宋史卷一百三 禮志第五十六 禮六(吉禮六)

朝日夕月

  • 慶暦の制では羊豕各二、籩豆十二、簠簋爼二を用いる。天禧初め、太常礼院は監察御史王博文の言により、春分に東郊で朝日、秋分に西郊で夕月を行う礼を詳定。国語や柳宗元の説を引き、「夕」は朝拝の対をなす語であり、秋分は昼夜が等分で太陽が正午に南中し陰魄がすでに生じる時であるため、夕拝の祭を行うとした。祭祀の時刻は未の三刻とすることを定めた。皇祐五年には朝日壇の高さを従来の七尺から八尺に増やし、夕月壇も坎の深さ三尺・広さ四丈・壇高一尺・広二丈に改めた。嘉祐年間には羊豕各五に増やし、五礼新儀で壇の高さ広さ・坎の深さは皇祐の制のまま踏襲され、中興以後も同様であった。

九宮貴神

  • 太一九宮神は国門の東の郊壇にあり、四陛のほか西南にもう一陛(坤道)を設ける。九宮神壇は二成、第一成は東西南北各百三十尺、再成は各百尺、高三尺。壇上に小壇九を置き、各高一尺五寸・縦広八尺で相去ること一丈六尺。当初は中祀であったが咸平中に大祀に改め壇壝を増した。玉は両圭有邸を用い、藉は槀秸を用いる。封禅に際しては泰山下の行宮の東に別途九宮壇を建てた。景祐二年、章得象らは司天監生于淵らの請により、九宮太一の祭祀を逐年飛移する位次の法(郄良の飛棋立成図に基づく)に依るべきか議論し、唐の蘇加慶が始めて置いた九宮神壇の九位(招揺・軒轅・太陰・天一・天符・太一・攝提・咸池・青竜)の説と合わせて検討した結果、司天監一員を派遣し貴神飛棋の方位に応じて祭位を定めることとし、天聖己巳の年より太一は一宮に入り毎年一位ずつ進めて周回することとなった。慶暦の儀では毎坐籩豆十二・簠簋爼二、皇祐には壇を三成に増やした。
  • 熙寧四年、司天中官正周琮は太一経の推算により甲寅の年が陽九百六の厄会にあたるとし、五福太一を中都に迎え祀るべきと述べた。雍熙元年甲申に東太一宮、天聖七年己巳に西太一宮が建てられた経緯を踏まえ、京師に中太一宮を集禧観に建立、十太一神には通天冠絳紗袍を用いることとした。元豊中、太常博士何洵直は九宮貴神の祝文が「嗣天子臣某」と称し社稷と同格であるべきとして大祀に位置づけ直すよう求め、また牲の扱い(正配は全体を解割し各一牢を用いる、貴神九位は正坐にもかかわらず二少牢を共用していた不備)を正すよう提言、九少牢を用いることが詔された。元祐七年、監察御史安鼎は漢の太一一位祀祭と唐の九宮貴神の由来を考証し、十神太一と九宮太一が本来同一の神であるにもかかわらず牲牢の扱いが異なることを指摘、詳定の結果、両者は主る所が異なるとされ従来通り牲牢を用いることとなった。崇寧三年、太常博士羅畸は九宮諸神に燔玉のみで礼神玉がないことを指摘し、議礼局は圭璧を用いるべきとした。政和新儀では立春に東太一宮、立夏・季夏土王日に中太一宮、立秋に西太一宮、立冬に中太一宮を祀ることとし、各太一宮の殿宇の配置(五福太一・君基太一・大游太一など)や従祀神(三皇五方帝・日月五星・二十八宿・十日十二辰・天地水三官・五行九宮八卦・五嶽四海四瀆・十二山神等)が詳細に定められた。紹興十一年、太常丞朱輅・太常寺主簿林大鼎の言により、九宮貴神が屋のみで壇を持たないことが問題視され、臨安府の国城東に九宮壇壝を築くことが命じられた。十八年に太一宮が完成し、十太一位を殿上に、従祀を東西廡に配した。孝宗は本命殿(崇禧)を、光宗は崇福殿を建てた。

高禖・大火

  • 仁宗にまだ嗣子がなかった景祐四年、殿中侍御史張奎の言により髙禖の礼が詳定された。周官には明文がなく、漢志の郊祀にも記載がなく、後漢から江左にかけて概ね行われたが、儀典が明らかでないため、比較的詳しい高斉の禖祀を参照した。南郊に壇を築いて春分に青帝を祀り、伏羲・帝嚳を配し、禖神を従祀とする。石を主とし、牲は太牢、楽は升歌。祝版には天子求嗣の意を記し、弓矢・弓韣を神前に供え、祭後の胙酒を皇后が受け取る儀とした。この年の春分に遣官致祭するため圜壇(高九尺・広二丈六尺・四陛・三壝)を築き、青石の主(長三尺八寸)を用いた。皇后は禕衣で、宮嬪は朝賀衣で参列し、上香・受弓矢・飲福・解弓韣の順で礼を行った。宝元二年、皇子誕生に際し王鬷が太牢で報祠、弓矢を設けない略式を常祀とし両制官が摂事することとした。慶暦三年、太常博士余靖の言で弓矢を設けない略式が非とされ景祐の旧制に戻された。熙寧二年、皇子誕生の報祀の際、礼官の提言により壇の高広を青帝の制に合わせ、伏羲・高辛を髙禖に改めて青帝を上帝に配する形に整理し直した。元祐三年、太常寺は正位・配位・従祀の牲(羊豕・牛)の扱いの不均衡を指摘し改めた。政和新儀では簡狄・姜嫄を従配とした。紹興元年、太常少卿趙子昼は南巡以来礼文が備わらぬ中でも髙禖の祀は継続すべきと述べ、十七年には親祀が政和の儀に依って行われた。
  • 大火の祀は、康定初め南京の鴻慶宮が火災に遭った際、集賢校理胡宿が閼伯を配してその祀を修めるよう請うたことに始まる。閼伯は高辛氏の火正で商邱に居し大火を主った故事に基づき、周棄の稷配・后土の社配に准じる重祀とされた。壇(高五尺・広二丈・四陛・一壝)を建て、位牌は黒漆朱書で「大火位」「閼伯位」とし、牲は羊豕一。三月九月に南京長吏以下が三献し、州県官が摂事する。建中靖国元年には陽徳観を建てて熒惑を祀り、崇寧観に火徳真君殿を建てることが詔された。太常博士羅畸は南郊に壇を立てて靈星祭に倣うことを求め、閼伯を離明殿に従祀するとともに位を「上公」に格上げすることを提案(祝融が上公であれば閼伯も上公相当とすべきとの理屈)。さらに南郊赤帝壇壝外に熒惑壇を建て、閼伯を配し、五方火精神等を従祀とした。紹興三年、応天府への交通が困難なため行在で春秋の位を設けることとした。乾道五年、太常少卿林栗らは大辰(大火)と熒惑の祭祀が名称の扱いにおいて一貫していないことを指摘し、配位は「宣明王」の称号(閼伯=商邱宣明王)に統一するよう求めた。

夀星・靈星

  • 大中祥符二年、翰林天文邢中和は「周伯星」出現の際、その位置を亢宿間に定めるべきと提言。景徳三年、夀星の祀について太常礼院は月令・爾雅を引き、夀星は南極老人星であり秋分に南郊で祀るとし、唐の千秋節における老人星・角亢七宿祭祀の故事も参照して靈星壇の制に倣うこととした。元豊中、礼文所は角亢氐房心尾箕七位を壇下に設ける熙寧祀儀の妥当性を再検討し、後漢の南郊立老人星廟の故事に基づき、壇上に夀星一位のみを設け、七宿位は廃するべきとした。慶暦には立秋後辰日に靈星を祀り(壇東西丈三尺・南北丈二尺)、夀星壇は方丈八尺。皇祐には唐制に倣い二壇とも周八歩四尺とし、祭器の配置(籩八豆八・爼二・簠簋・象尊等)を細かく定めた。政和新儀ではさらに壇の寸法を改めた。乾興の際、靈星の祭が屠殺禁忌の日に当たり城外で屠ったことがあったが、以後は祭祀に牲牢を用いる際に禁日を避けない旨を令とした。南渡後も靈星・夀星・風師・雨師・雷師・七祀・司寒・馬祖は旧制のまま継承された。

風伯雨師

  • 諸州でも風伯雨師を致祭し、大中祥符初め、辺地の要衝以外は長吏が親祭することとした。澤州の請により風伯雨師廟を建てる儀式(唐制に倣い社壇の東西に壇を設け、羊一・籩豆各八・簠簋各二を用いる)が定められた。元豊詳定局は周礼小宗伯の職に基づき、日は東郊、月と風師は西郊、司中司命は南郊、雨師は北郊にそれぞれ兆すという四類の考え方を確認し、旧来の熙寧祀儀(風師・雨師・司中司命を国城の北・西北に集めて祀っていた)を改め、風師を西郊、雨師を北郊、司中司命司禄を南郊とし、雷師は雨師に、司民は司中司命司禄に従わせることとした。壇の規模も皇祐・政和で改定された。周礼の槱燎の祭法(升陽の煙で神を招く)に基づき柏柴を用い、鐘鼓を用いる楽の制も整えた。小祭祀には牲に羊豕を用いる原則に基づき、馬祖・先牧・司中司命・司民・司禄・司寒の各祭は少牢とし体解して供えることとした。

司寒

  • 司寒の祭は四月に官を遣り牲幣・黒牡秬黍で玄冥の神を祭り、氷を開いて太廟に薦める。建隆二年、藏氷署を置いてこの祀を修めた。祕書監李至は詩経・春秋伝・月令を引証し、開氷の祭は本来春分に行うべきところ有司の誤りで四月に行われていたことを指摘、天聖新令で春分に司寒を祭り太廟に薦氷することが定められた。季冬の蔵氷にも同様の祭を行う。元豊詳定所は熙寧祀儀の孟冬祀司寒を見直し、季冬の蔵氷時のみ享司寒とし、牲は黒牡羊・榖は黒秬黍を用いることとした。仲春の開氷には羔のみを用い、桃弧棘矢を神坐に設けないこととした(孔穎達注に基づく)。大観礼局は玄冥が水官であり天神ではないとして、燔燎を廃し祝幣を瘞めることに改めた。

  • 大蜡の礼は魏以来、王者はそれぞれ五行に応じた臘の日取りを用いるとされた。建隆初め、宋は火徳を継ぐとして戌日を臘とした。建隆三年戊戌の年、和峴が蜡の起源(伊耆に始まり歴代名称を変えつつ実質は同じ)を考証し、漢は火行に基づき戌臘とし、魏晋以降もこれに倣ったが唐は土徳のため辰日に宗廟を享し寅日に蜡を行うなど異なる。宋は戌日を臘としながら蜡は前七日の辛卯に行っていたのを改め、蜡・社稷・宗廟をすべて戌臘の一日に統一することとした。天聖三年、陳詁は蜡祭百九十二位のうち祝文に載らない十位(五方田畯・五方郵表畷)を補うことを求め、また唐諱を避けて「於菟」とされていた虎を本来の「虎」に戻すことも提案された。元豊詳定所は「八蜡は四方を祀り、年が順成しなければ八蜡を通じない」との礼記の説に基づき、歴代の蜡祭が南郊に一壇のみだったのに対し周・隋の四郊の兆に則り四郊にそれぞれ壇を築き、不順成の方は報祭を修めないこととした。政和新儀では臘前一日に百神を蜡り、四方の壇(広四丈・高八尺・四出陛・両壝)に大明・夜明・神農・后稷を配し、五星二十八宿・五官・五嶽五鎮・四海四瀆・田畯・倉竜朱鳥麒麟白虎玄武など多数の従祀神を各方位に配した。紹興十九年、東西の蜡を大祀、南北の蜡を中祀とし牲牢を用いることとした。乾道四年、王曮の請により四郊にそれぞれ壇を築き東西は日月、南北は神農を主とし后稷を配することとし、以後南蜡は圜壇で望祭、北蜡は餘杭門外の精進寺で行礼することとなった。

七祀・馬祖

  • 太廟の司命・戸・竈・中霤・門・厲・行の七祀は、熙寧八年に位版を置いた。太常礼院は禘享で七祀を徧祭することを求め、詳定所は礼祭法に基づき七祀それぞれの祭る時期(孟春は戸、孟夏は竈、季夏土王日は中霤、孟秋は門、孟冬は司命・行)と用いる爼(脾・肺・心・肝・腎)を細かく定めた。近世は禘祫の際にまとめて祭り、四時は随時享で分祭していたが、摂事の官が七旒の冕を着け廟牲を分けて一献に薦熟しない等の不備があったため、立春に戸を廟室戸外の西で、立夏に竈を廟門の東で、季夏土王日に中霤を廟庭の中で、立秋に門及び厲を廟門外の西で、立冬に司命及び行を廟門外の西で、それぞれ特牲を用いて祭ることとし、有司摂事は太廟令が摂して行い、親祀・臘享では旧礼通り徧祭することとした。政和新儀もこの元豊儀に依り、臘享・祫享には徧祭することとした。
  • 馬祖の祀典は仲春に馬祖、仲夏に先牧、仲秋に馬社、仲冬に馬歩をそれぞれ択日して祭る。壇壝は三壇各広九歩・高三尺・四陛・一壝。あわせて酺神の祀があり、慶暦中、上封事者は螟蝗の害を理由に内外で酺祭を修めるよう求めた。周礼の族師条にある春秋祭酺(酺は人物災害の神)の記述を引き、校人職の冬祭馬歩との関係が不明であることを議論しつつ、雩禜と同様に壇位を設けることとした。壇は国城西北の馬壇のそばに設け、州県では禜礼に略依った。儀では便利な場所を選び神坐を内向きに設け、尊・籩豆・酺を供え、幣は白幣一丈八尺。祝文には「蝗蝝荐生害於嘉禾、惟神降祐應時消殄」の趣旨を記した。紹興の祀令では蟲蝗の害があれば酺神を祭ることとされ、嘉定八年六月、飛蝗が臨安界に入った際には官を遣わして祭告し、両浙・淮東西路の州県で蝗が境に入った場合には守臣が酺神を祭告することが定められた。