宋史卷一百十三 禮志 禮十六(嘉禮四)

宴饗の規式

  • 宴饗は倹約を示しつつ恵みを施す趣旨の行事で、宋の制度では春秋の末・仲冬・聖節・郊祀や藉田の礼が終わり巡幸から還御した際、また国に大きな慶事があった際に催した。大きな災害や凶作の年は中止した。
  • 天聖以後、大宴はおおむね集英殿で行い、次に紫宸殿で小宴、垂拱殿でさらに小さな宴を催すのが通例だったが、特別の詔があれば旧例にこだわらなかった。
  • 大宴の設営は複雑で、殿庭に山楼・排場を設けて仙人の隊列を模し、諸蕃の進貢や龍鳳の飾り物を並べ、殿上には錦繡の帷帳・香炉・銀器などを配置した。
  • 席次は宰相・使相・枢密使・知枢密院・参知政事・枢密副使・同知枢密院・宣徽使・三師三公・僕射・尚書丞郎・学士・直学士・御史大夫・中丞・三司使・給諫舎人・節度使・両使留後・観察団練使・待制・宗室遥郡団練使・刺史・上将軍・統軍・軍廂指揮使などが殿上に、四品以上の知雑御史・郎中・郎将・禁軍都虞候は朶殿に、それ以下の升朝官や副都頭以上・諸蕃使・諸道進奉将軍以上は両廡に分かれて着座した。座具(繡墩・蒲墩など)も官位により差があった。
  • 酒は九行にわたって進められ、皇帝が挙杯するたびに群臣が起立して拝礼するなど、儀礼上の細かな作法が定められていた。宴が終われば舞蹈して拝謝し退出した。

宴饗の沿革(建隆~紹興)

  • 建隆元年、広徳殿で大宴を行い酒九行で終えた。乾徳元年十一月、南郊の礼が終わった後、広徳殿で「飲福」と呼ぶ大宴を催した。開宝三・五・六・七・八年は長春節が二月にあたるため秋宴を大明殿で行った。太平興国以後は春宴を主とし、大明殿で十一回、含光殿で六回行われた。
  • 淳化四年正月、南郊礼成の大宴を含光殿で行った際、直史館の陳靖が宴の礼を厳粛にすべきことを上言し、席次の乱れや拝舞の不揃いを正すよう求めた。至道元年三月には御史中丞李昌齡も同様に宴席の規律徹底と酒食を司る役人の監督強化を建言し、いずれも採用された。
  • 咸平三年二月、含光殿での大宴を機に春秋大宴を常設化。五年には御史台の建言により起居舎人・司諫正言らの席次を朶殿に移した。十二月には内宴での宗正卿の席次を定め、翰林学士梁顥の提案で春秋大宴・小宴・賞花・行幸を四種の図に整理し閤門に伝えて遵守させた。
  • 景徳二年九月、朝会の秩序を正すための詔が出され、御史台・閤門・宣徽使などに礼容違反の摘発を命じた。大中祥符元年十二月にも宣徽院・御史台・閤門・殿前馬歩軍司に内宴での秩序維持を命じ、酔って乱れた者は退出させる規定を設けた。天禧四年、直集賢院の祖士衡が大宴の更衣の作法を上言。仁宗天聖三年、監察御史朱諫が宗室・文武の父子兄弟が共に再坐に列する際は年少者から先に退くよう提案。慶暦七年、御史が賜花を私邸に持ち帰らせる規律を提案。
  • 熙寧二年正月、閤門が集英殿での宴に召す各官署の人数を定めた(中書二十二人、枢密院三十人、宣徽院八人、親王八人、昭徳軍節度使兼侍中曹佾以下三人、皇親使相三人、皇親正刺史以上節度使および駙馬都尉各一人、翰林司百七十八人、御厨六百人、儀鸞司百五十人、祗候庫二十人、内衣物庫七人、新衣庫七人、内弓箭庫三人、鈐轄教坊所三人、鐘鼓楼十六人、御薬院八人、内物料庫九人、法酒庫十六人、内酒坊八人、入内内侍省の前後行親事官五人、皇城司職員手分二人、御史台知班十一人、灑掃親従官人員以下百人、両廊覷歩親従官四十二人、提挙司勾押官手分三人、提挙火燭巡検人員十人、快行親従官十一人、支散両省花後苑造作所工匠等四人、客省承授行首八人、四方館職掌二人、閤門承受行首以下十八人)。同年十一月、皇子誕生を機に集英殿で宴を開いた。七年九月には親王・皇親使相・枢密使副使・宣徽使・駙馬都尉を殿門外の幕次で賜宴とする詔が出され、権発遣宣徽院の吳充の建議によるものだった。
  • 元豊七年三月、集英殿の大宴で皇子延安郡王(後の哲宗)が侍立し、宰相王珪らが百官を率いて廷賀した。九年、閤門は大宴で両軍の妓女を用いず教坊の子どもの舞のみとし、王拱辰の提案で女童に代えることとした。八年、独看(宴の前日に百戯を観る儀礼)を廃止する詔が出た。修国史范祖禹は、神宗紀の草稿を進めた直後に百戯を観るのは望ましくないとして廃止を求めた。
  • 元祐二年九月、経筵で『論語』の講義が終わった際、宰臣・執政・経筵官に東宮で宴を賜り、帝が唐人の詩を自ら書して分け与えた。三年六月には春宴、八月には秋宴を、それぞれ魏王の出殯や翰林学士蘇軾の不参により中止した。以後、日照りへの祈願や集英殿での挙人試験、尚書省の火災、邠国公主の未葬などを理由に宴が何度か中止されたが、そうした場合でも閤門・朝堂に酒食を賜り、参列できない官には中使が私邸に届けた。
  • 外国使が宴に列する際の席次も定められ、大中祥符年間の崇徳殿の宴では夏国使を西廊南側、契丹の舎利従人らを東廊南側に配し、四年には甘州・交州の使者を朶殿に、夏州の押衙を東廊南に、七年には龜茲の使者を契丹舎利の下座に配するなど改定が重ねられた。
  • 大観三年、議礼局が集英殿春秋大宴の儀を新たに上申し、拝礼・起居・進酒・舞隊・再坐など細かな次第を整えた。皇帝が三老礼を伴う「飲福大宴」では、大礼の後に残った飲福酒を群臣に分け与える儀礼も行われた。
  • 紹興十三年三月三日、宴殿の設営を緋・黄の二色のみとし、文繡を用いないよう詔が出た。同年五月、閤門が集英殿大宴の儀注を新たに定めた。乾道八年十二月には、宰相経験者が入朝して宴に赴く際の茶の下賜や座具の規定を定め、行門禁衛の諸色祗応人にも紹興の例により絹花を賜ることとした。以後、正旦・生辰・郊祀・金使の見辞の折にのみ宴が行われ、大宴の規模は東京(開封)時代に比べ簡素になった。

曲宴(苑囿・遊猟の折の宴)

  • 曲宴は苑囿池籞への行幸、稲や麦の観察、狩猟などの際、従官のみを招いて催す宴で、大遼使を紫宸殿で招く場合は近臣・刺史・正郎・都虞候以上が列した。暮春の後苑での賞花釣魚の際は三館秘閣の官も列した。
  • 太祖建隆元年七月、澤潞への親征の際、河陽行宮で従臣に宴を賜り、韓令坤以下には礼賢講武殿で襲衣・器幣・鞍馬を賜った。四年四月、玉津園で従臣に宴。乾徳三年七月、皇弟開封尹・宰相・枢密使・翰林学士・中書舎人が後苑の新池に舟を浮かべ楽を奏して宴飲。同年重陽には長春殿で近臣に宴。
  • 太宗太平興国九年三月、後苑での賞花を宰相・近臣に賜り、水心殿で射を行った。雍熙二年四月、輔臣・三司使・翰林枢密直学士・尚書省四品・両省五品以上・三館学士を後苑に招き賞花釣魚・張楽賜飲・賦詩・習射を行わせ、これが曲宴の始まりとされる。同三年十二月、大雪を喜んだ帝が宰相・近臣を玉華殿に招き、自ら詠んだ雪の詩に唱和させた。
  • 真宗咸平元年二月、崇徳殿での群臣への宴で楽を用いず、二年八月には楽を用いて再宴。同年二月晦、後苑での賞花宴で「中春賞花釣魚詩」を作らせ、以後定制となった。四年十一月、龍図閣での曲宴で太宗の書や『景徳図』を観覧させた。二年十二月、尚書省五品・諸軍都指揮使以上・契丹使を崇徳殿に招いたが、明徳太后の喪により楽を用いず、契丹の膳夫五人が本国の珍味を尚食局で調理して賜った。六年七月、後苑で穀物の実りを観覧、御製の文や嘉禾図を観て飲宴、皇子も同行した。四年七月、近臣と寇準・馮拯を招いて内苑の穀物を観覧し玉宸殿で宴。十月には皇太子・宗室・近臣・諸帥を玉宸殿翠芳亭に招き稲の実りを観覧し、稲を分け与えた。
  • 仁宗天聖二年、皇太后の喪明けの宴で音楽を控えめにするよう太后が求め、皇帝が再三頼んで承知させた逸話がある。翌年上元節には景霊宮・上清宮・啓聖院・相国寺を参拝し正陽門から従官と観灯、翌日には太后が命婦を招いて観灯するのが恒例となった。夏には南御荘での刈麦、秋には瑞聖園での刈穀を観て宴を賜った。皇祐五年、後苑の宝政殿で刈麦を観た際、帝は「花を植えず麦を植えたのは農事の困難を知るためだ」と語った。嘉祐七年十二月、両府近臣・三司副使・台諫官・皇子宗室・駙馬都尉・管軍臣僚を龍図・天章閣に招き三聖の御書や飛白書を観覧させ、韓琦以下に和詩を進めさせて羣玉殿で宴、学士王珪が詩序を撰して閣に刻した。数日後には再び天章閣で三朝の瑞物を観、羣玉殿で宴、帝は韓琦に大巵の酒と禁中の名花・香薬を賜った。
  • 熙寧元年四月、御史中丞滕甫が、賜宴に病と称して不参する者を厳しく取り締まるよう建言した。二年八月、『実録』の完成を祝い垂拱殿で宴。十月には閤門儀制所が、垂拱殿の曲宴に当直の翰林学士と観文・資政・龍図・宝文・枢密直・龍図・天章・宝文閣直学士が列すべきことを整理し、翰林学士が他職を兼ねる場合の扱いも定めた。元豊五年七月、両朝国史完成を祝い垂拱殿で宴、十一月には景霊宮の祠官に紫宸殿で宴。元祐二年九月、経筵での『論語』講義終了を祝い東宮で宴。紹聖三年十一月、『神宗皇帝実録』完成を祝い曲宴、元符元年五月、伝国受命の宝を受けた際に紫宸殿で宴、宰臣以下文武の官が列した。政和二年三月の上巳の宴は国事により中止となった。
  • 大観三年、議礼局が垂拱殿曲宴の儀を上申し、拝礼・進酒・賜茶・退出などの次第を整えた。上巳・重陽の賜宴も同様の次第で行われ、皇帝の勅により宴に招かれた官が拝礼し座に着き、酒を五行進めて退出する定めであった。

巡幸・遊観

  • 天子は歳時に遊幸し、上元には集禧観・相国寺に幸して宣徳門で観灯、初夏には金明池で水嬉を観、瓊林苑で宴射を行い、大祀の礼が終われば太一宮・集禧観・相国寺に恭謝の参拝をした。近郊での閲武・観稼もあった。
  • 太祖建隆元年四月に玉津園に幸して以後十三回、九月に宜春苑に幸して以後水戦の観覧は二十八回に及んだ。大相国寺・封禅寺への幸はそれぞれ五回、龍興寺・皇弟開封尹の園へはそれぞれ三回、太清観・建隆観へは各二回、崇夏寺・広化寺・等覚寺へは各一回、水磑の観覧は八回など、記録は多岐にわたる。
  • 太宗太平興国二年二月、新たに掘った池に幸し、役卒に銭布を賜った。六月には飛龍院に以後四回幸した。三年四月、刈麦を観覧。九年正月、景龍門外の水磑に幸した際、水の清澄さについて宋琪らと問答した逸話がある。四月には金明池で水戦を観覧し、講武台で諸軍の武試を観、瓊林苑で百戯を観て金銭を撒いて楽人に争わせた。五月には南薫門を出て刈麦を観、農夫に銭帛を賜り、玉津園で観漁・張楽・習射の後帰御した。雍熙四年四月、金明池で水嬉を観、従臣に飲を賜った。淳化三年三月、金明池での競渡(舟の競争)を観、銀の甌を水中に投げて泅者に取らせ、高齢者に白金の器を賜った。九月には濳龍園に幸し、教坊使郭守忠らとの旧交を懐かしむ場面があった。
  • 真宗咸平元年八月、諸王宮に幸。二年九月、開宝寺・福聖院に幸し以後十四回訪れた。三年五月、金明池で水戯(旗を掲げ鼓を鳴らして舟で競う遊び)を観、瓊林苑の露台で百戯を観覧。九月には大相国寺・上清宮・玉津園・太一宮・玉清昭応宮への行幸が繰り返された。大中祥符八年正月、中書門下は、皇帝が正月十四日に三十余か所を巡拝したことについて、拝礼の回数が多すぎるとして簡略化を求め、詔により礼儀院が制度を定めた。仁宗景祐三年、行幸先での茶・絹の下賜規定を閤門が定めた。哲宗紹聖四年三月、車駕が新城を出る際の巡検の配備を定めた。

三元観燈(上元・中元・下元の灯会)

  • 三元の観灯は方外の説に由来し、唐以後、正月の望夜に坊市の門を開いて灯をともす習わしが続いた。宋もこれを受け継ぎ、上元の前後各一日、城中に灯を張り、大内の正門には結綵の山楼・影灯を設け、教坊が百戯を演じた。天子はまず寺観に参拝してから楼に登り、東華門や角楼で従臣と観覧し、四夷の蕃客も本国の歌舞を演じた。
  • 太祖建隆二年、上元節に明徳門楼で観灯し、宰相・枢密・宣徽三司使・端明翰林枢密直学士らを招いて宴飲、江南・呉越の朝貢使も列した。三年正月十三夜には昭憲皇太后の喪により観灯を中止。太平興国二年七月、中元節に東角楼で観灯し従官に宴を賜った。五年十月、下元節にも中元と同様に三夜灯をともした。雍熙五年、上元節は籍田の耕作のため観灯を中止した。以後、用兵や災変、諸臣の喪の際は観灯を中止するのが例となった。
  • 真宗景徳元年正月、大食・三仏斉・蒲端など諸国の進奉使に緡銭を賜って観灯宴飲させた。大中祥符元年十一月、天慶節に京城で一昼夜灯をともす詔が出、六年四月には先天降聖節にも同様に行った。天聖二年六月、降聖節の灯は中止された。政和三年正月、放灯を五日間とする詔。五年十二月、景龍門に元夕の準備をさせ、太師蔡京以下に宴と御製詩四韻を賜った。六年正月、閏月で寒さが厳しいため宴集を控え、景霊宮朝献を十四日に移すなど日程を調整した。宣和六年十二月、太師蔡京以下両府に睿謨殿での宴と景龍門での観灯を賜り、続けて太傅王黼にも宴を賜った。七年正月十八日、輔臣に観灯の宴を賜った。

賜酺(酒宴の一斉下賜)

  • 賜酺は秦に始まる。秦法では三人以上が集まって飲むと罰金を科したため、慶事の際に限り酺(宴会)を許した。唐でも一、二度行われた例がある。
  • 太宗雍熙元年十二月、詔により「王者の賜酺は恩を推し衆と楽しみを共にする趣旨であり、久しく廃れていた旧例を復興する」として酺三日を賜った。二十一日には丹鳳楼で酺を観、朱雀門まで音楽・山車・旱船が練り歩き、開封府諸県や諸軍の楽人が街に列し、耆老には楼下で酒食を賜った。翌日には尚書省で群臣に宴を賜り、詩を作らせ、さらに翌日には歌詩賦頌を献じた者数十人に宴を賜った。
  • 真宗景徳三年九月、群臣・士庶が自由に宴楽するのを御史台・皇城司が咎めないよう詔した。四年二月、五鳳楼で酺を観、宗室・近臣が楼前の露台に列し、教坊楽を奏し、父老五百人を招いて楼下で酒を賜った。二日後には宗室・文武百官に都亭駅で宴を賜り、諸班諸軍の将校には羊酒を賜った。大中祥符元年正月、致仕官も都亭駅の酺宴に赴くことを許し、朝臣で辞見前の者も会に赴くことを認めた。賜酺には内諸司使三人が事を主管し、乾元楼前の露台に教坊楽を設け、彩楼を飾った牽引車や鈞容直・開封の楽車などを配し、京畿の伎楽も加わった。中衢には木を編んだ欄を設けて坊市の店を並べ、彩幕や彫刻で飾った。
  • 天子は乾元門に御し、京邑の父老を招いて安否を問い、衣服・茶帛を賜った。五日間続く場合、初日は近臣が侍坐し丞郎給諫を特に招いて挙杯、教坊楽とともに大車・旱船が行き交い、宗室親王・近列の牧伯・旧臣らが左右の廊廡に彩棚を設け、士庶の見物で車馬が溢れた。二日目は都亭駅で百官に、宗室には親王宮で宴。三日目は都亭駅で宗室内職に、近臣には宰相邸で宴。四日目は都亭駅で百官に、宗室には外苑で宴。五日目は再び都亭駅で宗室内職に、近臣には外苑で宴。禁軍将校は毎日殿前馬歩軍の役所で会した。
  • 東封泰山の年、通過する州府の城門楼で山車・彩船・音楽を設け、従臣を侍らせ、州の父老や進奉使・蕃客も加わった。兗州駐蹕の際は延寿寺で群臣に会を賜り、通過地の門の名を改めた(兗州は「回鑾覃慶」、鄆州は「升中延福」、濮州は「告成延慶」、澶州は狭隘な行宮のため彩を結んで「延禧」と名づける、汾陰・亳州行幸でも同様)。河中府は「詔畢宣恩」、陝州は「霈澤惠民」、鄭州は「回鑾慶賜」と改称し、西京の五鳳楼は太祖創建のため瑞応を理由に改名しなかった。華陰では行宮で父老に宴、駅亭を「宣沢」と名づけた。鄭州では太宗忌日を過ぎたばかりで会は中止したが賜与は例の通りとした。亳州は「奉元均慶」、南京は「重熙頌慶」と改称した。天禧五年、畿県からの老人の招集が負担となったため、二つの赤県のみの父老を会に招き、参加しない者にも物を賜ることとした。
  • 天下への賜酺は各州府が官属・父老を集めて行い、辺境の州には中使を遣わして賜った。開封府では賜酺の日、酒に酔い人を傷つけていない罪人を釈放し、再犯は法の通り処断する定めとし、以後の賜酺もこれに準じた。宋の繁栄はこの時期に頂点に達し、後にこれが定制となった。

宋史卷一百十三