宋史卷一百十四 禮志第六十七 禮十七(嘉禮五)

巡幸の制度

  • 巡幸の制は唐の開元礼に基づく「告至肆覲」の儀を宋の開宝通礼も継承した。太祖が西京に幸した際は通過地に夏秋の田租の半分を免除。真宗朝では諸陵参拝や大礼の際、途中は折上巾・窄袍を着け、京城の出入りには鞾袍・鑾駕を用い、群臣は公服で従った。
  • 従駕の官は毎日行宮に赴いて起居し、宿泊地では留守や父老が門内外で拝辞し、留守らに苑中で宴を賜った。通過する州県の長官は境で待機し、巡警の兵・橋の守り・郵便・道普請の卒には時服・銭・履を、父老には綾袍・茶帛を賜った。寺観には道士・僧に茶帛や紫衣・師号を加えることもあった。
  • 民から食物・果物・産物の献上があれば代価を支払い、通過地の未決囚の多くを釈放し、民間の困窮を訪ね、鰥寡孤独を救済し、車服・度量衡が制に反する場合は取り締まった。優れた才能・徳行、孝子順孫・義夫節婦として郷里で称えられる者を推挙させ、不正な役人の情報も上奏を許した。通過する州府は綵楼を結び音楽百戯を演じ、東京留守が還京を請えば優詔で応じ、還御時には兵衛を大きく整えた。
  • 咸平年間以降、行幸には金吾将軍が二百人を率い「禁囲」と呼ばれる警護をした。季節により服の色を変え、郊祀・省方の際は増員し錦襖を着せた。京師を出れば剣を執らせ、親王・中書・枢密・宣徽は囲みの内に、他の官は外に位置した。大礼の際は先に土で黄道を敷き、宮から祀所まで香台・画瓮・青繩闌干を設けた(巡省の途中では設けない)。翰林が伝えた合言葉を暮夜ごとに衛士に唱和させて識別とした。城門や宮廟門の出入りには「勘箭」(割符照合)を行った。
  • 朝陵の際の随従人数、東封の際の導駕官の従人数もそれぞれ定められ、諸司による巡察も行われた。以後の大礼はこの制度に倣った。
  • 建炎元年七月、都を汴京に置いて二百年になるが近年の不備で禍を招いたとして、高宗は巡狩の詔を発し、近甸に軍馬を召集して京城・河北・河東の諸路と決戦の構えを取ると宣言した。十月一日、淮甸へ巡幸、宰執・侍従・百司・三衙禁旅・五軍将佐が扈従した。三年、揚州に駐蹕の後、杭州、江寧府、浙西、浙東へと転じ、詔では金軍の侵逼により父兄(徽宗・欽宗)が難に遭っている中で民を戦火に晒さぬための「退避の謀」であったこと、諸路の兵が江浙に集結した現在は要害に拠り決戦も辞さない意向を述べた。四年正月に台州、二月に温州、三月に浙西へ移った。紹興元年、蹕を臨安府に移す詔。六年、軍を巡視するため出発前に天地社稷宗廟に告げ、臨安から平江、建康へ巡幸。八年二月、臨安に還御。
  • 三十一年九月、金軍の背盟により親征する詔が出、十二月十日に出発、臨安府の文武百僚が城北で見送った。三十二年正月、江上の視師の詔により両淮の警戒が解け、重臣に統護を委ねて臨安に還御、恭文閣祔廟の礼のため建康の百官吏舎・諸軍営砦を増修し、往来の巡幸に備えるとした。

太学での養老の礼

  • 皇帝は通天冠・絳紗袍で金輅に乗り太学に至り、文宣王に酌献し三祭酒の後、再拜して御幄に戻る。あらかじめ三老・五更を邸から迎えに遣わし、朝服で安車に乗り太学へ導いた。国老・庶老も朝服で集まり、大楽正が工人・二舞を率いて庭に立つ。百官・宗室・客使・学生らは視学の班次に倣って入場する。
  • 三老・五更が杖をついて入場する際、太常博士が先導し史臣が筆を執って従う。宮架の楽(欽安→順安→懿安→成安の各曲)が段階ごとに演奏され、三老・五更は三たび冠礼と同様に加位を受け、皇帝が興って迎える動作を繰り返す。三老・五更が着席すると三公が几を授け、九卿が履をそろえ、殿中監・尚食奉御が珍味・黍稷などを進める。三老の前には尚食奉御が醤を勧め、酒は尚醖奉御が酌み奉る。五更・群老の前には太官・良醖令が次々に酒食を進める。
  • 大楽正が「恵安之楽」を演奏し、史臣が三老の善言善行を記録した後、「申安之楽」に合わせて「憲言成福」「受成告功」の舞を舞う。三老以下が筵を降り、皇帝が再び興って見送る動作の後、三老・五更は安車に乗って還り、翌日には闕に詣でて謝礼を述べる。

視学(国子監への行幸)

  • 哲宗が初めて視学し、国子監に幸して至聖文宣王殿で釈奠礼(一献再拝)を行い、敦化堂で従官に坐を賜り、礼部・太常寺・本監官は侍立し、三学の学生は東西廡に着座した。侍講の吳安詩が経を執り、祭酒の豊稷が『尚書』無逸篇を講じて終篇に及んだ後、宰臣以下三学生まで賜茶。豊稷には三品の服、本監官・学官には帛を賜った。さらに昭烈武成王廟に幸して酌献した。
  • 徽宗も太学・辟雍に幸して同様の奠献を行い、司業の吳絪らに転官・改秩・章服を、文武学生には省試免除・文解・帛を賜った。儀式の座次や講書・執経官の位置、拝礼の作法が細かく定められ、講義後には茶を賜り、退出の作法まで規定された。
  • 紹興十三年七月、国学大成殿が完成し、翌年二月、国子司業高閎の建言により高宗が幸学。三月、鞾袍で輦に乗り監に入り、大成殿門外で幄に止まり、東階から上香・三祭酒・再拝の礼を行い、崇化堂で群臣を集めて講義を聴いた。禮部侍郎の秦熺が経を執り、司業高閎が『易』の泰卦を講じ、飬正・持志の二斎にも幸して高閎に三品服、学官の遷秩、諸生の授官・免挙・賜帛を行った。帝は先聖・七十二子の肖像を拝観し、唐の明皇や太祖・真宗・徽宗の製した賛文を集めさせ、自ら先聖および七十二子の賛を作って序文を冠し、綵殿に登り儀衛・音楽を伴い国子監に掲げさせた。二十六年十二月、言者の建議によりこの御筆の石刻を諸州郡学にも賜った。
  • 淳熙四年、孝宗が太学に幸し紹興の儀に倣い、礼部侍郎李燾に経を執らせ祭酒林光朝に『大学』を講じさせ、武学にも幸して武成王には拝礼せず粛揖のみとした。嘉泰三年正月、寧宗も淳熙の儀に倣い幸学。淳祐元年正月、理宗が太学に幸し、宗学・武学の官属・生員も陪位、崇化堂で執経・講書の官が東西の階から昇殿、国子監三学の官・生員が北面再拝の後、賜茶・講義・礼成、官生に転官の恩賞があった。咸淳三年正月、度宗が太学に祗謁し、礼部尚書陳宗禮が経を執り、国子祭酒雷宜中が『中庸』を講じた。

貢士への聞喜宴

  • 貢士(進士)への賜宴は「聞喜宴」と呼ばれた。政和の新儀では、押宴官・釈褐貢士の班首が入門し、「有敕」「賜卿等聞喜宴」などの宣言に対して所定の拝舞を行い、押宴官が謝坐の拝礼をする。敕書が下賜される場合は貢士班首が受け取る作法も定められた。
  • 宴では貢士が年齢順に着座し、酒が進むごとに異なる楽曲(「賔興賢能之楽」「楽辟雍之楽」「楽育人材之楽」「楽且有儀之楽」など)が奏され、再坐の際にも同様の次第で酒・食・楽が進む。宴後には賜花・謝花の儀があり、翌日には謝礼の朝見が行われた。寧宗慶元五年五月、新及第の進士曽從龍以下に礼部貢院で聞喜宴を賜り、帝は七言四韻の詩を賜り、祕書監楊王休以下が唱和し、以後毎回この形式となった。

秘書省への行幸

  • 紹興十四年七月、新たに完成した秘書省に、秘書少監游操らの請いにより車駕が臨幸。二十七年、秘書省の右文殿で輦を降り、手詔で周・漢以来の書物収集の伝統と祖宗の冊府建設を称え、士大夫と共に学問の道を興す意向を述べた。歴代の御書・御製、晋唐の書画、三代の古器を披露し、皇太子・宰臣以下が観覧の後、右文殿で宴(酒五行)を賜り、還御の際には少監游操に三品服・御書扇、館閣官には各一階の転官を賜った。淳熙五年九月十三日、孝宗も紹興十四年の儀に倣って秘書省に幸し、詩を賦して群臣が唱和した。

進書儀(書物の進呈儀礼)

  • 紹興二十年五月、太常博士丁屢明が「中興聖統」の進呈を玉牒に準じて行うよう建言。二十四年、徽宗御集の進呈にあたり、当時は「敷文閣」の名を予定していたが暫定的に天章閣に安奉し、後日崇建する扱いとなった。二十六年十月、太后回鑾の事実を進呈。二十七年三月、宰臣沈該が太祖皇帝玉牒(建隆元年~開寳九年の十七年間)の完成と、当代皇帝の玉牒(誕生から即位、紹興二年までの二十六年間の中興玉牒)の完成を報告、それぞれ「皇宋太祖皇帝玉牒」「皇宋今上皇帝玉牒」と題することを求め、宣祖・太祖・太宗・魏王以下の宗族の系譜(仙源類譜、五世昭穆)も進呈が奏請された。
  • 進呈の儀では、玉牒殿・玉牒所・景霊宮などに幄次・香案を設営し、提領官・宰執使相・侍従・台諫・両省官・南班宗室らが定められた順序で拝礼・上香を行い、玉牒・類譜を腰輿で奉じて音楽と儀仗を伴い進める。垂拱殿門外の幄次を経て提領官以下が歩従し、御史台・閤門・太常寺が案内する。進呈が終わると再び安奉の場所へ戻す作法が細かく定められた。この儀は以後の進書すべての先例となったが、太上皇の聖政進呈のみ徳寿宮への儀礼が別に加わった。
  • 淳祐五年二月十二日、孝宗・光宗両朝の御集、寧宗実録、理宗の玉牒・日歴を進呈した際の記録では、皇帝が垂拱殿に出御し、提挙官・礼儀使・宗室使相・宰執以下が実録院・右文殿・玉牒所・経武閣で焼香の礼を行い、腰輿で書物を垂拱殿に運び入れ、進読・掲冊(頁をめくる作法)・指読などを経て安置する次第が詳しく記される。孝宗御集・光宗御集・寧宗実録・経武要略・玉牒・日歴の順に進読され、終わると賜茶・謝恩の拝礼を経て、両朝御集は天章閣に、経武要略は経武閣に、玉牒は玉牒所に、日歴は秘閣に納められた。

大射の礼

  • 大射の礼は五代の間に廃れていたが、太宗が有司に命じて儀注を新たに定めた。群臣の朝謁は元会と同様、酒三行の後、有司の請いにより王公以下に射を賜ることを侍中が制可した。皇帝は武弁・布に改め、殿下に七つの埒(的の列)を設け、王公が順に射る。楽県の東西廂には熊虎などの的を並べ、東階に賞品、西階には失敗者への罰酒器(豊爵)を置き、冠冕・儀式・的の位置を図に描いて帝に進めた。帝は「兵を休めたら卿らと共に行おう」と語った。
  • 苑への遊幸の折には宗室・武臣に射を命じ、帝が的に中れば従官が拝礼して觴を奉り馬を献じて祝った。射に参加した官が中れば帝から観衣・金帯・散馬を賜り、中らねば賜らなかった。苑中には射棚があり、昼は「招箭班」三十人が緋紫の繍衣・帕首で左右に分かれて中否を唱えた。賜宴の際は宗室・禁軍大校・牧伯・諸司使副に習射をさせるのが定制となり、外国使の朝見にも帥臣が射に付き添った。
  • 政和の宴射儀では、皇帝が射殿に出御し、侍宴官は公服・繋鞋、射官は窄衣で「聖躬万福」を奏して拝礼、酒三行の後、射官が弓矢を執って謝恩・拝礼する。三公以下は右に射官、左に不射者が並び、皇帝が最初の射で中れば侍立の官が拝礼、進酒の儀礼が続いた。射官が中れば拝礼して階を下り、賜品(窄衣・金帯・銀椀・鞍轡馬など)を受ける細かな作法が定められ、招箭班の役割も記された。
  • 乾道二年二月四日、玉津園への行幸で皇帝が射を終えた後、皇太子・慶王・恭王・管軍臣僚の順に射させ、四発ずつを三度繰り返し、帝は前後四回的に中てた。淳熙元年九月、玉津園に幸し従駕の文武官に宴射の礼を行わせ、皇太子・宰執以下が酒三行を経て、皇帝が的に中てると皇太子が進酒し宰執以下が祝賀した。皇太子にも射を命じ中れば賜品、参加した使相鄭藻・起居舎人王卿月・環衛官蕭図嚕拉らが中って襲衣・金帯を賜った。

郷飲の礼

  • 郷飲の礼には三種ある。『周礼』にいう郷大夫が三年ごとに賢者・能者を推挙する際の礼が一つ、党正が祭祀の後に序(学校)で民に酒を飲ませ年齢の序列を正す礼が二つ、州長が春秋に序で習射し先に郷飲礼を行う礼が三つである。後世、蜡祭や春秋の習射の礼は郡国で行われなくなり、貢士の日に「鹿鳴宴」を設けるのがこの遺風とされた。ただし古礼における賔・主・僎・介の位置や器物、席次は今の礼と異なる。
  • 現行の制度では、州軍が貢士を送る月に、知州軍事を主人、学事司の所在では提挙学事を主人として礼飲酒を行い、州官・上舎生(貢挙対象者)・州の羣老を客に迎える。この月は諸生・武士の習射も行われ、古の「序における習射」の趣旨を継ぐ。唐の貞観年間の礼は明州にのみ残存し、淳化年間に会例として行われた。政和の礼局が飲酒・降神の作法、奏楽・器用の規定を辟雍の宴貢士儀に準じて整え、古楽が残る地では古楽を用いるよう指示した。河北転運判官張孝純の建言により、諸路州郡が毎年貢士の宴とともに射礼を講じることとなり、礼官が射儀を定めた。
  • 郷飲酒の前日、州の射亭東西の序に提挙学事・諸監司・知州・通判・州学教授・出席官・貢士の幕次を設け、州の兵馬教諭が弓矢を用意する。当日、提挙学事・知州軍・通判以下が射亭で弓矢を執り、命中すれば守帖者が声を上げ、算を投げて多寡を競う投壺(酒宴の遊戯)も行い、終われば揖礼・酬酢を経て郷飲酒の礼に移る。
  • 紹興七年、郡守仇悆が田を寄進し費用に充てた。十三年、比部郎中林保の建言で郷飲の儀制を諸郡国に定めるべく、国子祭酒高閎が儀を起草したが、僎・介の位置が古制と合わず諸儒の解釈が分かれた。慶元年間、朱熹が『儀礼』により改定し、主・賔・僎・介の位置に定説が生まれた。すなわち主は州なら知州、県なら知県が東南に、賔は在地の年長者・致仕者が西北に、僎は州なら通判、県なら丞・簿が東北に、介はそれに次ぐ者が西南に、三賔は賔に次ぐ者、司正は衆望のある士、贊は礼儀に通じた士が務めた。
  • 当日、主人は賔以下を率いてまず先聖・先師に釈菜し、各々次の場所に控えた後、賔・介・衆賔が入場し、主人が祭酒・拝礼・盥洗・酌酒を経て賔に献じ、賔が主人に酬い、主人が介に、介が衆賔に酬い、順に着席する。酒が再び行われ、司正が觶を挙げて訓辞を述べ、主人以下が立ち上がって拝礼し、賔・介・衆賔が先に西から退出、主人は東から出て門外で見送る、という次第で終わる。

宋史卷一百十四