宋史卷一百二十四 禮志第七十七 禮二十七(凶禮三)
外国の喪告と弔問の総則
- 外国から哀告の使者が到着すると、有司は日を選び内東門の北隅に幕次を設ける。太常卿と博士に命じて礼を摂り行わせ、太常卿が奏請すると皇帝はその国の方角に向かって哭礼を五挙音行い止める。皇帝がまだ素服を解かない間は、使者の朝見にも略式の礼を用いる。
契丹・西夏など各国の哀告への対応(歴代の事例)
- 大中祥符2年(1009年)12月、契丹の皇太后崩御の訃報が至り、使者を遣わして哀を告げた。朝廷は7日間朝会を廃し、日を選んで挙哀・成服の礼を挙行、皇帝は幕殿にて素服に着替え、五挙音の哭礼と百官の奉慰を行った。
- 天聖8年(1030年)6月、契丹の使者が哀を告げに来た際の受書・弔慰の礼次第が定められた。7月に使者耶律克実が到着し、細かな入朝経路・朝見の作法が定められた。
- 嘉祐3年(1058年)正月、契丹が国母(太皇太后)の哀を告げる使者を送り、皇帝への挨拶の口上、朝廷側の弔慰の口上の文言が定められた。5月には遺留品も献上された。
- 明道元年(1032年)11月24日、夏王趙徳明が薨じた。朝廷は3日間朝会を廃し、皇帝・皇太后は幕殿で挙哀・十五挙音の礼を行い、百官の奉慰を止め、告哀使副以下を引見して酒食を賜った。使者への弔祭も契丹と同様の礼で行った。
- 乾興元年(1022年)、真宗の喪に際し契丹は殿前都点検崇義軍節度使耶律賽音・翰林学士工部侍郎知制誥馬貽謀を大行皇帝祭奠使副、左林牙左金吾衛上将軍蕭日新・利州観察使馮延休を皇太后弔慰使副、右金吾衛上将軍耶律寧・引進使姚居信を皇帝弔慰使副として派遣した。滋福殿に神御坐を設け、使者らは素服で入り、上香・奠茶酒・祭文奉読・挙哭・再拝の礼を経て、皇帝・皇太后それぞれへの朝見・進書・下賜(襲衣冠帯器幣鞍馬等)が行われた。樞密副使張士遜が都亭駅で使者らを饗応した。英宗即位時にも契丹の賀使・夏国使・弔祭使への対応次第が定められ、神宗の喪では夏国の陳慰使丁努威明謨鐸・副使呂則陳聿精らが慰表を進めた。
- 元祐初、高麗が入貢し太皇太后への表と進奉物を献じた際、樞密院は皇帝の回諭勅書のみで答えるよう請うたが、まもなく宣仁聖烈太后が崩じたため、礼部・太常・閤門は高麗奉慰使人の受け入れ手続きを協議し定めた。
- 淳熙14年(1187年)、金国の弔祭使が来朝した際の儀礼(皇帝が梓宮に燒香し、使者が神坐前で上香・奠茶酒・祭文奉読・哭礼を行う次第)は先朝の旧儀に倣った。
入弔奠の総則
- 諸臣の喪に際しては、国制により王公・公主・宗室・将軍以上が病めば皇帝みずから見舞う。宰相・使相・駙馬都尉が重病のときは第宅に幸し、慰労・加礼する。建隆元年(960年)7月、宰相范質の病に太祖みずから第宅に幸し黄金銀絹を賜った。開宝2年(969年)趙普の病にも帝が再び訪れ銀器絹を厚く賜った。太平興国中、鎮寧軍節度楊信が長患いで発語できなかったが急に話せるようになったことを帝が異とし、急ぎ第宅に幸して加賜した。大中祥符3年(1010年)3月、鎮安軍節度使駙馬都尉石保吉が重病となり、帝は臨視しようとしたが大忌の日にあたり宰相の諫言で内侍を遣わすにとどめ、翌日臨省した。6月には翰林侍講学士邢昺の病を見舞い白金千両・衣着千匹・名薬一奩を賜った。熙寧7年(1074年)12月、臨幸問疾の際の賜銀絹の新式が頒布され、宰臣・樞密使から殿前都指揮使・駙馬都尉に至るまで、官品に応じ二千五百両匹から千五百両匹までの賜与額が定められた。
車駕臨奠
- 太常新礼では、宰相・樞密・宣徽使・参知政事・樞密副使・駙馬都尉が薨ずれば皆臨幸して奠酹し、発引にも乗輿が再び赴くことがあった。咸平2年(999年)工部侍郎樞密副使楊礪の卒去に際し、真宗は即日冒雨してその喪に臨んだ。大中祥符元年(1008年)殿前都虞候端州防禦使李継和の卒去では、真宗が臨喪しようとしたが、宰臣が品秩上その礼にあたらぬと諫めつつも先朝で杜審瓊の喪に臨んだ例があるとして許され、即日第宅に幸した。康定2年(1041年)右正言知制誥呉育が上奏し、臨奠のたびに儀衛不備のまま急遽出幸することの不体裁を指摘し、喪家が成服してから出幸するよう改めることを請い、詔許された。以後、奏訃の時刻により当日または翌日の臨奠と定められた。臨奠の儀礼(千牛将軍の前導、喪主の哭礼、皇帝の十五挙音、三奠酒、奉慰の次第)も細かく定められ、天聖の喪葬令では、皇帝が臣下の喪に臨む際の服(一品は錫衰、三品以上は緦衰、四品以下は疑衰)、皇太子が三師三少に弔する際の服なども規定された。
輟朝(朝会停止)の制
- 礼院の旧例では、一品・二品の喪には視朝を2日輟め便殿で挙哀掛服し、三品の喪には1日輟めるが哀掛服はしない。ただし車駕臨問や特別の輟朝日数は聖恩による。一品・二品の喪は翰林学士以下を監護葬事、内侍都知以下を同監護葬事とし、葬日には視朝を1日輟める。慶暦5年(1045年)4月、礼院は集賢校理曽公亮の上奏(哀の翌日に輟朝し仮日で数を充てる案)を検討し、詔許された。太平興国6年(981年)薛居正の薨去では一品の礼に加え特に3日輟朝、その後鄧王銭俶・太師趙普・右僕射李沆の喪では特に5日輟朝された。太平興国9年(984年)参知政事李穆の卒去では諌議大夫の礼制にないところ特に1日輟朝、開宝3年(970年)羅彦瓌・魏仁浦の薨去は郊祀・軍事を理由に輟朝せず、景徳4年(1007年)同平章事王顕の薨去も皇帝の諸陵参拝と吉凶が相干渉するとして輟朝しなかった。康定元年(1040年)光禄卿鄭立の卒去では臺官の反対で以後輟朝しない慣例となった。孝宗乾道3年(1167年)4月、皇伯母秀王夫人の薨去に際し輟朝5日(うち2日は視事せず)と定められた。
挙哀掛服の儀
- 尚舎が広徳殿・講武殿・大明殿などに幕次を設け、後には後苑の壬地に固定された。皇帝は素服に着替え、太常卿の奏請により某官の薨去を告げ、十五挙音の哭礼と百官の奉慰が行われる。建隆4年(963年)山南東道節度使慕容延釗の卒去に太祖は素服で発哀し、以後趙普の薨去に太宗も同様にした。景徳4年李沆の薨去では、慣例上宰臣の挙哀は趙普・曹彬に限られていたが、聖恩により特に挙行し、以後の宰臣の薨去にはこの礼が用いられるようになった。真宗の乳母秦国延寿保聖夫人の卒去では、太宗の喪の期日にあたり挙哀を疑ったが、礼典に照らして許された。鄭国長公主の薨去では、大行皇太后の大祥中で衰服未除のため成服を控えることとなったが、帝は宗室諸王に第宅で成服させ皇后に臨奠させた。皇従弟右監門衛大将軍徳鈞の卒去は皇帝の陵参拝と重なり挙哀を取りやめた。天禧元年(1017年)太尉王旦の薨去は季秋の大享明堂の日と重なったが、祠事が済んだ後の成服は礼に違わないとされた。康定2年皇子寿国公昕(2歳)の薨去では、爵命があるとして成人同様に発哀成服。熙寧10年(1077年)永国公の薨去は本来無服の殤にあたるが特に挙哀成服が命じられた。元祐元年(1086年)王安石・司馬光の薨去は、それぞれ神宗の大祥・諒闇の期間にあたり挙哀成服を行わなかった。高宗の代、劉光世・張俊・秦檜の喪では臨奠のみで挙哀成服の礼は行われなかったが、孝宗乾道3年秀王夫人の喪で改めて挙行された。皇太后・皇后が本族の喪に服する事例(孝明皇后の姉太原郡君王氏、章穆太后の母楚国太夫人呉氏、太后の嫡母韓国太夫人などの卒去に際する出御・掛服の礼)も定められた。章献明肅皇后が父母を改葬した際の儀礼も詳しく記される。
輟楽(音楽の停止)
- 太平興国7年(982年)10月、乾明節の大宴を控えて参知政事竇偁が卒去し、皇帝は臨喪して罷宴を命じた。有司はこれを君父の慈愛と臣子の忠孝の表れとして史館に伝録するよう請い、許された。天禧2年(1018年)9月、河陽三城節度使張旻の餞別の宴は、王旦がまだ殯にあることを理由に音楽を用いなかった。嘉祐6年(1061年)3月、宰臣富弼の母秦国太夫人の薨去により、春宴の音楽を罷めるよう礼院が上言し、詔許された。
賻贈(金品の下賜)
- 近臣・帯職事官の薨去(詔葬でない場合)や遷葬に際しては鴻臚寺・内侍省が旧例により金額を定める。両府や近侍を務めた者は増額され、絹は五百匹から五十匹、銭は五十万から五万まで差があり、羊酒も賜られた。宗室の期功・袒免・乳母・殤子・出嫁した女にもそれぞれ定数があり、特恩により加賜される場合もある。建隆元年10月、矢石に死んだ者には絹三匹を給し3年間その家の課役を免じる詔が出た。慶暦2年(1042年)陣亡した軍校で子孫のない者への賜銭額(指揮使七万、副指揮使六万、軍使都頭副兵馬使副都頭五万)が定められた。熙寧7年、諸臣の喪の賻贈に関する新式が定められ、文臣卿監以上・武臣元係諸司使以上で分司致仕して身亡した者への賻贈は現任官の3分の2を給し、期限内の申請手続きも規定された。元豊5年(1082年)鄜延路で王事に死んだ者の家族への行李銭も定められた。紹興26年(1156年)、公務中の不慮の死のみを賻贈対象とする従来法が確認され、紹興2年5月吏部侍郎李光の申請に基づく骨折等の期限規定は、他病による死亡者にまで濫用されていたため戸部侍郎宋貺の上言で厳格化された。
詔葬(勅命による葬儀)
- 礼院の旧例では、一品・二品の喪には本品の鹵簿を備えて送葬し、都城外で少牢をもって贈祭する。品階に応じ重・柱鬲・銘旌・輀車・引披鐸翣挽歌・方相・魌頭・纛の規格が細かく定められている。葬制では石棺槨・石室の使用や棺槨への雕鏤彩画・方牖檻、金宝珠玉の副葬を禁じた。乾徳6年(968年)3月、中書令秦国公孟昶の薨去と母李氏の相次ぐ死去にあたり、鴻臚卿范禹偁を監護喪事とし、後唐・後周の旧例(一品礼、墓は方円九十歩、墳高一丈八尺、明器九十事など)に倣った一品礼が定められ、殿中省・太僕寺・兵部・太常寺各署の分担も詳細に定められた。開宝4年(971年)建武軍節度使何継筠の卒去には中使を遣わし宝剣甲冑を副葬。咸平元年(998年)護国軍節度使駙馬都尉王承衍の葬では太宗大祥の忌みにより鹵簿鼓吹を備えて奏さなかった。元豊5年崇信軍節度使華陰郡王宗旦の薨去では旌節牌印を副葬することが許された。紹興24年(1154年)太師清河郡王張俊の葬では孝宗が功績を称え優厚な恩数(十梁額花冠貂蟬籠巾朝服一襲・水銀二百両・龍脳百五十両)を賜り、後の楊存中の薨去でも同様の下賜があった。熙寧の新式では、知制誥曽布の上言に基づき、近臣が贈遺を過度に取り立てる弊を正すため使臣・朝臣の受け取り上限額(使臣五百・朝臣三百)が定められた。嘉祐7年(1062年)詔により、大宗正は5年以上未葬の皇親の喪を尊卑を問わず日を選んで葬るよう命じられ、龍図閣直学士向傅式の言に基づき、卑幼の喪も節度使以上の尊属と併せて葬る旧慣が改められた。元祐中には、御史臺の臣僚で父母を10年以上未葬のまま放置する者を糾察する規定も設けられた。
追封冊命
- 通礼では、貴臣に策贈する際、主人の門外に使副の位を設け、使者は公服で朝堂から策を受け犢車で鹵簿を備えて主人の門に至り、主人は稽顙して哭礼をもって迎え、冊文を読み上げる次第が定められている。私第で冊す例(乾徳3年孟昶を尚書令に追封)と本道で冊す例(建隆元年高保融の太尉贈官、端拱元年銭俶の秦王追封)があった。
諡号の制定
- 王公・職事官三品以上(贈官も同様)の薨去には、本家が行状を録して尚書省考功に上げ、太常礼院が議定し博士が議を撰し、考功が審覆・都省が集議・中書門下が判定するという厳格な手続きがあった。太平興国8年(983年)諡法の字数が増補された(美諡71字、平諡20字、悪諡30字など)。直史館胡旦の上言により、建隆以後三品以上で諡を賜るべき臣僚百余人の行状を史館に編録し諡を定めることが恒式とされた。直集賢院王皥は、諡は行いの表れであり勧懲の趣旨から、遺族の請いを待たず有司が挙行すべきと論じ、詔許された。贈安遠軍節度使馬懐徳の已葬後の諡請いをめぐる議論では、唐代の先例(郭知運の死後50余年での諡請いへの批判等)が引かれ、景祐4年(1037年)宋綬の建議で官が酒食を給する制度が定められた後は既葬後の諡請いが増え、行跡が把握できないまま加諡される弊が生じたため、葬前に諡を奏請する制へ改められた。