宋史卷一百二 禮志第五十五 禮五

社稷

  • 社稷は京師から州県まで一律に祀られ、春秋二仲月と臘日に太社太稷を祭る。州県では春秋二祭とし、刺史・県令が初献、上佐・県丞が亜献、州博士・県簿尉が終献を務める。官職者が少ない場合は通攝や代官を認める。牲は少牢、礼は三献、致齋三日。祭器の数(籩豆各八・簠簋各二・爼三、正配位)や壇の規模(太社壇は広五丈・高五尺、五色土で築く)が定められている。社は石を主とし、鍾のような形で長さ五尺・方二尺。宮垣は方色に飾り、屋三門・各門二十四戟、四隅に罘罳を飾る。中には槐を植える。
  • 元豊三年、詳定所は社稷の祝版・牲幣・饌物をすべて坎に瘞めて燔燎を廃すことを提案。周礼の「血祭」の趣旨(隂祀には幽隂の物である血を用いる)に基づき、埋血を先とし、爛→熟の順に薦めるべきとした。また社稷壝内では本来北墉に向かって親祠すべきところ、有司の代拝では東向きになっていたのを正し、北墉を設けるよう求めた。牲についても、天子は太牢、諸侯は少牢とすべきところ一律少牢になっていた不備を指摘し、春秋の祈報では羊豕に角握の牛二頭を加えるよう提案。瘞玉について、開元礼にならい両圭有邸を新たに造ることも求めた。州県の社主は石を用いず不備だったため、天地の気を受ける壇として石主を用いるべきとし、州県の社主も太社の半分の寸法で石製とするよう改めた。元祐年間には登歌楽を設けることが定められ、大観年間には郡県の祭服の制度も整えられた。紹興元年には天慶観で太社太稷を祭り、臨安天寧観で望祭。紹興十四年には壇壝を築いて石主を立て、太社令一員を置いた。

嶽鎮海瀆

  • 太祖は湖南平定に際し南嶽を祭らせ、諸嶽神の衣冠剣履を新調して使者に届けさせた。広南平定の際は南海を祭り、劉鋹が偽って封じた号や宮名を除き一品服に改めた。嶽瀆・東海廟にはそれぞれ本県令が廟令を、県尉が廟丞を兼ねることとし、李昉・盧多遜・王祐・扈蒙らに嶽瀆祀文や歴代帝王碑の撰文を命じ、翰林待詔らを諸廟に派遣して石に刻ませた。太平興国八年、黄河が決壊した際は張斉賢を派遣し太牢を沈めて祭った。以後、河決の修塞には必ず致祭することとなった。祕書監李至の提案により、兵乱で祭祀が途絶えていた嶽鎮海瀆を、迎気の日に所属州で祭るよう定め、東嶽岱山(兖州)・東鎮沂山(沂州)・東海(萊州)・淮瀆(唐州)を立春に、南嶽衡山(衡州)・南鎮会稽山(越州)・南海(広州)・江瀆(成都府)を立夏に、西嶽華山(華州)・西鎮吴山(隴州)・西海河瀆(河中府)を立秋に、北嶽恒山・北鎮医巫閭山(定州)・北海済瀆(孟州)を立冬に、中嶽嵩山(河南府)・中鎮霍山(晋州)を土王日に祭ることとした。
  • 真宗の封禅の際、泰山を「仁聖天斉王」に加号し、威雄将軍を炳霊公、通泉廟を霊派侯、亭山神廟を広禅侯、嶧山神廟を霊巌侯に封じた。澶州で河瀆廟を祭り「顕聖霊源公」に進号。江州馬当上水府を福善安江王、太平州采石中水府を順聖平江王、潤州金山下水府を昭信泰江王に封じた。汾陰の祀に際し西海・汾河を祭らせた。潼関では西嶽・河瀆を太牢で祭り、華陰西嶽廟に親謁して嶽神を「順聖金天王」に加号。河中に至り河瀆廟・西海望祭壇に親謁。五月には東嶽を「天斉仁聖帝」、南嶽を「司天昭聖帝」、西嶽を「金天順聖帝」、北嶽を「安天元聖帝」、中嶽を「中天崇聖帝」に加上し、玉冊・冕服の制を詳定させた。使副が各廟に冊を奉じて礼を行った。また五嶽帝后号も加え、東を淑明、南を景明、西を粛明、北を靖明、中を正明とした。唐州上源桐柏廟を「淮瀆長源公」と改称。
  • 天禧四年、皇甫融の請により脩河致祭で竜神や星宿を増祀。仁宗康定元年、江瀆を広源王、河瀆を顕聖霊源王、淮瀆を長源王、済瀆を清源王に、東海を淵聖広徳王、南海を洪聖広利王、西海を通聖広潤王、北海を沖聖広沢王に加封。皇祐四年には王大明の言により汴口の祭河に箕斗奎など十七星を併せ祭った。同五年、儂智高討伐に応じ南海を「洪聖広利招順王」に。五鎮のうち沂山(旧東安公)は政和三年に王に、会稽(旧永興公)は政和年間に永済王に、吴山(旧成徳公)は元豊八年に王に、医巫閭(旧広寧公)と霍山(旧応聖公)は政和年間にそれぞれ王・応霊王に進封。東海は大観四年に「助順広徳王」に加号。紹興七年、太常博士黄積厚の建議で嶽鎮海瀆を四立日に東西南北に分けて祭ることとした。乾道五年、林栗の言により、渡江後は南海王廟のみ祝文が降されていたが、莱州との隔絶を理由に祭祀が絶えていた東海について、李宝の膠西での戦功を機に明州定海県の廟に八字王爵を特封し、明州で行礼するよう定めた。

籍田

  • 籍田の礼は久しく行われていなかったが、雍熙四年、翌年正月に東郊で籍田礼を行うことが詔された。有司は南郊に准じて五使を置き、耕地の朝陽門外七里に先農壇(高九尺、四陛、周四十歩、青で飾る)を築くことなどを定めた。観耕台や青城の位置、青箱の制(竹木製、九隔に分け黍稷秫稲梁大小豆大小麦を盛る)も詳定された。大礼使李昉の提案で、乗輿は玉輅に改め耒耜を耕根車に載せることとし、告廟・称賀の礼も新たに定めた。皇帝は散斎三日・致斎二日、百官は誓戒を受けず、神農・后稷の冊は学士院が撰文。雍煕五年正月、帝は衮冕を服して神農を親祭し后稷を配して三献、三推の礼を行い、赦を大いにし改元して端拱とした。景徳四年、判太常礼院孫奭の言により、上辛の郊祀と亥日の享先農・耕籍の日取りを定め直した。明道元年には冬至の親郊を罷めて二月丁未に籍田礼を行うこととした。
  • 元豊二年、京城東南に籍田千畝を定め、令一員を置き先農壇を中神倉の東南に移し、蔡河の水を引いて果蔬を植え、冬は氷を蔵した。政和元年には享先農を中祀とし有司が摂事、皇帝は耕籍のみを行うこととし、五使・称賀・肆赦を廃した。躬耕の服は通天冠絳紗袍に簡略化し、九卿以下が諸侯・庶人の耕位を摂した。禮制局が儀注を修定し、皇帝親耕籍田の具体的な次第(御坐・侍耕・従耕の位、耒席・耕牛の配置、庶人百人・耕牛二百頭・耒耜百具などの規模)を詳細に定めた。皇后は皇帝に穜稑の種を献じ、当日は左輔が御耒耜を玉輅に載せて壇所に先行、皇帝は思文殿で進膳の後、御耕位で三推、公卿以下が各々五推・九推し、司農少卿が庶人を率いて千畝を耕させた。紹興七年より先農享礼を復興し、十六年には皇帝が親耕籍田を旧制通りに行った。

先蠶

  • 先蠶の礼も久しく廃れていたが、真宗が王欽若の請により旧制を検討させた。開宝通礼では季春吉巳に公桑で先蠶を享し、尚宮が初献、尚儀が亜献、尚食が終献を務める。禮院は周礼にいう「蠶は北郊で純陰に従う」、漢では「東郊で春に桑生ずるに従う」との説を踏まえ、東郊に壇(高五尺、方二丈四尺、四陛各五尺、一壝二十五歩)を築くこととし、慶暦年間は羊豕各一で摂事とした。元豊詳定所は先蠶を天駟星とする説を否定し、始蠶の人を祀るものとして北郊に壇を移し、燎壇を廃して瘞埋のみとした。政和年間の礼局は、公桑・蚕室を築いて実際に養蚕を行い、郊廟の祭服に供する繭を得る制度(蚕室二十七、親蚕殿、繭館、織室、採桑壇など)を整え、幣は黒を用いることとした。
  • 宣和元年三月、皇后が延福宮で親蚕を行った際の儀は詳細に定められ、内外命婦の位次、鈎箱を執る役、小駕鹵簿、厭翟車での行幸などが規定された。皇后は壇に上って鈎を受け桑を採り、その後内外命婦が順に採桑(一品五条、二品三品九条)。蚕室では蚕母が桑を受け取り縷切りにして命婦に授け、蚕に洒く儀も行われた。紹興七年より季春吉巳日に先蚕を享する礼を風師の儀に準じて行い、乾道年間に中祀に昇格した。

告禮

  • 天子が出征・封禅・祠后土・謁太清宮を行う際には必ず太廟に親告する。三歳郊祀、毎歳祈榖上帝、感生帝の祭、雩祀、方丘・明堂・神州地祗・圜丘の祭には遣官告祖して配侑の意を伝える。即位・改元・御名変更・上尊号・立后立太子・皇子誕生・籍田・親征・納降献俘・朝陵・肆赦・河平・大喪・上謚・山陵・園陵祔廟・遷神主など大事の際には天地・宗廟・社稷・諸陵・嶽瀆・山川・宮観・京城十里内の神祠にすべて奏告する。儀は犠尊・籩豆各一に酒脯醢を実し、宮寺では素饌時果を用いて祝幣一献の礼。車駕出京の際は羝羊一で祭り、経路の州郡の橋梁・山川・帝王名臣陵廟には各州が香酒脯で告祭する。
  • 建隆元年、太祖は沢潞平定に際し祅廟・泰山城隍・征揚州河東で同礼を用いた。四年、太廟修葺の際に四室と本廟の土神に奏告。同年十一月、郊祀前日に東嶽城隍・浚溝廟・五竜廟・子張子夏廟などに告げることを定めた。太平興国五年十一月の北征に際しては、圜丘で天地を特牲、太廟社稷を太牢、嶽瀆名山大川を四郊で望祭し、風伯・雨師・馬祖・蚩尤禡牙・北方天王をそれぞれ祭る詳細な儀が行われた。以後、大中祥符元年の天書降下・封禅、四年の五嶽帝号加上、五年の聖祖降誕、六年の宮庭嘉禾など、歴代の重要な国事の都度、天地・宗廟・社稷・諸祠廟に奏告した例が多数記録される(明道二年の虫螟による尊号減字、熙寧七年の南郊雅飾、元符三年の日食、大観元年の受八宝、政和年間の太平告成冊・皇子冠礼・明堂建立など)。高宗建炎以後も国体に関わる事は皆告げ、紹興の和議、御集・実録・玉牒の進上、玉璽の獲得なども逐一奏告された。

祈報

  • 周官の太祝は六祝の辞で鬼神に福祥を求めた。宋も祈報の礼を継承し、祈には酒脯醢を、郊廟社稷ではときに少牢を用いた。旱蝗水潦や無雪の際には、親禱・徹楽減膳・分遣告祭・望祭などさまざまな形で祈禜が行われた。咸平二年の旱には雷師雨師を祭り、李邕の祈雨法(甲乙日に東方で壇を作り青竜を造る)を頒布。景徳三年には画竜祈雨法が刊行され、庚辛壬癸日に方壇を築き画竜を沈める儀が定められた。大中祥符二年の旱には玄冥五星を北郊で祀り、雨が止んだ後に報謝した。天聖三年には金竜玉簡の投送が煩雑になり過ぎたため簡略化を命じた。康定二年、河瀆や靈津廟への祭告や、澶州曹村埽の開削・修塞に際する謝祭も行われた。
  • 熙寧元年、帝は寺観に親幸して祈雨し、諸路にも致齋潔行を命じた。熙寧十年四月には夏旱に際し蜥蜴祈雨法(童男二十八人が青衣で蜥蜴を甕に納め呪を唱える)を行った。元豊元年、太皇太后不豫の際に輔臣以下が天地宗廟社稷や都内諸神祠に分禱し、寺観・五嶽四瀆で祈福道場を設けた。元祐年間にも同様の祈禱が繰り返され、紹興以降も苦雨・地震・積雨傷蚕などに際して天竺・霍山などへの祈禱が行われた。紹興三十二年には金主完顔亮の弑逆と金軍撤退を受けて報謝の礼を行い、嘉定八年・九年には蝗害に際して霍山や群祀に禱った。淳祐七年の大旱には天竺観音・霍山祠に禱った。