廟にはすべて正宮を用いたが、仁宗御容が景靈宮に赴く際だけ道調に改め、いずれも一曲のみとした。
- 皇祐年間(1049~1054年)、明堂での大饗に際し、帝が「明堂は端門に近く、内で斎戒し外で奏嚴すれば静粛の意に反するのでは」と輔臣に問い、礼官に議論させた。礼官は「警場はもと古の鼛鼓(夜の警戒の太鼓)にあたり、軍の吉行にも用いるもので、乗輿の宿斎も祀事に関わる以上、警場を廃すべきではない」とし、「奏嚴の音が明堂に近ければ、宣徳門の百歩外に列し、行礼の際は一度だけ嚴を止めればよい」と提案、帝は「祀りの前夜は神に接するに近いのでこれを罷めよ」と裁定した。
- 熙寧年間(1068~1077年)、親祭南郊では正宮の「導引」「奉禋」「降仙臺」の曲を五奏し、明堂の祭では黄鐘宮の「導引」「合宮歌」を「六州」「十二時」とともに四奏した。永厚陵(英宗陵)の導引・警場・神主還宮はいずれも四曲。慈聖光獻皇后の山陵の際の虞主祔廟奉安も同様。歴代皇后の告遷升祔、仁宗・英宗への徽号奉呈、太一宮神像の迎奉にも、それぞれ一曲の導引を事に応じて宮調を定めて用いた。
- 元豐年間(1078~1085年)、論者が「鼓吹は雅楽を害する」として正声と調和させることを求めた。楊傑は「正楽は先王の徳音であり和気を感召して上神を降し風俗を移すものだが、鼓吹は軍旅の楽にすぎない。鼓角横吹は西域に起こり、聖人が四夷の楽を存したのは天下を一つにするためであり、軍旅の楽を存したのは武備を忘れぬことを示すためだ」と論じ、大祀では鼓吹と武嚴の楽を門に陳べて交互に奏して警嚴に備え、大朝会では鼓吹を宮架の外に列するのみで、その器も先代の器と異なり施設も正楽とは別であるべきとした。宋初以来、大楽を奏す際は鼓吹を備えても奏さず、同じく「楽」と称しても実は異なるもので、音声に符合する箇所があっても宮調の呼称は混同すべきでないとし、大楽は十二律呂で名付け、鼓吹の楽は「正宮」などと呼ぶのみとした(乾德年間に鼓吹十二案を設け、熊が立ち上がる形の氈床十二を作り、各案に大鼓・羽葆鼓・金錞各一、歌・簫・笳各二を配し、さらに「拱宸管」という笛を加え、いずれも雅音に相応するとして宮縣の籍に列し令式に編入した)。律呂で夷部の宮調を変えれば名称が混同し楽が乱れるとしてこの議は行われなかった。
- 元符三年(1100年)七月、学士院が「太常寺鼓吹局が大行皇帝(哲宗)の山陵鹵簿鼓吹儀仗ならびに嚴更警場の歌詞楽章を先例により撰し終え、霊駕が陵所に至るまでの仙呂調導引等九首はすでに楽工に声律を合わせさせた」と奏し、これに従った。
- 政和七年(1117年)三月、議礼局が「古の鐃歌鼓吹曲はそれぞれ名を異にして功烈を記したが、今設ける鼓吹は警衞に備えるのみで鐃歌の曲がなく、美徳や偉業を彰揚するものになっていない。儒臣に討論・撰述させ、事にちなんで命名し声律を整え、鼓吹に播いて楽工に習わせ、王師の大勝には鼓吹に具に奏させて衆に聞かせるべき」と乞い、従われた。十二月、「六州」を「崇明祀」、「十二時」を「吉禮」、「導引」を「熙事備成」と改名し、六引の内「者」は設けるが奏さないこととした。
- 紹興十六年(1146年)、臣僚が「国家の大饗で乗輿が斎宿する際は必ず警場を設けて儀衞を整え祀事を厳かにし、楽工は太常に隷し歌詞は三畳を備えて歴代用いてきたが、近年は郊廟の行事でしばしば鉦鼓に代えて殿司から取っている。軍旅と祭祀は事が異なる以上、楽声の清濁も本来別にすべきで、鉦鼓・鳴角は鹵簿中に列して観徳の盛を示すためのものだから、有司に命じて改めて製作させ鼓吹楽工を籍に入れて随時訓練させ、大礼の際に用いるべき」と言った。有司の請により、車器所が節鼓一・奏嚴鼓百二十・鳴角も同数・金鉦二十四を製作し、太常の前後部で用いる人数は通計千八百五十七人となり、鼓吹はいっそう盛んになった。
- 孝宗の隆興二年(1164年)、兵部が「詔により大礼での乗輿服御は玉輅・平輦等を除きすべて人数を省約する。鼓吹は本来八百四十一人を用いるところ五百八十八人に、警場は本来二百七十五人を用いるところ百三十人に止める」と奏した。
- 淳熙年間(1174~1189年)の大閲では、帝は祥曦殿から戎服で出御し、皇太子・親王・執政以下がみな甲冑を着け馬に乗って従い、軍器を前後に分けて配し、随軍の鼓管・大楽を奏した。帝がまもなく金甲に着替え馬に乗って将台に昇ると、殿帥が黄旗を挙げ諸軍が呼び拝して「発嚴」を奏し、中軍が角を鳴らして馬歩の隊を集結させ、三鼓から四鼓に至って白旗を挙げると中軍の鼓声に応じて方陣に変わり、別に一鼓高らせて馬歩軍が陣を出、また一鼓高らせて各隊に帰し、五鼓で黄旗を挙げて員陣に変じ、また鼓して赤旗を挙げ鋭陣に、青旗で直陣に変えて鼓を収め、金一声で止め、重ねて鼓・角を鳴らして隊を集め教練を終える。おおよそこのような次第であった。
鼓吹楽章の一覧
以下、儀礼ごとに用いられた「導引」「六州」「十二時」等の楽章を年代順に収める。歌詞はいずれも儀礼の由来・皇帝の徳・天下太平を寿ぐ頌詩で、内容は場面ごとにほぼ共通する。
- 開寶元年(968年)南郊三首(導引・六州・十二時)――太祖が南郊で天を祀った際の楽章。玉燭のように和らいだ気候、燔柴の礼、堯舜に比する治世を寿ぐ。
- 眞宗封禪四首(導引・六州・十二時・告廟導引)――大中祥符元年(1008年)の泰山封禅、および汾陰后土祭祀(分注に汾陰の異文を記す)に際する楽章。天下太平と瑞祥、封禅の盛儀を歌う。
- 奉祀太清宮三首(導引・六州・十二時)――亳州太清宮(老子廟)に親祀した際の楽章。
- 亳州廻詣玉清昭應宮一首(導引)――太清宮参詣の帰途、玉清昭応宮に参詣した際の楽章。
- 親享太廟一首(導引)――太廟に親祭した際の楽章。
- 南郊恭謝三首(導引・六州・十二時)――南郊に恭しく謝礼した際の楽章。
- 天書導引七首(詣泰山・詣太清宮・詣玉清昭應宮・詣南郊、各見出しの下に汾陰行幸時の異文を含め計七首)――「天書」を奉じて各所に赴いた際の楽章。分注に汾陰での異文を付す。
- 建安軍迎奉聖像導引四首(玉皇太帝・聖祖天尊・太祖皇帝・太宗皇帝)――建安軍で神像・御影を迎えた際の楽章。
- 聖像赴玉清昭應宮導引四首(玉皇太帝・聖祖天尊・太祖皇帝・太宗皇帝)――同宮への神像遷座の楽章。
- 奉寶冊導引三首(玉清昭應宮・景靈宮・太廟)――各所へ宝冊を奉じた際の楽章。
- 治平四年(1067年)英宗祔廟一首(導引)――英宗の神主を太廟に祔祭した際の楽章。
- 熙寧二年(1069年)仁宗英宗御容赴西京㑹聖宮應天禪院奉安一首(導引)
- 章惠皇太后神主赴西京一首(導引)
- 中太一宮奉安神像一首(導引)
- 熙寧四年(1071年)英宗御容赴景靈宮奉安一首(導引)
- 熙寧十年(1077年)南郊皇帝歸青城導引一首(降仙臺)
- 元豐二年(1079年)慈聖光獻皇后發引四首――儀仗内導引一首、警塲内三曲(六州・十二時・祔陵歌)。永昭陵への祔葬に際する楽章で、祔陵歌は嵩山・伊水・洛水の地勢と山陵の様を歌う。
- 虞主回京四首――儀仗内導引一曲、警塲内三曲(六州・十二時・虞主歌)。慈聖光獻皇后の虞主が京へ戻る際の楽章。
- 虞主祔廟儀仗内一首(導引)
- 元豐五年(1082年)景靈宮神御殿成奉迎一首(導引)
- 慈孝寺彰德殿遷章獻明肅皇后御容赴景靈宮衍慶殿奉安一首(導引)
- 元豐八年(1085年)神宗靈駕發引四首(導引・六州・十二時・永裕陵歌)――神宗の山陵(永裕陵)発引の楽章。生前の功業と哀悼を歌う。
- 虞主回京四首(導引・六州・十二時・虞神)――神宗虞主の還京の楽章。
- 神主祔廟一首(導引)
- 政和三年(1113年)追冊明達皇后一首(導引)
- 神主祔别廟一首(導引)
- 景靈西宮坤元殿奉安欽成皇后御容一首(導引)
- 别廟一首(導引)――巻末、欽成皇后の別廟安置に関する楽章。