宋史卷八十二 律暦志第三十三 律暦十五

李燾の意見と旧暦の変遷

  • 乾道四年(一一六八年CE)、礼部員外郎の李燾は、統元暦が長く用いられ天象と合わなくなっていること、精密とされる大衍暦でさえ三十余年しか有効でなかったことを述べ、暦は誤差が出ないと欠点がわからず、検証されないと当否がわからないとした。
  • 仁宗朝、崇天暦が皇祐四年十一月の日食で外れ改暦が検討されたが、劉羲叟が「頒行三年で誤差はわずか、天変を理由に軽々しく改めるべきでない」と諫めて崇天暦が復用され、欧陽脩・司馬光らも遵用した。治平二年に明天暦へ改められ、暦官の周琮らは昇進したが、三年後の熙寧三年七月の月食で外れ崇天暦に戻され周琮らの昇進は取り消された。熙寧八年、沈括が主導して奉元暦に改めたが翌年正月の月食予測も外れ、沈括は弁明してこれを免れたが、識者は羲叟の言が正しかったと悟った。
  • 李燾はこのような経緯を踏まえ、暦官に精密な検討を求めるべきと述べ、福州の布衣・阮興祖が新暦(奉元暦)の誤りを指摘し局生に任じられた例、荆大声が劉孝榮と異なる推算法(太陰九道を赤道に変換する別法)を立てた例を挙げた。

荆大声・劉孝榮の乾道暦運用をめぐる論争

  • 乾道四・五年(一一六八~六九年CE)にかけ、程大昌・単時・唐孚・李木らが、太陰の九道(月の軌道)の推算精度をめぐり劉孝榮・荆大声両説の測験を求めた。裴伯寿は、劉孝榮がかつて丁亥歳四月朔の日食・八月望の月食、および去年二月望の月食の予測を外していたことを指摘し、太史局の測験体制の不備を訴えた。
  • 裴伯寿は乾道暦の欠陥を「歩気朔」「歩発斂」「歩日躔」「歩晷漏」「歩月離」「歩交会」「歩五星」の七項目にわたって具体的に列挙した(気差の測定不足、二十八宿赤道度の誤り、安南・鉄勒での日影実測との四尺余りの食い違い、朏朒の極数の不一致、陽凖・陰凖の恣意的設定、五星の実測との不一致など)。また、劉孝榮の暦法が五代の民間暦「万分暦」を三倍して三万分を日法としたに過ぎないことを指摘した。
  • 単時・汪大猷・程大昌・唐孚・李木らは、荆大声・劉孝榮が当初同じ法で乾道暦を主管していたのに、新暦の不精密が判明すると劉孝榮が阮興祖を通じて荆大声を告発するなど紛糾したこと、正月の五夜の観測比較では劉孝榮の五日がすべて外れ荆大声の五日は三日的中したことなどを報告した。詔により両者の推算を提出させ測験することとなった。
  • 乾道六年(一一七〇年CE)以降も乾道暦がそのまま用いられ、成都の進士・賈復が新暦九議を献上、太史局の李継宗らと賈復・劉大中らの月食推算の食い違いが繰り返し検証された。乾道十年、太史局の呉澤らが乾道十一年正月朔の日辰(甲申か癸未か)をめぐり議論し、李継宗の再推算により甲申朔と定まったが、荆大声はなお異説を唱え紛糾した。

淳熙暦の成立とその後の測験

  • 淳熙元年(一一七四年CE)、なお乾道暦を用いていたが、太史局春官正の呉澤の交食推算が外れ処罰された。淳熙三年(一一七六年CE)、判太史局の李継宗らが新暦七巻・推算備草二巻を撰し、紀元・統元・乾道の諸暦より精密であるとして「淳熙暦」の名を賜り、四年より頒行された。
  • 淳熙四年正月、太史局は三年九月望の太陰交食について旧暦の予測が外れ新暦が的中したことを報告した。同年、孟邦傑・李継宗らの間で五星の観測位置に食い違いが生じ、孝宗は「暦に誤差のないものはなく、この学に通じた者を民間に求めるのも難しい」と述べ、淳熙暦を当面用いることとした。
  • 淳熙五年(一一七八年CE)、金国の使者が来朝した際、金の暦(九月庚寅晦とする)と宋の暦(己丑晦とする)の食い違いが問題となり、宋側(呂祖謙による渾天儀測験)の暦法の方が天道に近いことが確認された。
  • 淳熙十二年(一一八五年CE)、成忠郎の楊忠輔は淳熙暦の粗さ(月食の観測時刻の食い違い、水星・土星・金星の運行との不一致、朔の誤差が八年に及ぶこと等)を指摘し、独自に新暦を作成した。禮部が九月望の月食を検証したところ、忠輔の新暦の方が淳熙暦より天道に近いことが判明した。同年、右諫議大夫の蒋継周は民間の通暁者を登用するよう求め、翌年(十三年)皇甫継明らも淳熙暦の不備を訴え新暦の作成を求めたが、楊忠輔・劉孝榮・皇甫継明らそれぞれの予測がいずれもわずかに外れ、この試みは一旦見送られた。

慶元暦(統天暦)の成立

  • 淳熙十四年(一一八七年CE)、国学進士の石万が、淳熙暦の元来の立元(起算点)の誤りと気朔の食い違いを指摘し、渾儀・圭表・漏刻など観測機器の不備も訴えて改暦を求めた。皇甫継明・史元実・皇甫迨・龎元亨らは石万の新暦(五星再聚暦、日法一万三千五百)も唐末の崇元旧暦の焼き直しに過ぎないと反論し、淳熙暦・石万の暦のいずれにも問題があるとした。
  • 秘書監兼国史院編修官の曾漸は、古来の名だたる暦学者(太史公・洛下閎・劉歆・張衡・杜預・劉焯・李淳風・一行・王朴ら)でさえ誤差を免れなかったとし、乾道・淳熙・慶元の三度の改暦がいずれも劉孝榮一人の手によるものであったこと、その後楊忠輔がこれに勝ったが忠輔の暦もまた検証に耐えなかったことなどを整理し、慎重な人選と測験を求めた。
  • 慶元四年(一一九八年CE)、楊忠輔が新暦を作成し、宰臣の京鏜が上進して「統天暦」と名付けられ頒行された(暦経三巻・八暦冬至考一巻・三暦交食考三巻・晷景考一巻・考古今交食細草八巻・盈縮分損益率立成二巻・日出入晨昏分立成一巻・岳台日出入晝夜刻一巻・赤道内外去極度一巻・臨安午中晷景常数一巻・禁漏街鼓更点辰刻一巻・禁漏五更攅点昏暁中星一巻・将来十年気朔二巻・已未庚申二年細行二巻、総三十二巻)。
  • しかし慶元五年七月朔の日食、六年六月朔の日食の推算がいずれも外れ、嘉泰二年(一二〇二年CE)五月甲辰朔の日食では統天暦の予測が実測より一辰半先行していることが判明し、楊忠輔は罷免され、民間の通暁者に修治を委ねることとなった。

開禧暦の成立

  • 開禧三年(一二〇七年CE)、大理評事の鮑澣之は、暦法の歴史(黄帝以来の諸暦、劉洪・祖沖之による斗分の精密化、李淳風・一行による理論の完備、五代の馬重績による調元暦の失敗例)を踏まえ、慶元三年以来の測験で統天暦が天より十一刻遅れていることが判明したのに改暦後まもなく日食予測が外れていること、演紀の起点が唐堯の時代にすぎず開闢の端でないこと、諸々の算法が繁雑化していることなどを指摘し、改暦の局を開いて通暁の士を集めるよう求めた。
  • 秘書監の曽漸も、乾道・淳熙・慶元の三度の改暦がすべて劉孝榮一人の手によっていたこと、その後の王孝礼・李孝節・陳伯祥(いずれも楊忠輔の徒)・趙達(卜筮の流)・石如愚・陳光ら諸家の技量にはばらつきがあることを述べ、鮑澣之の提案通り測験を重ねて衆説を集約すべきとした。
  • 詔により曽漸が提領官、鮑澣之が参定官となり、精算の士(劉孝榮・王孝礼・李孝節・陳伯祥らを含む)を集めて検討し、開禧新暦の議論が定まった。婺州の布衣・阮泰発が渾儀十論を献じ統天・開禧両暦の誤りを指摘したが、朝廷は木製渾儀を作らせるにとどめこれを退けた。
  • 嘉定三年(一二一〇年CE)、鄒淮の改暦の求めに応じ、戴溪を提領官、鮑澣之を参定官、鄒淮を演撰官、王孝礼・劉孝榮を提督推算官とし十四名の局生を置いて日法三万五千四百とする暦の作成が進められたが、四年春に完成する前に戴溪らが離任し中断、韓侂胄執政下では改暦の議論は下火となり、開禧暦は統天暦に付随する形でそのまま行われた。

南宋末の改暦論争(会天暦・成天暦・本天暦)

  • 嘉泰元年(一二〇一年CE)、太史局官の呉澤・荆大声・周端友らが災異の兆候に消極的であるとして弾劾され、頒暦に吉凶を説く俗信が多く記載されていることも批判された。二年五月朔の日食では草沢の趙大猷の予測が的中し太史局官が処罰された。
  • 嘉定四年(一二一一年CE)、司天生の試験制度が整備され、監察御史の羅相は太史局の日食予測の不正確さを問題視した。淳祐四年(一二四四年CE)、韓祥の求めで山林の布衣から新暦の作成者を募った。淳祐八年(一二四八年CE)、尹渙は太史局の怠慢を批判し、通暁の士を都に招くよう求めた。
  • 淳祐十一年(一二五一年CE)、殿中侍御史の陳垓は、開禧暦(成永祥らによる推算)と淳祐新暦(相師堯らによる推算)とで立春の時刻が六刻も食い違うことを問題視し、慎重な検討を求めた。十二年、太府寺丞の張湜・李徳卿が撰した暦と、譚玉が撰した続進の暦との間で日法(李徳卿は崇天暦の日法を単純に三分の一にしたに過ぎない等)・積年・置閏・節気時刻・日食推算・斗分の秒数などをめぐる齟齬が精査され、両説を折衷して「会天暦」と名付けられ、宝祐元年(一二五三年CE)より施行された(その詳細な暦法は史料に伝わらない)。
  • 咸淳六年(一二七〇年CE)、頒暦にあたり十一月三十日を冬至とし冬至後を閏十一月とする措置が、章法(十九年七閏の法)・章月(冬至と朔が同日となる法)に反すると、浙西安撫司準備差遣の臧元震が指摘した。淳祐壬子(十一年)から咸淳庚午(六年)までの十九年(一章)を検証すると、閏月は冬至の前に置かれるべきであり、冬至は十一月朔にあるべきなのに三十日に置かれ、閏月も冬至の後に置かれているため、一章の実積日数が本来の六千八百四十日より二十八日不足していると論じた。臧元震は定朔(大小の並びが不定な実際の朔)による是正案(前の十一月を閏十月とし、閏十一月を十一月とする)を示し、後漢の元和年間にも同様の誤りが改められた先例を挙げた。朝廷は太史局と対論させて太史側の説が破れ、臧元震は昇進、太史局の鄧宗文・譚玉らは降格された。
  • これにより改めて暦が作られ、咸淳六年に完成、七年に頒行された(これが「成天暦」である)。徳祐年間(南宋滅亡直前)の後、陸秀夫らが益王(衛王)を擁立し海上に逃れた際、礼部侍郎の鄧光薦と蜀人の楊某らが作った暦は「本天暦」と名付けられたが、今は伝わらない。